第四話「つかの間の食卓」
「今日という今日ははっきりと言わせてもらう」
切り出したのは
4年前に亡くなった主人に一番似ているのはこの長男だ。面影も言動も。
違いと言えば眼鏡の縁の色くらい。
銀縁眼鏡をすっとおさえる仕草もよく似ている。そしてその次に発せられる言葉の傲慢さも。
「僕は母さんを老人ホームに入れるのは反対だ。父さんが母さんとの終の棲家として建てたこの家で今まで通り暮らすのが最もいいことなんだ。体調のすぐれない母さんにこの家が広すぎるとしても、不便なら家政婦を雇えばいい。
その金くらいは僕が出してやろうじゃないか。それが長男、跡取りとしての僕のつとめだ」
紳一郎の言いたいことは特に最後の部分。優秀な長男として主人の期待を一身に受けてきた紳一郎は、私の面倒をみることで主導権をとりたいのだろう。
ダイニングテーブルの真向かいに座っていた次男の
「兄貴はおふくろの気持ちをわかってないよ。おふくろ、この家が建った直後におやじが死んじゃって、こんなだだっ広いところにずっと独りで暮らしてきたんだぞ。兄貴たちがおふくろを放っておくから、俺はなるべくおふくろがさびしくならないようにここへ顔出しているからよくわかるんだ。おふくろにはね、同世代の話し相手がいっぱいいるリゾートマンションに行ってくれた方が幸せなんだ」
「この家と土地を売ってか?」
「おふくろのものをおふくろがどう使おうが勝手なんじゃないの?」
紳一郎は冷笑した。
「そうだな。事業に失敗しては泣きついてくる次男にこっそり金を融通するのも勝手だな。おおよそ家と土地の売却益の一部を事業にまわそうということなんだろう?」
誠二の顔が恥ずかしさと怒りで紅潮した。
「おやじの会社を継いで最初から左うちわの兄貴と違ってこっちはベンチャーやってんだ!銀のスプーンくわえて生まれてきた長男様にこの苦労がわかってたまるかって」
紳一郎はフンと顔を逸らした。
最後に口を開いたのは末っ子の
「あのさ、お兄ちゃんたちは結局お金の話じゃん。今日家族でここに集まったのはさ、ママを今後どうすっかでしょ。わたしに名案があるよ。わたしとチビ達がここに引っ越してママと一緒に暮らすの。わたしはママの面倒を見るし、ママもチビ達のお世話をしてくれればきっとさびしくないし。これってよくない?」
この子は紳一郎の強引さと誠二のいい加減さをそれぞれ薄めて宿している。
「いい歳して語尾を上げて話すな。馬鹿に見えるぞ」
「えー、わたし、別に馬鹿じゃないしー」
「
「可愛い孫と暮らせるなんてママはとんでもなくラッキーじゃんよ」
私は駆け出しのモデルだった三咲があのハイパーリソースクリエイター?と名乗る薄っぺらい男と結婚すると言ってこの家に来たときに覚えた嫌悪感を忘れていない。既にお腹にその男の子どもがいたから泣く泣く結婚を認めただけだ。その男は2人目を妊娠させた直後に別の女をつくって出ていった。慰謝料や養育費は最初の2か月だけ払われて途絶えている。
「母さんの意見を改めて聞こうじゃないか」
その銀縁眼鏡の奥から睨まないで。
私に
傲慢でお金の力でなんでも解決しようとする事業家の長男。
いつも人に尻拭いさせてばかりいる夢追い人の次男。
自分の都合優先で享楽主義の長女。
それでも私の大切な子どもたち。
両親も夫も亡くした私に残された最後の家族。
老いて体調がよくない私のことを、子どもたちなりに考えてくれているのはわかる。
私はどうしたいの?
