第三話「邯鄲(かんたん)の夢は甘いか辛いか」
「お待たせしました。日替わり定食です」
店員―――
「ごゆっくり召し上がって下さい」
店の奥の方へ引っ込んでいく背中との距離を測りながら俺の『ゲーム』は始まった。
あらかじめ注文していた瓶ビールとグラスを通路側になるテーブルの右端へとずらす。
手酌で注いだグラスのビールはほとんど口をつけてない。
早く飲まないと気が抜けて美味くないと思うだろ?
いいんだ、飲まないから。
俺の冷静さは鼻に侵入してきた湯気と香りに唐突にかき消されそうになる。
頬が緩みそうになるが、意識して引き締める。無意味に表情を変えないほうがいいのだ。
できる限り無表情を貫く鉄則を忘れるな。
ランチ限定の日替わり定食は、エビと卵の炒めものをメインに、
甘味と辛味が一品ずつ。ごはんとスープはその中間でどちらの味方にもなれるようスタンバイしていた。
箸でつまんで、口に運ぶ前に観察する。
薄桃の肌をした
なんかエロいね。
まあ、俺はなんでも食っちまうんだけどな。
エロい彼女はくちの中で余すところなくその弾力ある肌を堪能させてくれる。プリッとした柔肌の彼女をモノにしようとする攻撃的な犬歯を絶妙な反発で押し返す。たまらんね。
俺は奥歯で少しずつ彼女の抵抗を押し切る。じっくりと味わわせてくれ。
この噛み応えはエビと卵の組み合わせならではのものだ。甘さと瑞々しさが同時に口内を満たす。
俺は彼女の残り香を楽しむように意識して噛む。
喉からつながる胃袋も彼女を欲しがっているが、もう少し待てや。
俺は詩人でも作家でもないし、いつもこんな馬鹿げた妄想してるわけじゃない。
このどこにでもあるような中華料理屋のランチごときで大げさなことだと自分でも呆れてる。
しかしな、下町じゃあ滅多にお目にかかれない料理の魅力を『うまい』の一言で表すのはもったいないと思ったんだわ。
大学ん時にかじった演劇辞めてからは封印してた脳内ポエムを再起動させやがった張本人―――カウンターの奥で仕込みに集中している若い料理人を軽く睨む。
千円でお釣りが来る値段の定食ひとつで、痛々しいくらいの妄想を引き起こすあの料理人の腕前。なかなかのもんだと認めてやろう。
おっと、視線や態度で人の注意をひいてちゃダメだ。俺は『ゲーム』に勝たなきゃならないからな。
箸で他の彼女を掻き出して、もう一度味わう。
たまらねえな、この食欲を満たしながらさらに煽ってくる感じ。
ご飯を一口。これで彼女の誘惑をいったん断ち切る。
接待で行った高級中華料理屋に味は負けず、コストパフォーマンスでは圧勝。
蓬莱軒だっけ?
初めて来た店だが大当たり。2度と来ることがないのは心から残念に思う。
さて。
『ゲーム』はここからが本番だ。
ランチタイム終わりかけの店内、客は俺ひとり。
ここで料理を全て平らげてしまうと、店員は俺に意識を向けるから、炒め物とご飯を少しだけ残しておき、飲まないビールに口をつけたふりをする。もう少しいますよアピール。
今日のランチ営業が終わり、店員の女の子はこれ以上の来客がないとみたか、
「シーフー、ちょっと奥片付けてくるね」
と消えた。
「わかった」
ボソリと答えた料理人―――シーフー?本場の人?―――は夜の営業の仕込みに余念が無いのか、まな板の上での作業に没頭したまま。こちらには背を向けている。
俺を見ている者は皆無。
横開きのガラス扉に最も近い席。ガラス扉は指をひっかけやすいように隙を見て3センチ程度開けておいた。
店の前の道を走る車の音なし。通行人の気配なし。
ビールを音を立てずに全て床にあける。黄色い池の一番奥と一番手前にそれぞれ瓶とグラスを置いた。
トラップ設置完了したら即行動。
あらかじめテーブルから距離をあけて座っていたため、椅子をずらさずに席を立ち上がれる。
