第六話「ケータリングもやってます(後編)」
ガン ガン ガッ バキッ
トイレの薄いドアに小さな穴が空く。そこから父親の指先が伸びてきた。
陸斗は反対側の壁に背を張りつかせる。
そのとき黄色いものがチラッと視界の隅に入った。それはポケットから一部をのぞかせた黄色い折り畳まれた紙だった。
「やあ。ラーメンは好きかい?甘酸っぱい肉団子は好きかい?ごはんおいしく食べてるかい?おなかがすいたり困ったことが起きたらここに電話してね。蓬莱軒の出前はすぐ届くよ」
と知らない男の人がポケットに入れてくれた紙。今まで忘れていた。
ほうらいけんはこの家に引っ越す前に何度も行った。
たよるもののない陸斗は藁にもすがる思いでメニュー紙に書かれた番号をケータイでプッシュした。
お願い、誰か出て。
2コールでつながった。その2コールはとても長く感じられた。
「はぁい。蓬莱軒です」
あの男の人の声だった。
「あ、あの、たすけてっ」
陸斗は異常な状況の中で、顔を知ってる誰かとつながった安心感で頭が真っ白になってしまい、それ以上の説明ができなかった。
「ああ、君だね。出前の注文?」
陸斗はスーパーで何一つ喋らなかったのだが、電話の向こうはこちらが誰だかわかったらしい。
バキキィッ
ついにドアに空いた穴が広がり、父の腕が陸斗の髪を掴んで引き寄せた。
「痛い!」
ドアに顔を押しつけられる形になり、勢いで手放してしまったケータイが床に転がる。
「陸斗、もう時間だよ。父さんと母さんと逝こう。なに、そんなに苦しくないからね」
「やめて!父さんやめて!」
陸斗は父の腕に両手をかけた。
バチッ
黄色い閃光が瞬き、父の腕はギャッという悲鳴とともに穴から勢いよく撤退した。
「グガガガ、なんだ今のは。我々の嫌いな呪力だったぞ」
トイレの中で震えながら後じさる陸斗は手にしていた蓬莱軒のメニューが父の腕に触れた途端に火花と化して消えたのを見た。
陸斗は知るよしもない。そのメニューの片隅にサラサラと書き込まれた一条の魔除けの
♪♪♪♪
玄関のインターフォンが鳴る。この凄惨な状況に場違いな小鳥のさえずりにも似た電子音は階段上の信吾と亜佐美、そしてトイレに籠もる陸斗にも聞こえた。
「どうするの?」
「放っておけ。今はこの家族を仲間にすることを最優先に」
言葉が途切れた。
玄関の三和土には白い料理人服を着た青年が立ち、こちらを見つめていたからだ。
「おまたせしました。蓬莱軒ですー」
トイレの中の陸斗は、その声が今しがた電話から聞こえた声と同じだとわかった。
でもそんなことが?
信吾は柔和な笑顔を浮かべながらパタンパタンと階段を下りていった。
「あれ、鍵かかってなかったかな。出前ですか?うちは頼んでないです。よそとお間違いじゃないですか」
岡持ちを手にした
「電話があったの、確かにこの家なんてすけどねえ」
と頭をかく。
困ったのはこっちだよと肩を落とした信吾が
「頼んでませんってば。なあ」
とこれまた遅れて階段を下りてくる妻の亜佐美に確認する。亜佐美も首を横に振って否定。
「ご注文いただいたの、お子さんの声でしたけどね。おーい、おいしい中華を頼んだ子はおらんかえーーー」
片手をメガホン代わりに大声を出すシーフーに、信吾が眉根を吊り上げた。
「ちょっといい加減にしてくれませんか。警察呼びますよ」
ちょっと電話してこいとアイコンタクトされた亜佐美が奥のリビングへ行こうとする。
「子どもが必死の思いで
ひとりでに玄関の鍵がガチャリと施錠された。
「さっきも鍵はかけておいたのだが、もう一度施錠しよう。君も首を吊って縊鬼の仲間にしてあげる」
信吾と亜佐美は瞬時に負の感情の絵の具で青白く塗りたくった容貌に変じた。
シーフーはにやりと笑う。
「
「少しは我々のことを知っているようだな」
「ああ。この家の子どもが腹空かせておびえていることも知ってるぞ」
岡持ちの蓋が開くと、容積を無視して巨大な黒い中華鍋が引き出される。
その柄を握ると体の横で小さく一振り。これで鍋は持ち主の掌にしっかりと馴染む。
信吾と亜佐美の体から青白い人影が噴きだし、半実体化する。
それだけではない。奥の部屋や浴室、2階と富岡家の各所からいくつも同じような影が玄関に集まってくる。
人影はバラエティに富んでいた。そのなりも、現代と変わりない服装から羽織袴、
木綿
ただ非痛、嗟嘆、嫉妬、狡猾、憎悪の青白い化粧をその容貌に塗りたくっていることだけは共通しており、それがこの縊鬼と呼ばれる集団に属する資格なのであろう。
「お前ら縊鬼は、幸せな人間に憑りついては破滅させて仲間に引きずり込む。よくもまあそんなに増やしたもんだ」
「我々のことを知るお前は何者だ」
「蓬莱軒の料理人兼出前持ち。買い出しでは荷物持ち。今夜は妖怪封滅のケータリングを承るぜ」
言い放ち左手に握った北京鍋の外側底を、縊鬼の集団に向かってかざした。
鍋の底にじわじわと赤い文字が浮かび上がってくる。
受命於天既壽永昌(命を天から受け、これからも末永く栄えん)
信吾に憑りついていた縊鬼がそれを見て眼球がこぼれるほどに目を見開いた。
