第六話「ケータリングもやってます(前編)」

 富岡信吾は家路を急いでいた。

 22時をまわって街灯の明かりが届かないところは真っ暗で人通りもなかったが、反比例するかのように彼の心は明るい光で満たされている。

 彼の脳内のBGMも軽やかで朗らかなポップスがリピートされている。このまま放っておくとスキップを始めそうなほどに富岡信吾は幸せを全身で表現したい気分だった。


 36歳と2か月。手がける仕事はどれも絶好調。

 先月、同期の中で最も早く昇進した。

 妻の亜佐美は家庭と家計をしっかり守ってくれている。

 今年小学校に入った長男の陸斗も元気に成長している。

 そして、念願の新居を建てた。新築3か月のマイホームはピカピカだ。念願の書斎ももてた。

 職場も充実しているが、愛する家族の待つ新居に飛んで帰りたい。

 360度見回して隙の無い幸せっぷりの富岡信吾であった。


 古くから、好事魔多こうじまおおしという。


 富岡信吾の家路の先にも、そう。



 前方の電柱にもたれている人影を見つけた信吾は、早足を緩めた。

 見たところ自分と同世代か少し上の男性が呻き声をあげている。

 酒を飲み過ぎたのだろうか、体調がすぐれないのだろうか。

 あと1分も歩けば自宅。早く妻にただいまと言い、可愛い陸斗の寝顔を見たい。

 しかし、幸せいっぱいの者は他者にも寛容になる。

 見て見ぬふりもできずに信吾は男に声をかけてみた。

「あの、大丈夫ですか」

 このときすでに信吾の片足は見えない影に掴まれていた。しかし、本人は気づかない。

 電柱にもたれていた男はゆっくりと顔を巡らせて信吾を上目使いに見た。

 頬がげっそりと削げて、無精ひげがちらほらとのぞく青白い顔。

「―――らやましいですよ」

「はい?」

「うらやましいですよ、私には無縁だった幸せをつかんだ人が。他人が幸せでいるのを見るのがつらいです」

 男はそう言うと感情のこもってない目で信吾を凝視し、薄い唇をひきつらせた。

「特にね、あなたのように何もかもうまくいっている人に対してはうらやましいとかつらいを通り越して、憎たらしくてついつい足を引っ張りたくなる」

 信吾は通勤鞄を胸元に抱えて走り出した。まともじゃない。話しかけるんじゃなかった。

 背中にかかる声を振り払うように信吾は全速力で自宅を目指した。


 その背後をいくつかの青白い半透明の影が追い、信吾が勢いよく閉めた自宅の玄関ドアを通り抜けて入っていった。



 大学が休講だったあたしはランチタイムが終わると、近所のスーパーに買い出しに出かけた。後ろにシーフーにもつもちを従えて。

「これもゲットしたし、あとは―――あ、富岡さん」

 通路の先に富岡さんの奥さんを見かけたので反射的に声をかけた。

 数か月前まで家族でよく蓬莱軒に食べに来てくれていたのだ。立派な新築の家を建ててからはうちと距離が離れてしまったので会うのは久しぶりだった。

 富岡さんの奥さんは薄いサングラス、マスク、ショールという芸能人のお忍びみたいに顔を隠していたが、すらっとした体型とおでこのほくろで判った。

 ビクッと体を震わせて全身を緊張に固まらせた富岡さんは、あたしを確認すると

「蓬莱軒の。ご無沙汰しております」

 とぎこちなく挨拶した。

「新居建てられたって聞きました。いいですねー。陸斗君もお元気ですか」

「え、ええ」

 富岡さんはあたしとの会話を打ち切って早く去りたい様子だったので、若いけどその辺の察しは良いあたしは適当に作り笑いで立ち去ろうとした。

 その時、陸斗君が

「お母さん、これ欲しい」

 と駆け寄って、富岡さんのショールをつかんだ。その拍子にショールが床に滑り落ちた。

