第一話「冷やし中華終わりました 3」


 それから3日間、あたしは父の忌引きしじゅうくにちの法要に、シーフーは蓬莱軒の味の追求にそれぞれかかりきりで、あまり言葉を交わすこともなかった。

 多忙の合間合間に視界の隅に入るシーフーは、厨房で食材や調味料と格闘していた。店2階の住み込み部屋の電気は夜遅くまで灯り、父が遺したレシピノートを熟読している様子がうかがえた。

 茫として何を考えているか読みづらいシーフーだが彼なりに3日間で蓬莱軒の味を再現するという課題に真摯に取り組んでるってことは感じられた。

 その気持ちは蓬莱軒を存続させたいあたしからすればとても嬉しいことだった。


 しかし、真摯に取り組んでも、3日やそこらで年季の入った料理人の味を自分のものにするのは無理だろう。

 そんなことが可能なら世の中は腕利き料理人で溢れかえる。

 


 あたしはなんで無理だと思っている試験を彼に課したのだろう。


 彼に秘められた料理の才能を感じたから?―――繊細な包丁さばき、緩急ついた鍋振りは熟練の料理人のそれだ。ただし、味はその技量についてきていない。可もなく不可もなく、だ。むしろ堂に入った手さばきが期待値を高める分だけ、味には軽い失望感がある。

 仮に父の味と比較することを差し引いても『若いのにけっこうやるわね』あたりの評価に落ち着く。


 シーフーのおかげで木恒達から逃れられたから?―――確かにそれはある。彼が現れなかったらどうなっていたことか。ガクブル。あの場をしのぐために勢いで採用してしまった。それについてはもう謝ったし、あとはお礼をして、蓬莱軒の料理人の仕事を諦めてもらえばいいことだ。


 一見茫洋とした彼がどうしてもここで働きたいとこだわることに特段の理由を見出せないけど、一所懸命やろうとする者には一所懸命付き合うのが人として正しいから、とあたしは無理矢理結論づけた。



 

 父の四十九日法要は終わり、近親者と一緒に精進落としを済ませた。

 午後の陽射しに包まれて家路につく。

 父は母と同じお墓で仲良く眠れて幸せになったんだ。そう思うと少し気持ちが軽くなった。

 これからはあたし自身の人生頑張っていかなきゃ。

 大学、就活、仕事、もしかしたら結婚?と大事な決断時におたついて、両親に心配かけないよう自分を強く鍛えて、悔いのない道を歩いていこう。



 その第一歩が蓬莱軒。

 今夜、シーフーの研修期間の集大成の料理を3品食べて店を再開するかどうかの決断をしなくてはならない。

 出かけるときも彼は

「この試験を乗り越えられたら、先代の墓参りをさせてくれるか」

 と言ったきりで火をかけた鍋に集中していた。

 シーフーは本気で取り組んでいる。既に漠たる結論を出している自分が恥ずかしく、返事をしないで法要へ向かったのだった。



「お嬢さん、法要はお済みになったのですね」

 この人を苛つかせる声―――クリーム色のすかしたスーツに身を包んだ木恒のものだった。彼の背後には黒塗りの外国車。運転席と助手席には下駄顔とアンパン顔。

 あたしは無視して走り去ろうとして失敗した。またも金縛りにあったからだ。

「私の言うことに耳を貸さなかったあの男―――お父上のことですがね―――のことが片付くまで待っていてあげたのですよ。少しくらいおつきあいいただいても、ね。ホッホッホ」

