第五話「豪傑ご来店(後編)」

 手にした柄杓の中で波打つ液体。

「文字通りの白酒とうめいな方か」(白は澄んでいるの意)

 そう言うやシーフーは柄杓に口をつけてあおった。彼のほの白い喉がククッと動く。

 即座に柄杓を張飛に突き出す。

 中身を全て飲み干した証に底面は上。


 反射的に柄杓を受け取るものの、

「おい、俺のマネして一気に飲まなくても。度数が45あるんだぞ」

 と心配そうに言った。


 ウイスキーなどのアルコール度数が40程であることからすれば、強い酒だということは間違いない。しかも、白酒の中でも特に匂いが物理的な圧力を持つと言われる種類である。初心者などは口をつける前に鼻がやられる。


 張飛のような自他ともに認める酒豪ならいざ知らず、自分よりひとまわり体躯の小さい料理人が抵抗なくあっさりと飲むとは。

「素人が飲む時はぁ時間かけたっていいんだ。目ぇ廻って倒れちまっちゃ酒に申し訳ねえからよ」

 挑発したのは自分のくせに、相手の体を気遣う張飛、存外心根のよい男かもしれぬ。


 しかし、シーフーは張飛の心配をよそに

「俺は白より、昔ながらの製法の黄酒ホアンチュウが好みだけども」(黄色く色づいた酒。中国南西部で多くつくられる)

 と言ってのける。

「シーフー、お前この酒、飲みなれてるなッ!」

「答える必要ない」

「けっ。心配した俺が馬鹿だった。小生意気な奴」

 柄杓が大甕に差し込まれて、その中になみなみと酒が満たされる。

 軽々と嚥下する張飛。

「プフィ~、黄酒が好きだとか通ぶりやがって。ほら」

 シーフーは柄杓に汲んだ酒に鼻を近づける。

「この酒は大陸の北部や南西部のあちこちで蒸留されるけど、北方の白酒は

高粱こうりゃん、麦を麹に使って味の調和を重視したものが多いのに対し、これだけの濃厚な香りは蜀黍しょくきび由来の餅麹もちこうじでしか出せない。この香りの強さへのこだわりはまちがいなく四川モノ。醸造元は間違いなく四川省成都の全興大曲の系統」

 張飛は口の形をほおぅ、と変えてシーフーの推測を正しいと認めた。

「それも地中の窖(麹を埋めて発酵させる穴。使い込むほど良い酒になる)で何度も仕込んで蒸留を繰り返した上物でしょう」

「お前……わかるのか」

 張飛が言い終わる前に柄杓は空になって返された。

「蘊蓄はここまで」


 張飛は目の前の若造が凡百の料理人ではないことに気づき始めていた。しかし、その大きな体に見合って自尊心も高い彼は平常をよそおい、喉仏を大きく動かして飲む。

 口の端から垂れた滴を袖で拭う。 

「ふぅぅ、うまい。口から胃袋まで滑り落ちるこの熱さがたまら―――」

 ゴク

「どうぞ」

 シーフーは柄杓の柄を張飛の胸元に突きつけていた。もちろん底を上にして。


「え、もう?お前ぇ酒ってぇのは飲んだ余韻ってもんをだなぁ……」

「飲んべを気取るわりには御託が多い。掬える酒があるなら流し込め、でしょ」

「な、なぁんだっ。知った風なことっ」

 硬い髭に覆われた下あごが上を向き、シーフーに負けない勢いで流し込む。

「がふ」

 対戦相手より三割ほど広い、鍛えられた両肩が小刻みに上下した。

「ま、負けられっかぃ」

 シーフーは冷めた目で張飛を見上げる。

「いい?俺は仕込みを中断されて少しだけ苛ついている。あんたが先代の義兄弟だというからつきあってやってるんだ。あれだけ威勢のいいこと言っといてさ、この飲み比べで負けたら、あんたは俺のことを兄貴と呼ぶんだぞ」


 テーブルが勢いよく叩かれた。その反動で立ち上がった張飛はその巨体をいからせ、憤怒の感情を放射する。

「小僧!てめえいい加減にぃ」

 ゴク

 ゴク

「ほら、2杯連続。いいから飲みなよ」

 柄杓の柄が張飛の鋼のような太腿をリズミカルにつつく。

「あんたは1杯ずつでいいからさ」

「こんのガキィィィィィィ!」

 張飛は空手の瓦割りのような勢いで大甕の中に柄杓を突っ込んだ。口の両端からこぼれ出る酒お構いなしにあおる。

 シーフーは伸ばした右手の人差し指と中指だけで柄杓の柄を奪い取る。

「小僧とかガキとかいろいろ言ってくれるけど、張飛さん、あんたもう少しひとを見る目を養った方がいいよ。ひとは見かけで判断してはダメ。ゴク。さ、どうぞ」 

 軽々空いた柄杓がまたも張飛に突き返された。

 


