第五話「豪傑ご来店(前編)」

 朝が涼しいを通り越して寒いと思うようになった。

 秋はとっくに折り返しを過ぎてて、じきに世界は紅と黄色に包まれてくのだろう。

 日課にしている朝の軽いランニングを終え、蓬莱軒の裏にある自宅に戻ろうとしたあたしは、蓬莱軒2階の住み込み部屋の窓からあたしを見下ろしているシーフーと目があった。

「おはよう」

 向こうも同じ挨拶を返してきた。路上のあたしは自然と2階の彼を仰ぎ見る形で会話となる。

「なにしてんの?」

 シーフーは窓を限界まで開け放ち、その全身を朝陽に向け深呼吸をしていたのだ。

「朝ご飯」

 いちいち回答が予想の外側から飛んでくるのがこの男の面白いところであり、苛つくところだ。

「は?」

「仙人は霞を食べるって聞いたことない?」

 聞いたことはあるけど、霞ってなんだろ。霧とか靄みたいな?

 『よくわかんない』と顔に書いてあったのだろう。答えは上から降ってきた。

「元々は朝焼けや夕焼けのこと。できる限り摂取する。1日2食。1日中雨だとご飯抜き」

 その言葉を聞いて、あたしはここ1か月の記憶を手繰る。やはり。


「そういや、あんたが食事とってるとこ見たことないわ!料理の味見してるところも見たことない!」


 そう、この男が固形物を口にしたのを見たことがない。一緒に住んでいなくても毎日のように顔を突き合わせて店をやってる間柄でこれに気がつかなかったなんて。

「仙人やハードな修行するお坊さんって、自然と同一化するために五穀断ちごこくだちするでしょ、あれよあれ」

 お坊さんが荒行で断食するのは知ってるけど、数日の期限つきでしょ。あんたは無期限なのかい。

「べっつに食べられないわけじゃないけど敢えて食べる必要がない。栄養補給は霞でオケ」

 白い歯、キランと光らせるな。

 

「あんたが仙人ってわかってたつもりだけど、あらためてびっくりしたわ」

 額に垂れてきた汗をハンドタオルで拭った。

「まあ、仙人ルールでお酒やお菓子は摂っていいことになってるんだけどね」

 膝から力が抜ける。

「な、なんだそれ。お酒はお米や麦が原料。お菓子だって。それじゃ、五穀断ちしてることにならないじゃない」

 シーフーは腕組みして首を捻った。

「仙人っていい加減なんだねえ」

 あんたが言うな。

 運動すればお腹も減るただの人間のあたしはこれからシャワー浴びて朝食だ。自宅へ続く路地に入りながら

「今日は講義の後に用事があるから帰るのが少し遅くなる」

 と言い投げ、受け取ったシーフーの

「わかった」

 を背にドアを閉めた。



 店のガラス扉を必要以上に勢いよく開けるのは常連を誇りとする人間か、店に対してよろしくない用事がある向きの2種類だ。

 カウンター内の厨房で、牛肉の切り分け作業に入っていたシーフーは、入ってきた者がどちらであろうと変わらず

「すみません。まだ準備中です」

 と顔をあげることなく告げた。ランチタイムと夜の営業の間の休憩兼準備時間である。

 シーフーの断りが聞こえなかったのか、冷たい外気を大量に巻き込んで店内にズカズカと入ってきたのは日本人にしてはかなり大柄な男だった。

 男の印象を一言であらわせば猛獣。

 

 三白眼は視線の先のなにものにも穴をあけそうで、高さも幅も申し分ない鼻はプライドの高さを千言より雄弁に語っている。

 顎はどんな骨付き肉もそのまま噛み砕くことうけあいで、大きな口はへの字に結ばれている。

 そんな浅黒い顔のまわりを硬質の髭が覆っている。髭と髪の境界線は曖昧、ぼうぼうと伸びるがままにまかせた黒髪にはブラシもなかなか通らないと思われた。


 その大男の姿をもっと奇抜に見せていたのは、彼が背に担いでいた大きな甕。幼児の全身より大きなそれを担ぐことは並みの大人には難しい。

 男はシーフーをジロリと睨むと、彼を無視して探し物でもあるかのように厨房と店の奥へと虎のような視線を巡らせる。

「兄貴!いねえのか。兄貴!」

 その大きな口から発せられた声は獣の咆哮のような音量をもって店内を飛び回った。

「俺だ、帰ってきたぞ!」

 シーフーはマイペースで切り分けた牛肉へ素早くショウガのすり身を塗り付けていく。

 そこまで作業を終わらせてようやく顔を上げると、その真ん前に浅黒い肉食獣の顔があった。男は190を上回る長身ゆえカウンターを楽々越えて顔を突き出していたのだ。



「兄貴ぁ留守か?」

「兄貴、と申しますと」

 互いに近づけすぎた顔を逸らそうとしない。男にとってそれは威嚇に必要な距離であり、シーフーにとって顔の近さなどどうでもいいこと。

「蓬莱軒の主人だよ!」

「先代のことですか。夏にお亡くなりになりましたよ」

 剣呑そのものの男の顔つきが一層厳しくなった。このままシーフーの顔面を食いちぎらんばかりに歯を剥きだす。

「言っちゃならねえ冗談だな。ミンチ肉にされてえのか」

「冗談は言いませんが、それを本当だと証明してくれる現在の店主は今日は戻るのが遅くなるそうです」

「誰でえ、現在の店主って」

「先代の娘さんですよ」

「マジで言ってんのか、あの嬢ちゃんがか?」

蓬莱軒このみせを守ると言ってます。不幸なことに店主は料理が不得手なので、俺が厨房を預かってます」

 男はシーフーの目を覗き込むと、顔を離した。

「お前、不思議な澄んだ目ぇしてんな。俺ぁ兄貴に『目を覗き込んで信じられるかどうか決めろ』と教えてもらったんだが、お前の目は嘘ついてるたぁ思えねえな。で、お前誰?」