 助手席から降りてきたアンパン顔があたしを後部座席に押し込んだ。

 横に乗ってきた木恒はハンドルを握る下駄顔に

「オフィスに。車は裏口につけるのですよ」

 と指示する。

 その横面はサディスティックな愉悦を隠そうとしていない。

 静かに走り出した高級外車の中、あたしは震えたくても体が硬直していて、それすらできなかった。



 蓬莱軒のある町から二駅ほど離れたところにある中層ビルに木恒のオフィスがあった。日曜日のせいかビル自体にひとけがない。

 応接用のソファに横倒しに転がされたあたしを見下ろした木恒は、右手の人差し指と中指を揃えて自分の口元に持っていき、ボソボソとつぶやいた。日本語ではなかった。

 途端にあたしの首から上だけが自由を取り戻した。

「あなたから売却の承諾を得るために、喋れるようにしました。この期に及んで断ったりして、私にその口から悲鳴を聞かせないでください」

 淀みなくこういう物言いができるのは一般人を恫喝することに慣れているからだろう。


 自分の気力がどんどん萎えるのを自覚していた。

 素直に店と家を売れば無事に帰してくれるだろうか。

 いや、昼日中にひとを平気で拉致するような奴が脅しだけで済ませるはずがない。

 この手のオフィスは間違いなく防音処理されていて悲鳴など外には届かないはず。

 拳法を会得していようが、体が動かなければ役に立たない。

 体が動いたとしてもだ。木恒と部下達が物騒なアイテムを持っていたら―――確実に持っているだろう―――無事では済まない。

 つまり、もう打つ手はない。

 木恒の不興を買わないように丸く収める。

 あたしが心のどこかで諦めていたように、出来もしない蓬莱軒の再建に見切りをつけるのだ。一番渡したくない相手だが選り好みをする余裕はゼロ。

 


 生前の父が厨房に立つ姿が脳裏に浮かび、それに今朝のシーフーが重なった。

「ごめんなさい……」

 心が折れたと同時に視界が涙で滲んだ。

 木恒は真向かいのソファに腰を下ろすと細い足を組んだ。

「強情を張ってここまで連れてこられた方は、なぜか謝るのですよ。私は穏やかにビジネスの話をしたいだけなのに。ちょっと手足が動くくらいで私を甘く見たのがよくなかったですねえ」

 お前に謝ってんじゃねえ、という塊を呑みこむ。

 木恒はアンパン顔から受け取った書類を応接宅に並べた。

「売買契約書です」

 契約書の売買金額は先日提示された金額の3分の1にも満たない。地価を大きく下回っている。

「お嬢さんに怪我を負わされたうちの社員たちの医療費と慰謝料は差し引かせていただきました」

「ふざけ―――」

「金額にご不満が?いいんですよ、うちの社員は医師の診断書を持参して警察に被害届を出します。あなたの通う大学にもこの話は届くでしょう。来年は就職活動ですね。いろいろと不利なことにならなければよいのですが」

 最低の恫喝野郎。怒りが1分前まで感じていた恐怖を蒸発させてしまった。熱くなると黙っちゃいられない性格は根っからだ。

「こっちだって器物損壊に、脅迫に、拉致監禁で被害届出してやる!」


 木恒の細目がすうっと吊り上った。

 しまった。

 この性格は就活で不利ね。

 いやいや、今は就活より目前の危機を心配すべき。

「困ったお方ですね。こんな話はどうです?最愛の父を亡くして意気消沈していたお嬢さんがいるとしましょう。彼女は独り残された孤独に耐えきれず、父の四十九日が明けたことを契機に自ら命を絶つ。父から相続した土地財産の一切を生前から親身にしていた木恒不動産に譲渡する、と遺言書を残してね」

「あ、あんた何を―――」

「こういうシノギをやっていると、面倒な譲渡手続きをうまくやってくれる弁護士や行政書士の知り合いはいくらでもいるから安心しなさい。私は決して下手はうちませんから。ホッホッホ」