「き、聞いたことがある。この星のものならざる鋼でつくられし呪物にて」
亜佐美から離れた縊鬼は、いやいやをするように首を振りたくる。
「妖怪や闇の眷属を封滅する
陸斗のベッドに腰掛けていた無精ひげの縊鬼は周りの仲間に吹聴する。
「
シーフーの鍋の一撃が無精ひげの顔面にきれいにヒットし、青白い影は霧散する。
「誰が言ってるんだそんなデマ」
縊鬼たちは見た。鍋を振るシーフーの口元にうっすらと浮かぶ口角のひくつきを。
「やっぱり……」
「笑ってる……」
「デマじゃない……」
縊鬼の集団は宙を滑るように奥のリビングへ殺到するように逃げ出した。
「「「マジじゃないか―!」」」
「根も葉もないこと言われると傷つく」
シーフーは左腕を後方に引いてから思いきり呪文字の浮かんだ中華鍋を逃げる縊鬼たち目がけて投擲した。その顔、笑っていたような気がするが。
高速回転しながら1階の廊下の木目の壁を削り取りながら飛ぶ中華鍋は最後尾の縊鬼に命中して、パンと弾けさせた。
鍋の速度は落ちない。そのまま飛んだ鍋は縊鬼の行列を最前列の者まで消し飛ばす。
「封滅完了。戻れ」
左手をくいっと捻ると、リビングの向こうの庭に面したサッシの直前で中華鍋はターン。廊下の逆側の壁を削りながら戻ってきたところを掌でしっかり受け止める。
「お前らも元々は縊鬼に引きずり込まれた可哀想な犠牲者だったんだよな。次はまた楽しい人生になるよう生まれ変わってこい」
「もう大丈夫」と2階のトイレから助けだした陸斗を、先に運んでおいた信吾と亜佐美の横のソファに座らせた。
失神している両親にまだ警戒心を解くことができない陸斗に優しく微笑んだシーフーは掌を陸斗の額にあて
「受命於天既壽永昌」
と詠唱した。陸斗は温かい毛布にくるまれたような安心を覚えてまどろみに落ちた。
シーフーは信吾と亜佐美にも同じことをした。
3人がまどろんでいたのは実際は10分に満たない時間だったが、富岡一家が再び目覚めたときにはここしばらくの月日の不愉快な日々の記憶のほとんどが薄ぼんやりしたものになっている。
特にこの夜起きた惨劇は綺麗さっぱり洗い流されていた。
ただ一つ残されていた記憶は
「お腹が空いてるだろう。蓬莱軒の簡単ケータリング料理ができている」
「あ、料理をお願いしてそのまま寝てしまったんですね。ごめんなさい」
と亜佐美が慌てて立ち上がる。
「いいにおい!おなかすいたよ」
陸斗はシーフーの横を通り抜けてダイニングに走った。
リビング隣のダイニングテーブルには、できたばかりの料理が湯気をたてている。
「わあ!なにこれ?」
陸斗の歓声に遅れてダイニングに入った夫婦も料理に目がいく。信吾は鼻をひくつかせる。
「
シーフーは亜佐美に
「材料は冷蔵庫にあったものを使わせてもらった。失礼」
と告げた。
西紅柿鶏蛋蓋飯は簡潔に紹介すると、トマトと卵を炒めたものをご飯にかけたものである。
卵3つをボウルで撹拌、中華鍋でさらにかき混ぜる。
火がそこそこ通った、とろとろふわふわ状態のところでストップ。鍋から出す。
間髪入れず、皮を湯剥きしたトマトを8つに切り(お好みで16でもよい)、鍋で炒める。
トマト自体の汁があふれてきたら、とろとろの卵を再度鍋に投入。
塩少量と砂糖小匙1杯、お好みでオイスターソース少量。
汁気があるうちに鍋から出して、ご飯にかける。
完成。
席について食べ始める富岡ファミリー。
3人の口からそれぞれ感嘆の声が漏れる。
そして、3人は涙を流しながらスプーンで料理を口に運び続けた。
どうして涙が出るのか心当たりはない。
しかし、それをどうしてだろうとも思わなかった。
この一家の楽しい食事の時間を1秒も無駄にせず、しっかりと味わいたい。理由なく皆がそう感じている。
「今日のケータリング代金はサービス。今度店にみんなで食べに来てね」
キッチンで洗い物をする笑顔の亜佐美とそれを手伝う陸斗。
残った信吾はシーフーに、
「あの、私は何があったか、うっすら覚えています」
と告げた。
「あんたが悪いんじゃない。縊鬼に偶然捕まってしまっただけ。このことは気にせず、また奥さんと子供を可愛がってあげてね」
「はいっ。シーフーさん、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げた信吾の顔をさらに下から見上げるようにシーフーはしゃがみ込んだ。
「ところで家の保険って入ってる?」
信吾はきょとんとした顔になる。
「はい、一応」
シーフーはにっこり笑うと
「そう。よかった。じゃ、帰るね。見送りはいいよ」
岡持ち片手に玄関へ向かう。なぜかその足は急いでいる。
「そんな、玄関先まで見送りし―――」
信吾の足がリビングから廊下に差し掛かったところで止まった。
「またー」
シーフーの一声が廊下に響いて、玄関がバタンと閉じた。
新築したばかりの富岡家の1階廊下の両側の木目壁はズタズタになっていた。
家の持ち主の膝から力が抜け、そのままぺたんと座り込んだ。
(終わり)
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