昔から決断するのが苦手だ。
熟考してから決断したいと思っていても、やり手の実業家だった夫はそれを許さず、苦々しい表情で私が考えを出す前に自分で決めてしまう。
そんな生活を四十数年続けて、尚更決断力が鈍ってしまった。決断するのが怖い。
夫が亡くなった後も、夫の優秀な部分と嫌悪すべき部分をそれぞれ受け継いだ子どもたちが、散発的に私にそれを思い起こさせる。
私はそういう状態になったら、別のことを提案して逃げることにしている。
ダイニングの時計を見るともうお昼の時間を過ぎていた。
「もっと落ち着いて話をしましょう。おなかすいてない?何か作るわね」
とダイニングを支えに立ち上がろうとした。
軽い虚脱感が駆け抜け、へたりと椅子に戻ってしまった。やはり老いは確実に私の人生と自由を蝕んでいるのだ。
「僕はなるべく早く決めて会社に戻りたいんだ。母さんの料理はいいから何かデリバリーしよう。金は僕が出してあげるから」
「俺、ピザでいいやー」
「あたし、今朝ピザだったから嫌。ママ、なんか別のとってよ」
「三咲、おめー朝からピザかよ。ガキいるくせにどんだけ手抜きしてんだよ」
「わたしのチビをどう育てようがいいでしょ。ねー、ママ。早くしてね」
私の体調など誰も気にしてくれないのだろうか。
ダイニングテーブルでは子どもたちのいがみあいが再開されていた。
私はダイニングの入口の電話まで時間をかけて歩き、店屋物のメニューを探した。
最初に手に取ったこのお店でいいだろう。ここ何か月かご無沙汰だけどおいしいお店だった。
「はい、蓬莱軒です」
若い男性の声。どことなく茫としているけど注文して大丈夫かしら。
「あの―――」
と言いかけて子どもたちに何を注文するか聞いてなかったことに気づいた。
後ろを振り返って声をかけたが、3人は家と土地の処遇を巡る口論に夢中で私の存在すら忘れてしまったみたいだ。
「もしもし?」
「あ、ごめんなさいね。ちょっとメニューがわからなくなっちゃって」
「ずいぶんにぎやかですね」
「ええ。議論好きな子どもたちなのよ」
「もめてます、ね」
余計なことを言う店ね、前に注文した時はもっと年のいったご主人だったけどアルバイトかしら。
「お恥ずかしいわ」
「ご注文は決まりそうですか?」
「何かおすすめはあるのかしら」
「……家族のいさかいを鎮める蓬莱軒スペシャルメニューなんていかがです?」
見も知らぬ店員にここまでズバリと指摘されて怒っていいはずなのに、不思議と相手のペースにはまった。
「そんなお料理があるの?」
「ございますとも。召し上がっていただいている間、皆さま穏やかになりますので、その間に今お悩みのにぎやかな議論をまとめられてはいかかでしょう。ただし、ワケアリが2つ」
「何かしら」
「料理が冷める頃合いになると少し反動があります。穏やかだったぶん、感情の振り幅が大きくなるのです」
「反動?」
「アツアツのうちにお話をまとめてしまえば問題はありません。それともうひとつのワケアリは」
私は店員の言葉を待った。
「中華料理じゃないんですよ」
私は私の存在を無視して持論を押しつけあう子どもたちに閉口しながら、お茶を淹れ替えたりして出前が来るのを待った。
インターフォンが鳴った。ダイニングのモニターが点灯し、岡持ちを持った青年が映った。先ほどの電話のひとね。
「ほら、母さん。代金だ。誠二、玄関に取りに行ってくれ」
紳一郎が人差し指と中指で挟んだ一万円札を差し出す。
「俺トイレ。ずっと我慢してたんよ」
ダダッとトイレに向かう誠二。紳一郎は、社長で、金を出した自分が出前なんか受け取りに行くわけないだろう、と全身で物申している。
「じゃあ、三咲―――」
三咲は椅子の上で片膝立ちでスマートフォンをいじるのに夢中だった。
「ママ友から連絡来ちゃった。スルーするといじめられっから、無理ー」
私は今度は力が抜けないように注意深く立ち上がって玄関に向かった。
玄関の壁に片手をついたままの私を見た店員さんは
「運びましょうか?」
と言ってくれた。私は自分が運ぶ途中に転倒するかもしないと思い、お願いすることにした。
転倒したら子どもたちは私のことを心配するのが先か、ぶちまけられた料理の掃除に舌打ちするのが先かを想像しかけてやめた。
「毎度どうも。蓬莱軒です。お料理をお運びしました」
店員さんが岡持ちから料理のお皿を並べている間は、子どもたちも議論を中断する。世間体だけは人一倍気にするのだ。
「食べ終わった器は玄関先に。またお願いします」
店員さんは帰り際、私の耳に
「アツアツのうちにお話をまとめるんですよ。お客さんの決断を素直におっしゃればいいんです」
と囁いて帰った。
「蓬莱軒って中華っぽい名前なのに、和食ー?」
「それも家庭の朝飯そのものじゃないか」
「どういう了見でこんなものを注文したんだい、母さんは」
私はぎこちない笑みを浮かべて
「たまにはこういうのもいいじゃないの。いただきましょう」
と言った。
あの冷徹な紳一郎の呆けた顔を見るのは何十年ぶりだろう。
その箸にはさまれた卵焼きがもたらした奇跡。
「うまい……な」
「この味噌汁、懐かしい!」
お味噌汁―――私と夫は秋田の同郷出身で秋田味噌が定番。その麹の割合の高い辛口の赤褐色の味噌汁は家族が全員で食卓を囲んでいた頃、皆が飲んでいたものだ。
あの店員はどうしてそれを知っていたのだろう。偶然?