「シーフーと言います。先代とはお会いしたことはありませんが、現店主に雇われて鍋ふってます」

 生来カラッとした性格らしい。一度信じたものには気を許し、獰猛な部分はなりを潜めた。

 途端に精悍と豪快を絵に描いたような傑出した人物に早変わりする。

 こちらもシーフーに負けず不思議な男である。



「嬢ちゃん、蓬莱軒は親父の味の一代限りだと言ってたくせに、こんな経験も少なさそうな馬の骨雇って、蓬莱軒の看板守ってるつもりかよ」

 カウンター向こうの壁際のボックス席にドカッと座った男は野球のグローブの如き分厚く大きな掌で顔を覆った。

「男が一度言ったことを守れねえんじゃ、冥土の兄貴が悲しむってもんだ。嬢ちゃん、口ばかりじゃいけねえぜ。男の誇りってもんがないのかよ!」

 男の嘆きはまたも店内を駆け巡ってガラス扉を震わせた。

「彼女、まだ戻ってないのでdisるなら本人に直接お願いします。彼女は男と言われても仕方ない部分があるので敢えて突っ込まないようにします。―――あ、馬の骨と言われたのは俺ですね。これについてはひとつだけ言います。馬の骨を馬鹿にしてはいけません。あれはあれで鍋でじっくり煮込むと悪くない出汁だしがとれるんですよ」

「お前ぁ遊牧民族か!」

「そんなこともありましたっけねえ」

 いつものペースだ。

「?」

 気勢が削がれた男にシーフーは

「夜の営業始まるまでには帰るとは思いますがお待ちになります?」

 と尋ねた。

 男はグォホンと大きな咳払い。

「俺が仕事とはいえ一年も大陸で好き勝手やってる間に、兄貴が亡くなったとしたら弟分としては一刻も早く霊前で冥福を祈らなきゃならねぇ。不義理はよくねぇからな。嬢ちゃん戻るまで待たせてもらうわ」

「そうなさいますか。ではお茶をお淹れしましょうか」

 男の目が『お前それ本気で言ってんのか?』と訴えた。シーフーは茫っと見つめ返した。奇妙な沈黙。



「カーッ!茶なんて飲めるか。俺はこいつをやらせてもらうわ」

 背中に担いでいた大甕をドンと床に置いた。

 どこからか取り出した柄杓の柄で大甕に栓をしていた木板を

 ヒュッ

 と気合一閃叩くや、厚さ5センチはある板がまっぷたつに割れた。

「硬気功ですか。お見事です」

 次の瞬間、さして広くない蓬莱軒店内はむせ返るような酒精の匂いに満たされた。


「兄貴と酌み交わすために大陸秘蔵の酒を持ってきたのにようっ。こうなったら俺独りで、兄貴への献杯と蓬莱軒の今後を祝して飲み干したらぁ!」

 と言うなり男は柄杓ですくった酒をぐいっとあおった。ぼうぼうと伸びた髭にしずくが飛ぶが男は気にしない。

「プハァーッ、うまいぞ兄貴。冥土から戻ってきてろうぜぇ」

が言ってるだけの先代が亡くなったこと、信じるんですね」

「お前の目ぇ見たからな。何度も言わせんじゃねぇ」

「お会いしたことない先代の義兄弟おとうとさんを通じて、先代の器を知りましたよ。徳のあるお方だったんでしょうね」  

「そらぁそうよ。兄貴はよぅ―――」


 シーフーが男の兄貴自慢を遮るとは。

「あの、その香ばしいお酒、仕込みに狂いが出るのでご遠慮願えますか?」

 男の目に獰猛な光が戻りつつあった。直情短気を地で行っている。

「俺と兄貴、あと嬢ちゃんはぁ昔からの仲だ。お前みたいな最近雇われた

豎子じゅし(小僧、若造)風情がベテラン気取って意見すんな!」

 虎の雄叫びも相手が悪い。暖簾に腕押し、糠に釘。

「困ったなあ、濃香の白酒バイジュウは店自体に匂いがしみついてしまって、お客さんが料理味わうのに差し障りがあるんですよ」

「けっ。飯に酒はつきもの。いや、この張飛益徳はりとばしますのり

 様にとってぁ、飯は酒のつまみでしかねえな。人生、酒と喧嘩が主役よ!」


 そう言い放つと張飛と名乗る30過ぎの男は柄杓で酒をすくってもう一杯干した。

「おい、馬の骨。お前もつきあえ。中華の料理人たるもの白酒くらい呑めて当然だよなぁ」

「下戸の料理人だっていますよ」

 張飛の巨躯がひとまわり膨らんだように見えた。

「……お前いちいち癪にさわる奴だなあ。飲まねぇと兄貴の店から叩き出すぞ!」


 ふー、溜息ひとつ。

 シーフーは手を洗うとカウンターから出てきた。

 張飛と大甕の前にボックス席の椅子を引いて大股びらきで腰を下ろした。


 シーフーは張飛のごつい手から巧みに柄杓をひったくると甕から酒を汲む。

「つきあいますよ。甕から交互に柄杓で汲んで飲み比べといきましょう」

 若者が見上げる目は深く昏い虚無を湛えていた。

 さっき覗き込んだ時は澄んでいたはずだがいつの間に。


 張飛は心の片隅でシーフーを誘ったことを後悔し、ゴクリとつばを飲み込んだ。


 (後編に続く)

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