 富岡さんはサッとショールをつかむや慌てて首に巻くと、陸斗君の腕をグイッと引っ張ってレジの方へ行ってしまった。

 驚きのあまり立ち尽くす。富岡さんの首には人の手で締めたような赤い跡がうっすらついていたから。

「は○たの塩はメキシコ産♪赤穂の塩は豪州産♪日本の塩じゃないじゃんね♪」 

「その変な自作の歌やめなさい」

 買い物カートをひいてきたシーフーにこのことを言うべきかどうか悩んだが、間抜けな歌に気が削がれた。

 何かあれば警察に通報するよね。大学生の出番はない。


 レジに並んでいると、3つ向こうのレジで富岡さんがちょうど会計中。陸斗君はレジを通ったサッカー台でお母さんを待っている。

 ちょっと、なんでシーフーがその横にいるのよ。あたしは自分の後ろに放置されたカートを焦ってひいた。

 シーフーは膝をついて陸斗君に話しかけ始め、ハガキ大の黄色い紙―――蓬莱軒の出前メニューじゃない―――を渡した。陸斗君はそれを畳んでズボンのポケットに入れる。


「ちょっとあんた、自分の持ち場を離れて何やってたのよ」

 店への帰り道で尋ねると、シーフーは

「なんとなくあの子どもがおいしいご飯を食べてないんじゃないかと思って、うちのメニューを渡したのさ。地道な営業活動」

 と答える。両手に荷物を持たせてるのであたしはスマホと財布だけ。経営者の特権。

「母親がいるんだから、ご飯はちゃんと食べてるわよ。あの親子、富岡さんっていって、父さんがやっていた頃はお客さんだったんだ。ちょっと前に、駅の向こう側の方にマイホーム建てて、距離が遠くなっちゃってからはパッタリね」

 シーフーの指摘があったからではないが、陸斗君は以前に比べてほっそりした気がするし、元気がなさそうだった。

 それに、今思い出すと、奥さんの首だけではなく、サングラスの陰にもアザのようなものがチラと覗いた気がする。

 DVってやつかな。あの愛妻家の富岡さんが?信じがたい。



 富岡家は瀟洒な新築の家と真新しいインテリアに囲まれた地獄だった。

 ある晩を境に、信吾はふさぎ込むことが多くなり、仕事にも熱が入らず、病欠を繰り返すようになった。

 突然大きな声をあげて頭をかきむしったり、ものにあたるようになった。

 妻の亜佐美は夫の唐突な変貌に驚きながらも、献身的に話を聞いて支えようと努力をした。

 しかし、関係と状況は悪化する一方。亜佐美は実家に身を寄せることも考えたが、実家は遠方の地方で、小学校に上がったばかりの陸斗の環境を激変させることだけは避けたい彼女は居心地の悪い新居にとどまるしか術はなかった。

 誰かに相談できればいいのだが、新居の周りにはそんな深い話のできる者はいなかった。

 そして亜佐美自身も何かにおびえるような目をするようになって、夫と同様の症状に陥りはじめる。

 一人息子の陸斗は幼いながら、家庭がおかしくなったことに思い悩み、食欲が減退し、持ち前の明るさも失いつつあった。

 今は夫婦は顔を突き合わせればお互いをなじり、時には暴力をふるう事態になっている。

 陸斗には被害が及んでいないが、父も母もヒステリックに小言を言うようになり、しつけという名の暴力が始まるのは時間の問題。

 今夜も何かものが叩きつけられて壊れる音と喧嘩の声が陸斗の部屋にまで聞こえる。

 最近の彼は電気を消した自室に小さくうずくまり、耳を塞ぐことが常であった。


 トイレに行きたくなった陸斗はそっとドアを開けて廊下を静かに進む。ふと階段の上り口に青白い服を着た人影を見た。

「えっ」

 人影はすぐに消えた。気配を感じてふと振り向くと廊下の向こうの未使用の部屋に別の青白い人影がドアを開けずに入っていく。

 陸斗は部屋に戻ってドアを閉めた。何かが家にいる!