「ねえねえ、この肉じゃがさ、最高じゃね。昔ママが作ってくれたのとおんなじー」
三咲は思いっきり頬張っておたふく風邪のようだ。ああ、本当におたふく風邪になったときは大変だったな、と思い出した。夫は仕事だと言ってずっと帰宅しなかったのも一緒に思い出してしまったが。
糠漬けの胡瓜を噛んだ。間違いない、私が若い頃に趣味にしていた糠床の漬物と瓜二つの味だ。もう戻ってこない希望に燃えていたあの頃を思い出す。
「父さんはいないが、30年前の食卓に戻った気分だ」
「お兄ちゃん、まだわたし産まれてないんですけどー」
「俺、朝はパンが良かったんだけど、こうして今食うと日本の飯は米だな米!」
ご飯もきっと炊きたてだ。噛むと甘味が口内に満ちる。絶妙な水加減と火加減で炊いたものだ。電気炊飯器で炊けるしろものじゃない。
「なんかー、こうやってみんなでご飯食べるのって悪くなくね?」
「三咲、語尾を上げて―――まあいい。よく噛んで食べろ」
「はーい」
ああ、幸せな食卓というものはここにあった。この子どもたちが笑顔で食卓を囲むことなんて2度とないと思っていた。
誠二は私の料理を食べて喜んでくれる時もあるが、それはお金を渡すまでの話だ。
蓬莱軒のスペシャルメニュー、家族の団らんを取り戻してくれてありがとう。
あとは私自身が決めた希望を子どもたちに告げる番。
そうすれば、子どもたちは素直に耳を傾けてくれる。その雰囲気は確かにあった。
それで、私はどうしたいの?
この独りで住むには広すぎる家でヘルパーにお世話になりながら暮らす?
家と土地を処分して寂しさを感じない高齢者用リゾートマンションでお友達を作る?
血を分けた家族とにぎやかに同居して孫たちの面倒を見続ける?
