第七話「地獄の酸辣麺(サンラーメン)」
閻魔大王の御前に引き出された死者は、生前の行いの善悪を綿密に審査されて極楽行きか地獄行きを沙汰される。
白い死に装束に身を包んだ男は今まさに審査の真っ最中。
男の前には見上げる高さの古風な執務卓が聳え立つ。
その向こうに更なる巨体をのぞかせるのは、黒い法官服に身を包んで帳面と笏を手にした赤ら顔の髭面。
閻魔大王は生前に伝え聞いたり、本で見た姿そのものだ。
死後の世界が本当にあるなんてなあ。
生きてるときは極楽とか地獄なんて宗教が説く絵空事だと思っていたわ。
この足が触れている石畳は本物の感触だ。時たま吹く風も肌に触れるとひんやりする。これは現実のできごとと信じるしかないや。
閻魔大王は男が産まれてから死ぬまでの記録を網羅した閻魔帳の頁を一枚一枚めくる。その音だけがあたりに響く。
そして、時たま男の顔をチラリと見た末に、にらめっこをしていた閻魔帳を閉じた。
「ううむ。お前の生涯をじっくりあらためてみたのだが、善行と悪行がちょうど同数なのじゃ。これでは行き先を決められぬ」
え、そうなの?けっこう良いことしてきたつもりだよ。悪いことしてねえかって言われたらそれなりにしたけどさ。
こういうときはよくわかんないですけど推定無罪とか言って、極楽行きにするのがお上のルールだったりしませんかい。
「めったにない事例だのう。何度見ても善行も悪業ともに見落とし無しじゃ」
腕を組んでしばらく考え込む閻魔大王。その間、男は生きた心地がしない。死んでるけど。
そこへモーター音が聞こえてきた。
ええ!これって原チャリの音じゃ?
男の推測どおり後部に出前運搬機を装備した白と緑のツートンのスクーターが男と執務卓の間に滑り込んできた。
「蓬莱軒でーす。ご注文の
スクーターから降りた男は出前運搬機の大きさではおさまらないだろ、とツッコミたくなる大きさのラーメン丼を両手で取り出した。何人分だよ、それ。
閻魔大王は
「おう、昼飯の時間じゃ。お前の行き先を決定してから食べる予定だったがこんなに審査が長引くとは思わなんだ。ちょっと食べ終わるまで待っておれ。食べたら気分も落ち着いてしっかり沙汰を出せると思うでの」
と宣言。
閻魔さまも飯食うんだね。まあ、言うこと聞いておとなしくしてたら極楽行きにしてくれるかもしれないからな。待ちますとも。
出前の青年は石畳の上にその一抱えはある丼を置くと、中身がこぼれないように張ってあったラップをピッとはがした。湯気がたつ。
「あ、閻魔様ー、このまえ丼洗わないで返したっしょ」
「う……すまぬ。つい忘れてしもうたわ」
ゴクリと喉が鳴る。
立場を忘れて数歩前に出て丼を覗き込む。生前は麺好きで慣らしたもんよ。
赤にかなり近い朱の油が丼に満たされ、その湖面をピンクのエビと丹念に刻まれた輪切りのネギが漂っている。黒いのはしいたけ、白いのは油のしみた白菜。
チラチラと覗く麺は細いストレート麺。コシがあって噛み応えありそうだわ。
あの世の風がこちら側に吹きつけるせいで、ピリッとした辛味とシュファアとした酸味の二重奏が鼻に飛び込んでくる。
鼻粘膜を刺激しまくるこの匂いを嗅ぐだけかい。残酷じゃないか。
そんな声なき抗議を無視した出前持ちは閻魔大王に
「これにアレかけるよね?」
と聞く。
アレって?
「おう、当然じゃ。たっぷりだぞ」
「承知。スリランカ産のいいコショウですよ」
と言うや、青年は手にしたコショウ瓶を数度振った。焦げ茶色のパウダーが丼にまぶされる。
冥界の風が丼に落下する前の幾粒かをさらい、男の活性化した鼻粘膜に貼りつく。
ハ……ファ……
おい、やめろ。それはやばい。
ハックショイッ!
死んでも生理現象は生前と同じ。男の大量の鼻水やつばが丼の中に飛び散った。
鼻水を垂らしたまま茫然と目線を上げるのと同時に、声が降った。
「……地獄行き」
(終わり)
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