 お父さんとお母さんに言うべきだ。しかし、階下から聞こえる罵倒合戦の勢いからして取り合ってもらえると思えない。

 警察に電話?

 小学校に入学した時にお父さんから渡されたキッズケータイをランドセルから取り出す。

「この家の幸せはもう修復不可能なところまで来たなぁぁぁ。私は満足ですよぉ」

 誰もいないはずの陸斗のベッドに中年の見知らぬ男が腰かけてニタニタと笑っていた。ほっぺたがえぐりとられたように細まり、目の焦点はあってない。廊下で見た人影と同じく全身が青白い。

「うわあああ」

 陸斗は久しぶりに大声をあげた。家でも学校でも元気をなくしてぼそぼそと喋ることが当たり前になっていた自分にもまだこんな声が出せるのだと知った。

 勢いよくドアを開けて廊下に飛び出す。やはり階段を駆け下りて両親にこのことを伝えなきゃいけない。いくら夫婦喧嘩に夢中なふたりでも家に見知らぬ誰かがいることを自分が必死に訴えれば仲直りして助けてくれる。

 両親は階段の下で待っていてくれた。

 喧嘩はやめたのか、お父さんもお母さんも並んで立っている。

「お父さん、誰かいる!」

 サッカーや泳ぎを教えてくれる自慢の父は満面の笑みを浮かべた。その顔も頬はこけて、無精ひげが目立ち、そして青白い。

「そうか、陸斗にもようになったか。我が家にそれだけが集まってきているってことだね。じゃあ、そろそろ頃合いだ。みんなでやろう」

「お父さん?」

 亜佐美が信吾のあとをついだ。おいしいご飯を作ってくれて、いつも抱きしめてくれたお母さん。

「陸斗、よく聞くのよ。うちはね、幸せになんかなってはいけなかったの。うちが幸せになるのは誰かが不幸せになるということでね、それはよくないことなのよ。幸せを見せられて苦しい、つらいと思う人たちのことを考えて私達はやらなきゃいけないの」

「やるって何を?」

 信吾が右手を階上の陸斗の方にかざした。ロープが一束握られている。

「父さんと母さんと陸斗で一緒に幸せをやめよう。それにはね、命を絶つのが一番いいんだって。そうしたらの仲間になれる。さあ、陸斗。苦しくないようにお父さんが吊ってあげる」

 陸斗に出来ることは2階のトイレに飛び込んでカギをかけることだけだ。

「まあ、陸斗ったらトイレなの?」

「最後なんだ、ゆっくりさせてやろうよ、亜佐美」


 陸斗は震える指で110番した。

 ワンコールですぐに出た。

「あの、家に、家にいっぱい幽霊が出て、お父さんとお母さんが変になってて」

 歯がガタガタ鳴ってうまく説明できない。7歳の子どもには無理というものだ。

 110番の対応者はできるだけ話を聞き出そうと努力してくれたが、手がガタガタ震えた陸斗は誤って電話を切ってしまった。

 

 トン トン トン トン


 2人分の足音が階段をゆっくり上ってくる。


 コン コン コン コン


 ノックの音はやさしいがゆえによけい恐ろしい。 

「陸斗、いつまで入ってるのかしら」

「首を吊ったら好きなだけ垂らしていいんだよ」

 もう両親は完全に普通ではない。

 陸斗はトイレの床でケータイだけを握りしめて固まっていた。


 ゴツ ゴツ ゴツ ゴツ  


 ドアに2つの拳が叩きつけられる。同時にノブがガチャガチャと音をたてる。

「今からドアを破るわよ。怒られないうちに出てきなさい」

「父さんはまず陸斗から吊るすんだ。トイレの中で吊りたいのかい」


 どうしたらいいの、助けて助けてタスケテ。


 (後編に続く)

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