ガラス扉を体ひとつ分だけスライドさせて―――
一気に外に躍り出た。
風が全力疾走する俺の左右を勢いよく通り抜ける。
既に遠くなった店の中から
「食い逃げ!逃がキャー」
までは聞こえた。
ビール池で転んだか、もしくは池をジャンプして着地しそうなところに配置した瓶かコップに足をとられたか。
哀れな女の子の運命を想像しながら、あらかじめ計画していた逃走コースの数ブロックを全力で駆け抜けた。
今日も『
別に飯代に事欠いてやってるわけじゃない。平日はリーマンやっててそこそこ給料もらってる。
ハードに働く現代社会の歯車の俺達は結構なストレスをためてる。そこで、たまったもんは何かで解消だ。
もちろん戦略も欠かせない。
人が途切れない繁華街の店や監視カメラのあるチェーン店を狙わず、個人営業の店をターゲット。
通報はされるだろうが、千円もしない程度の被害の事件を執拗に捜査するほど警察も暇じゃない。
小一時間くらいの間は、近隣の交番の警官と鉢合わせるかもしれないので、リバーシブルの上衣と帽子とメガネで変装。
あの町には当分―――少なくとも半年は近づかない。
これが食い逃げ撤収のベストプラクティス。真似しちゃダメだぞ。
とりまストレス解消できたし、明日から仕事がんばろっと。
蓬莱軒か。マジうまかったな。
また食べに行きたいけど……こればっかりは仕方ない。
『ゲーム』は一期一会ッスからね。
月曜日。
満員電車から吐き出されるように降車して、そのまま駅直結のオフィスビルに入る。
午前の会議で寝ないようにしなくちゃ。
エレベーターを降りると、すれ違いに誰かが乗っていった。
うちの会社に似つかわしくない白い服。出前持ちだったように見えたけど。
「あ?」
このフロアはうちの会社の専有で、IDカードを持ってないと降りられない。
そして今日は会議の準備をする俺が一番早い出社のはず。
とっさに振り返ったが、エレベーターの扉は閉まってケージは地上階へ向かっていた。
午前の会議。
会議の準備を全うして早すぎる達成感に包まれた俺は睡魔に襲われていた。
「ということ我が社は選択と集中の方針に基づき―――」
課長の声が遠くなるぅ。眠っちゃダメだ。眠っちゃダメだ。眠っちゃ……。
「ただで食べた日替わり定食はおいしかったのかね!」
ガタッ!
その場で直立不動になった。一同の視線が突き刺さる。
目だけを動かして左右を窺う。今のセリフは脈絡がなさ過ぎ。幻聴だったのか。
説明を遮られた形の課長が、なにごとか?と不快感を露わにして睨んできた。
「し、失礼しました」
冷や汗が全身から噴き出るのを感じながら、慌てて腰を下ろす。
課長は咳払いした。
「続けます。有限の経営リソースは先鋭的に新事業に振り分けていくことが重要であると考えており―――」
えらいリアルに聞こえたんだけど。
ランチタイム。
同期の村田とメシ。立ち食いステーキ屋でガッツリ。
「お前、会議のとき突然どうしたのよ」
村田はナイフでギコギコと切りにくい肉と格闘しながら訊いてきた。
「すげ恥ずかった。
「バカスwww」
「資料作りと会場セットまでは完璧だったのになぁ」
「まあ、お前のアレ以外はうまく役員の承認とれたことだし、企画の成功を祝して今夜キャバ行かね?」
「お、いいね」
と賛成しようとした時、なにげなく厨房の焼き場に目をやった。
白い調理服を着た男と目が合った。ん、どこかで……。
この立ち食いステーキ屋の料理人の制服は薄茶色の上下。白い奴なんていない。じゃあ、あの厨房に立ってるのは?
昨日の中華屋の料理人、シーフーだっけ。あいつだった。
あ、出社時にエレベーターですれ違ったのも。
シーフーはニッと微笑んだ。しかし、目は口元と別の生き物のようにただ静かに俺を見つめるだけだ。
なんで下町の中華料理屋がこのオフィス街にいる?
