第八話「お代は結構です」


「わたしの若いころはね、毎日食べるのに精一杯だったのよ」

「もう70年も経つんですねえ」

「まっとうな手段ではろくな食べものは手に入らなくてね。うちは母と5人きょうだいで、皆いつもおなかを空かせてた」

 齢90近い老婆は上品そうに麺をすすった。

 彼女が注文したのは醤油味のラーメン。

 油の珠が浮いた茶色のスープから黄色い細麺が一条の竜巻のように上がり、つるつると唇に吸い込まれていく。

「それに、私はちょうど育ち盛りの年頃だったからなおさら空腹がつらくてね。でもおなかがすいたと言って泣く妹や弟が不憫で、手に入ったお芋やかぼちゃは下の子あのこたちに優先的にあげてたの。だからガリガリに痩せちゃった。今もガリガリのままね」

 老婆は自身の言葉どおり、痩せぎすで今にも折れそうな体をしていた。

 しかし、スツールに腰かけたその姿は彼女のそれからの70年間を象徴するかのように、しゃきっとした姿勢を崩さず、彼女が最も好きな食べ物を味わっている。


「出征した父は南方で戦死して、母と私がほうぼうで雑用仕事をして食べ物やお金を手に入れてた。大変だったのはうちだけじゃなかったから稼ぐ以前に、仕事を見つけるのにも骨が折れたわね。でもなんとか全員飢え死にしないで生きてこれた。あのとき、わたしより栄養摂ってた下のきょうだい達が私より先に逝ってしまったのは皮肉ね」

「ご苦労、なさったんですね」

 老婆は肯定も否定もせず、薄く微笑んでスープを口にした。

「戦後の混乱が少しおさまってようやく正規の仕事についた時にね、初めて贅沢したいと思った。それがあたたかいラーメンを自分ひとりで食べることだった」

「そのご注文いただいたとおりの味になってるといいんですが」

「なってるわよ。一口食べて驚いたの。70年近く前の、あのラーメンの味がそっくりそのまま口の中で再現されたから。だって、食べた本人だって忘れていた味なんですもの」

 メンマを箸でつまんで嬉しそうに噛む。

 その歯は間違いなく入れ歯だろう。しかし、彼女はつらくても若さで乗り切れていた頃の自分に戻って、人工の歯も生来の歯になった感覚で噛みしめることができた。

 

 顔にかかる湯気に彼女は何度も鼻をすすり、ダシにこだわる余裕のなかった時代のほぼ醤油一辺倒の粗っぽっい、そして懐かしい味つけに舌はとろける。


 最近こんなに喋ることもできなかった彼女だったが、誰もお客のいなくなったこの広くもない中華料理屋でカウンターの向こうで笑顔を浮かべる料理人に、いっぱい話しかけたい気分だった。こんな高揚、数年ぶりだろうか。


「なるとは最後まで残す派ですね」

「そうなのよ!私、このが好きでね。最後の一口と一緒に食べるの」

 実際に彼女はそうしてみせた。


 スープを飲み干すことはしない。それが彼女の時代の『常識』であり、当時のスープを飲み干すと喉がいがらっぽくなることもあったからだ。


 音を立てずに箸をすっとそろえて置くと、彼女は小さくしわだらけの両手をあわせて

「ごちそうさまでした」

 と感謝の気持ちが伝わるように告げた。


「こちらこそ最期に選んでいただいてありがとうございました」

 料理人は深々と一礼を返す。


「お勘定は―――あ、私お財布を置いてきたらしいわ。ちょっと家の者に来させますので電話を借りてもいいかしら」

 そういう老婆に料理人は小さく手を振った。

「お代は結構です。俺の気持ち、ということにしてください。それにご家族は今すごく大変だと思うんで」


 老婆は時間をかけてスツールをおりて、料理人に会釈をする。

「本当に最高の気持ちをいただきました。もう思い残すことなんてない。私、精一杯生きてやったわ。どうもありがとう」

 老婆は、とっくにのれんをしまった出入口のガラス扉まで歩き、最後に振り返って料理人にもう一礼し―――消えた。


 料理人はカウンターの上に置かれた、まったく手つかずの醤油ラーメンの丼と箸を見つめた。メニューにない昔の東京ラーメン、それが彼女の最後のリクエスト。


 時計はそろそろ次の日付に変わろうとする時刻を示していた。

 3軒隣の老婆の家から知らせが来るのは明朝になるだろう。

 それから先は、ここの店主が応対することだ。


 今日の売り上げ全てより、老婆の満足した笑みに誇らしさを感じながら、彼は厨房の掃除にとりかかった。 



(終わり)

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