 木恒が声をかけると下駄顔が新しい書類と朱肉を持ってきた。

 その書類は今聞いたばかりの筋書きに必要なものばかり。最初から買いたたくか、自殺を偽装して譲渡させるかを決めていたということだ。

 最初に提示された上積み金額も何かしら不備だなんだと言ってディスカウントするつもりだったのかもしれない。

 父は、そしてあたしはとんでもない奴に目をつけられていたのだ。


「教えて。うちの店は大した立地じゃないのにどうしてこだわるの?」

 実は隣接地は木恒の地上げを受けていない。うちだけがその対象になっていることが常々疑問だった。

「お嬢さんに話しても無意味なことなんですけどねえ」

 本当は言いたくてたまらないのか、足をほどいた木恒は身を乗り出した。

「あの店自体には興味がありません。あの土地にある『竜穴』が欲しいんですよ」

「リュウケツ?」

 どこかで聞いたような……


 あいつもリュウケツ狙いか


 そう、シーフーが店に現れた時に木恒達を見送りながら言っていた。リュウケツ。



「竜に穴と書きます。風水ふうすいという言葉を聞いたことがありますか」

 テレビでやってたな。方角とか色とかに気を付けると幸運が舞い込むとかいう内容だったような。

「中国で古くから伝わる思想でしてね。地理や方角、陰陽インヤンと言った複数の要素を掛け合わせて、大地や天に満ちる『気』を取り込んで人や一族、果ては国家や世界の諸相を操ることを目的としています。風水では大地の気の流れを『竜』や『竜脈』と呼び、その気が特に満ちたスポットのことを『竜穴』として珍重します」

 そうか竜穴か。それが蓬莱軒の建ってる土地にあると。こいつ、オカルト好き?

「そう馬鹿にしないでいただきたいですね。風水と称して小金を稼ぐインチキ占い師の類がいるのは事実で嘆かわしいことだとは思いますが。風水による都市設計で建てられた京都や江戸の繁栄ぶりを知らないのですか?中国の朱元璋という人物は元は乞食坊主でしたが、竜穴をおさえたことでみんの初代皇帝にまで上り詰めたのです」

 トンデモなのかガチなのか判断保留。

 ただ、政治家や財界のトップがそういう占い師の託宣に従っているという話はよく聞く。自分で決められない人間が上にいるって悲劇よね。

「竜穴の力を得れば、私の『力』も大きくなる。いずれはこの国の全てを操るほどにね。その尊い力の存在も知らない無知蒙昧の愚民がそこに居座っている。これ以上の悲劇はありません」


 ギリッ

 何の音?

 あたしが奥歯を強く噛みしめた音だった。

「ムチモーマイの愚民で悪かったわね。あんたみたいなキモい地上げ屋よりよっぽどマシだけどね。そんな竜穴に頼らなくたってうちは立派にやっていたんだ」

「安っぽい料理を作って日銭を稼ぐしか能のないあの男の娘が何を言うのです」

 ブチ

 何の音?

 あたしの折れた心が復活してキレた音だった。

「あんた、どれだけ父さんをコケにする気よ?誰だってご飯を食べるために頑張って働いてるんじゃないか!ご飯を食べなきゃ金持ちだって貧乏人だって生きていけないんだよ!料理人馬鹿にするな、○○○○野郎お好きなののしりをどうぞ!」

 またやっちゃった。しかし、殺されようが言いたいことは言ってやる。


「私が一番好きな料理をお教えしましょうか」

 木恒がスッと立ち上がった。その姿は木恒なのに、何か違うモノが声を発した。

「人肉の生き血ソースがけ。焼き加減はミディアムレア。お嬢さんは料理人の才能はないが食材としては魅力的です」 

 常に笑っていない目が、人間ではない縦の瞳孔になっていた。

 


 コンコン


 オフィスのドアがノックされた。

 木恒と部下たちが見守る中、二重三重に施錠されていたはずのドアは何の抵抗もなく開かれていき、料理人用の白衣の男がひょこっと顔をのぞかせた。

「ちわー。蓬莱軒ですー。出前お持ちしましたー」

 岡持ちを提げた男は招かれざる客である空気を自然にスルーし、オフィスに身を滑りこませる。

「てめえ、出前なんざ頼んでねえぞ」

 詰め寄るアンパン顔の横をスルンと通り抜け、シーフーは

「こんなところでなにやってるです。夕飯は俺の試験だって約束したでしょう」

 と呆れた顔をした。



 あたしは木恒達への恐怖と怒り、そしてまたも藪から棒に現れたシーフーのマイペースっぷりにどう応えていいかわからず、

「ごめん……」

 両手をあわせて拝むように詫びた。

 ああ、あたしもすぐに謝る日本人なのだ。

 あれ、体が動くよ?