それとも―――。
なかなか決断はできなかった。
ここで家族から決断から遠ざけられていた弊害が出てしまった。特に夫の、何も決められない愚妻という評価が私に強くのしかかった。
できない、言い出せない。皆に気がねしてしまう自分を押しのけられない。
気がつくとお料理が運ばれてから小一時間近くが経過していた。
夢の時間は終わりを告げ、店員さんが言っていた反動が襲ってきた。
私はあの店員さんの教えてくれた解決策をむざむざとり逃してしまったことになる。
3人の子どもたちは昼食前にも増して口角泡を飛ばす自己主張のぶつけ合いに突入していた。その内容は母である私の将来の話ですらなく、自分達が過去から腹に溜めてきた泥のような憎しみにまで発展していた。
「兄貴だけいい大学行かせてもらって、おやじの椅子にあっさりと座り込んだ。俺や三咲はその陰でチャンスすらもらえなかったんだ」
イライラした誠二がタバコをふかして嫌煙家の紳一郎の顔を歪める。もちろんわざと嫌がらせをしているのだ。
「バカなことを言う。父さんはお前達にも平等であろうとした。その期待に添える学力がなく、浪人を繰り返した挙句にわけのわからない大学で学生企業家を目指すと言ってはサークル活動にうつつを抜かしたお前に何があるというんだ。その間、僕は長男の重責を背負って必死に父さんの事業を引き継いでいた」
「ちょっとー誠二お兄ちゃんが口ばかりなのはそのとおりだけど、わたしは元々なりたかったモデルになったんだから一緒にしないでよー」
「うるせー、すぐ出来婚して引退した二流モデルのことなんか誰が覚えてるもんか」
「僕からすればどっちもどっちだ」
「紳一郎お兄ちゃん、私の友達のことお金積んで口説いて捨てたっしょ。そのうちいろいろ証拠もって会社か家に行くって言ってたけど、しーらない。きゃははは」
「あの、3人ともやめなさい。きょうだいでそんなこと言い合っちゃいけないわ」
「母さんは黙っててくれるかな。黙って僕に従えばいいんだ」
「おふくろ、ひとの心配する前に実際どうしたいんだよ。
年とった割には自分の意見もないのな」
「ママー、あたし絶対ここに越してくっから。今度彼氏にも部屋貸していい?」
私にも反動が来ていた。
決断を封じられ、流されるだけの人生。
自分のことなど誰も気にしてくれない。
そんな虚無が心に穴を広げていた。
『その金くらいは僕が出してやろうじゃないか。』
『行ってくれた方が』
『ママを今後どうすっか』
『とんでもなくラッキーじゃん』
『僕はなるべく早く決めて会社に戻りたいんだ。母さんの料理はいいから何かデリバリーしよう。金は僕が出してあげるから』
『俺、ピザでいいやー』
『あたし、今朝ピザだったから嫌。ママ、なんか別のとってよ』
『ねー、ママ。早くしてね』
『ほら、母さん。代金だ』
『ママ友から連絡来ちゃった。スルーするといじめられっから、無理ー』
『黙って僕に従えばいいんだ』
『年とった割には自分の意見もないのな』
『今度彼氏にも部屋貸していい?』
子どもたちが私の心に突き刺して反省すらしない、ひどい言葉の数々。
そして、その子たちの父親もまた―――
仕事と称して帰宅しない
収入のごく一部しか家計に入れてくれず、社長夫人として惨めな思いをした
愛人をつくっていたのも1度や2度ではない
私の両親が亡くなった時も仕事と言って葬儀に顔を出さなかった
愛人のことを突きつけると開き直られた
私を妻としてなんか見ていなかった。
私の家族。
とうに亡くなった両親は別として、ひどい夫ももういない。
残ったのは私と夫の血をひいた子どもたちも。
3人の子どもたちには家族はいる。その家族のために、今も目の前で殺気だった口論に明け暮れている。
しかし、彼らの言う、家族には私は入っていない。
家族のために必要な資産を有しているだけの存在
私は家族だと思っていた者達に裏切られ、天涯孤独。
そう思うとあの憎らしい夫が建てたこの家が無性におぞましいものに思えてきた。
この家があるからいさかいが起きる。
この家があるから私は夫から受けた傷を癒すことができない。
ならば、こんなものはいらない。
口論に夢中のダイニングテーブルでただ一人透明人間になった私は、誠二のライターを掌に納め、また力を込めて立ち上がった。
よろよろと台所へ向かう。
誰一人気にかけてくれることはなかった。
液体で浸った台所の床。
握ったライターの小さな炎は、家族への訣別のお灯明。軽く震えてる。すこしはこの家と過ごしてきた年月に未練はあったのかもしれない。
5本の指が開かれた。
「えええ!」
蓬莱軒の店内で朝刊を見たあたしは大声をあげてしまった。
父さんの時代に時々出前の注文をしてくれていた隣町のお宅が昨日午後にほぼ全焼したという記事があったからだ。幸い死傷者ゼロ。
「シーフー、昨日ここから出前の注文受けていたよね」
焼き豚をストンストン切っていたシーフーは首だけ上げると
「ああ。家族のことでもめてたね―――アツアツのうちのチャンスを活かせなかったのかあ」
「あん、チャンス?」
「チャンスを活かすのはその人の勇気だってこと。それよりも出前した器も全焼しちゃったんだろうな。もったいないね」
(終わり)
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