「ごめんね、遅く―――なにこれ!酒臭っ!って張飛のおじさん!?」

 自宅に通じる裏口から店内に入ったあたしの目に飛び込んできたのは、店の床に大の字になって大いびきをかいている張飛おじさんの姿だった。

「……おじさんが酔いつぶれてるの初めて見たわ。シーフー、どういうことよ」

 厨房で牛肉のしょうが漬けの仕上げに入っていたシーフーは

「おかえり。その人に酒の飲み比べさせられて仕込みが遅れた。罰として床に放置してる」

「飲み比べって、シーフーが?あんた全然酔ってないじゃない。張飛さんって熊かクジラかというくらいお酒強いんだよ」

「熊やクジラが酒を飲むとは知らなかった」

 火にかかった寸胴の中身をひとかきまぜすると、カウンターから出てきたシーフーはそこに置いてあった大甕の中から柄杓でお酒を掬うと、あたしに飲めと差し出してきた。


「お酒なんか飲みたくないわよ」

「お酒かどうか確認してみ」

 言われるがままに、舌先で液体をつつく。あれ?

 一舐め。ん?

 そのまま飲んだ。これって。

「ただの水だわ」 

 シーフーがもう一度甕に戻した柄杓を差し出すので勢いでもう一舐め。

「うげっ。無理無理無理無理!なにこれお酒じゃん」

 口の中が中国酒の濃密な香りで満たされる。いい意味ではない。ズバリ言うと口の中がバカになりそう!

 自分用のミネラルウォーターで口を漱ぐ。


「大陸秘蔵の白酒パイジュウだって。先代と飲もうとしていたらしいけど……亡くなったの知らなかったみたい」

「張飛さんは肉の卸売業者さんでね、いい肉の噂を聞きつけると海外まで買付交渉に行っちゃって納得するまで帰ってこないの。春に、中国奥地の幻の豚肉をどうのこうのといって飛び出したきりで」

「ふーん。じゃ、もしかして蓬莱軒うちの肉は」

「そう、張飛さんの会社から仕入れてる」

 シーフーは少し驚いた風に足元の大いびきの音源を見下ろした。

「いい肉使ってるなと思ったんだ。この人の企業努力のおかげなのか」

「父さんとは料理に使う肉の哲学が一致して、兄だ弟だと言い合ってたわね。ちなみにまったくの他人だから」

 喧嘩っ早くてやることがおおげさだけど、気のいい人ではあるのよね。


 シーフーが大甕の口に濡れた布をかぶせていた。

「ところでシーフー、さっきの水とお酒……」

「飲み比べのことね。営業前に大酒飲む料理人なんているか」

 察しがついた。

「まさか自分が飲むときだけお酒を水に?」

 こういうことに術使うことを平気でやるのよ、この男は。

「ちょっと水分補給が過ぎた。おなかがチャポチャポいってる」

「営業前にお酒飲むのはよくないのはわかってるんだけど、勝負するならフェアじゃないわ」

「昔、ユーラシア大陸たいりくずーっと向こうの方イスラエルでイエスとかいう小僧が水を酒に変えたって知ってる?」

 聞いたことがあるような。

「その逆をやったのだ。酒臭いと営業できない。俺は霞で生きてる健康志向だし。おなか空かせて来るお客さんのための仕込みと、先代の弟分だという大事な人のメンツを保つのに最適な術の使いどころだったと自賛したいくらい」


 んー、まあ酒乱の気がある張飛おじさんを平和的に寝かしつける―――いびきがうるさいけど―――には確かにベストね。

「さ、のれんを出す時間だよ。このひと、朝まで起きないと思うから俺の部屋に運ぶ。寸胴の火加減見ておいて」


 張飛さんの巨体を背負うと、シーフーの体はあたしから見えなくなった。

「重いよ、臭いよ、うるさいよ……」

 とブツブツ言いながら2階に消えていく。


「兄貴!生まれた日は違えど死ぬ時は同じ日だって言ったじゃねぇか!」

 と大きな寝言が聞こえた。

 明日お線香をあげてもらおう、朝ごはんは張飛さんの分も用意しなきゃね。

 あたしは、蓬莱軒ののれんを小脇にかかえ、店先に向かった。



(終わり)

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