「む、村田。ワリぃ、先戻る」
注文したステーキにはほとんど手をつけてなかったが千円札を村田に握らせて、小走りに店から出た。一目散にオフィスへ戻る。
サラリーマンにとっては、場違いなシーフーの登場よりも、身元がバレたかもしれないという恐怖が勝った。
ストレス解消のゲームが理由で職を失うなんて馬鹿げてる。
退勤。
キャバクラの誘いは断った。そんな気分じゃない。
前後左右を警戒しながら電車に駆け込んだ。
シーフーに尾行されている気配はなかった。あのバイトの女の姿もなかったと思う。
「げ!」
隣の車両でつり革につかまっているのは
ちょうど途中駅で停車していたので、ドアが閉まる直前に飛び降りる。
電車の中にいるシーフーを確認して駆け出した。
駅前でタクシーを拾った。何度かランダムに行先を変えてアパートに辿りついた。
勤務先はバレたかもしれないが、自宅まで突き止められるのは御免だ。
自室。
シャワーを浴びてひとごこちついた。
ジャージを着て頭をタオルでゴシゴシやりながら考える。
今度あいつが現れたらこっちから何万か渡すか?
つきまとわれるのはたくさんだ。
いや、食い逃げなんかをネタに
そうだ、ガツンとやってやるか。
どうせ証拠なんかないんだから強気で行こう。
リモコンを手にテレビをつける。
「この番組は蓬莱軒の提供でお送りしました」
ほ、う、ら、い、け、ん?
37インチテレビの画面いっぱいにあいつが。
「ちょっと待ってて。今そっち行くから」
うわあああああああああ!
俺はサンダルつっかけて部屋を走り出た。
アパートの前の道路。向こうから光―――バイクのヘッドライトが近づいてくる。
バイクといっても響く音からして原チャリだ。
その原チャリは、蕎麦屋や中華屋の出前に使われるアレだった。
ハンドルを握って嬉々とした表情で迫ってくるのは
「シーフー!」
「hahahahaha」
原チャリが俺を弾き飛ばし、ご丁寧に胸の上を轢いて通り過ぎていった。
い、痛え。
あいつは一体なんなんだよ。俺、このまま死んじまうのかな。たかが定食食い逃げしただけでこんな目に……。
「料理は、あんたの
唐突に俺の顔を覗き込むシーフー。
俺は肋骨が折れたか肺を損傷したかで、恐怖の叫びすらあげられなかった。
もうしません。助けて。
食事は感謝していただきます。
手間暇に見合ったお金をきちんと払います。
だから――
「お待たせしました。日替わり定食です」
店員―――
「ごゆっくり召し上がって下さい」
この既視感は……俺、蓬莱軒にいるのか。日曜午後の蓬莱軒に。
カウンターの向こうでは、今や恐怖の象徴となった白服の料理人が仕込みに没頭している。
ランチ限定の日替わり定食は、エビと卵の炒めものをメインに、
甘味と辛味が一品ずつ。ごはんとスープはその中間でどちらの味方にもなれるようスタンバイしていた。
「い、いただきます」
誰も聞いてないだろうがな。
またこの至福のひと時が味わえるとは思わなかった。シーフーは恐ろしいが食べている間はその恐怖すら忘れてた。
昨日の俺はこの後、料理に対してひどい行動に出た。
そのあとの月曜を2度も味わいたくない。
「ごちそうさまでした」
おそるおそる立ち上がり、奥にいた女の子に聞こえるよう声をかける。
「はいー」
女の子はレジ前でにこやかに
「日替わり定食950円です」
俺はジャージのポケットから千円札を取り出した。
「千円お預かりしましたので50円のお釣りです」
女の子は俺の手に硬貨を握らせた。
「ありがとうございました!またお越し下さい」
快活な声を背中に受け、そそくさとガラス扉を出ようとしたとき。
「もうやっちゃだめだよ~」
厨房から届いた、茫としているくせにやたら通る声。誰のものかは言うまでもない。
「は、はい!」
俺の返事は裏返ってた。
「何それ?」
女の子が厨房に向かって尋ねている間に後ろ手にガラス扉を閉めて店を退出した。
あの月曜は夢だったのか?
シーフーに追い詰められて最後は……。
あんなの俺の妄想―――じゃない。
リバーシブルの上着にデニムパンツを着ていたはずの俺は、上下とも風呂上り用のジャージ姿。
その胸の上には原チャリのタイヤ痕がクッキリとついていた。
(終わり)
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