「てめえ、どうやって入ってきやがった」

 アンパン顔の背後からのパンチを振り返ることなく横に体を開いてかわしたシーフー。

「正面玄関から入ってエレベーター乗ってドア開けて。あんたもそうして出入りするでしょ」

 そこへ下駄顔がごついガラスの灰皿をぶん投げた。

 容赦ないスピードのそれが当たったら下手すると死ぬ。

 シーフーはひょろん、と表現するしかない軟らかく滑るがごとき動きで後ろに逸れた。

 灰皿の吸い殻や灰が盛大に舞う。

「やめてくれよ。料理に灰がついたら台無しになるだろ」

 見せつけるように岡持ちを開ける。何も入っていなかった。

「あ、よく考えたら注文もらってなかったや」

「ぶっ殺してやる」

 下駄顔とアンパン顔がナイフを片手にシーフーに近づく。

 懲りないねえといった感じで眉を八の字にしたシーフーは

縮地しゅくち

 と言って右手で腰の辺りをポンと叩いた。



 彼の姿が消えた、と思ったらあたしの隣に座っていた。

「えっ?」

「こんな目に遭わされてこのまま被害者で終わったら、きっと心に傷が残る。だったらyou、ちょっと拳法で撫でチャイナyo!」

「えっ?(再)」

 すげー似合わないラップ調と激寒オヤジギャグを聞いた気が……。

「今から一分間、youはベリーベリーストロングになるおまじないかけるne」

 あんた何人なにじんだ。

 シーフーの左手の人差し指と中指があたしのみぞおちにピタッとあてられ、グンッと何か熱い渦のようなものが体内を駆け巡った。

「なにこれ」

 拉致されて以降、恐怖に委縮していた四肢に力がみなぎる。拳法の試合でノリにノッてるときに似ている。

 あたしは今すごく強いって実感がある!

「殺すのno no 半殺しハーフキルまでgo go さあ、行って来いyo!」

 背中をポンと押されるがままに立ち上がる。


 体の中で弾けるこの熱い渦を何かに叩きつけたい気持ちでいっぱいだった。

 その点、アンパンと下駄は格好のマト。

「このアマァァァ!」

 ナイフを腰だめに構えて必殺の突進をしてきたアンパンに向かってあたしも走る。

 シーフーのの効果か、自分の心身に対する絶対の自信が刃物への恐怖を超越していた。

餡子あんこぶちまけろ!」

 危険技のため道場でも当てることが禁止されている上から振り下ろす肘打ちが、あたしの横を駆け抜けていくアンパン顔の額、鼻、顎をこそぎ取る勢いで決まった。

 アンパンは両手で顔をおさえたまま、その顔から床にダイブした。悲鳴が上がるけど、鼻骨が折れてるからフガフガしてる。ざまあであります。



 無言でゴルフクラブをフルスイングしてきた下駄顔の足の甲を思いっきり踵で踏みつける。

「次会ったらバンカーすなのあなに首からぶち込むからそのつもりで」

 反射的に踏まれた足をおさえようと前屈姿勢になったところにカウンターで膝蹴りを叩き込む。

 顔が大きいと当てるのが楽でいいわ。



 部下たちが瞬殺されるのを苦々しく見ていた木恒は真向かいのソファに座るシーフーに向き直った。

「あなた、流れの料理人ではありませんね。一体何者です?」

「シーフーと呼んでくれ。特技はうまくもまずくもない料理を手さばき鮮やかに作ることと、気に入らない仙人や妖怪おまえらみたいなのを料理することだ」

「やはり。あなたが現れると私のかけた術が強制解除されるわけがわかりました。あなたもご同輩おなじですね。蓬莱軒あのみせの竜穴を狙っている、と」

 木恒のクリーム色のスーツがペタリと彼の体に密着し、全身に同色の獣毛が生えた。

 細面は二等辺逆三角形に変形した。

 鼻先がせり出してその先は黒くなった。その両脇には数条の長いヒゲが張られる。

 頭部からこれまた三角形の耳が伸び、既に縦長になった瞳孔を囲む白目の部分は金色に変じた。

 腰からは太い尻尾がひと房。

 人間の知性と狡猾さだけは失われない。

 そこには一匹の狐妖がいた。

「同じとか……ちょっと傷つく。俺は竜穴を私欲に利用しようとしてないし。で、おまえ、例の九尾の狐が人間たちに敗れて殺生石に変じたときにこぼれた欠片だろ。たかだか1000歳、しかも劣化コピーの小物と一緒にすんなよ」

「愚弄してくれましたね。私は天竺と中国の3つの王朝を滅ぼした由緒ある大妖怪金毛九尾の狐の分身です。人型をとっていた時は遅れをとりましたが本体に戻った以上は、あなたの術無効化を無効化して食い殺してあげましょう」

 木恒、いや狐妖は後ろ脚2本で器用に立ち上がった。それは狡猾な人間のカリカチュアとして十分に醜悪である。



 シーフーは何も入ってなかったはずの岡持ちから、片手把手の中華鍋を取り出した。

 どう考えても岡持ちの中には入りようがないサイズの鍋であったが、今更気にしてもどうしようもない。

 左手に握られた鍋はその外側の黒鉄の底が狐妖に向けられるかたちで突き出される。

「おい、大物気取りの三流妖怪さん。これがなんだかわかる?とっても古い時代のお鍋でさ、悪いことばかりしてる仙人とか妖怪にとっては天敵の逸品。ドヤァ」

 おお、なんと黒一色だった中華鍋の底の中心部に何かが赤く浮かび上がった。

 それは―――文字だ。現代日本で使用されているものとは若干違う。知識ある者がいれば、



 受命於天既壽永昌



 と読み取れたことだろう。そして、その意味も―――。


 狐妖はインテリだったようだ。十分に理解できた証拠に狐妖は恐慌状態となった。

「そ、それはあああ。なぜあなたがそれを!」

 ソファの背から転げ落ちるように逃走に入った。

 シーフーは中華鍋を握ったまま立ち上がる。

「説明めんどくさい。お前に話したって理解できそうにないし、時間の無駄だし」

 狐妖はふさふさとした尻尾で床を打とうとしていた。伝説の九尾の狐は、九本の尾で地を打つことで数百里離れた場所まで飛翔したという。

 シーフーは人間離れした跳躍で狐妖の頭上へ飛びかかった。

 

「受命於天既壽永昌(命を天から受け、これからも末永く栄えん)」

 と詠唱し、恐怖に引きつり歪む狐妖の頭頂部に中華鍋の底で赤く輝く文字の部分を


 ドコーン


 と叩きつけた。 


 狐妖の頭部に鍋と同じ光る文字が刻印され、その赤い光は妖の全身に広まり、同時に体内からも赤い槍のような光が突き出てくる。

「あ、アアあ亜阿a」

「俺はこの国で最も古き仙人シェィンジェンだ。よく覚えておけ」

 狐妖は赤い塵と化し、その塵も空気に溶け込むように消えていった。

「あ、封滅されたら覚えてられないか」

 



 下駄顔とアンパン顔はともに鼻骨骨折確定の惨状だったが、それも気にならないほどにボスの木恒の正体におびえていた。

 シーフーはあたしに

「気が済んだ?」

 と聞いて来たので

「普通、拉致られた方に戦わせる?」

 って答えた。

 暴力が事態の解決になることは認めたらこいつらと同じだ。だから、いささか後味は悪い。ただ、シーフーが言ったように被害者がやられっぱなしでは心に傷を残すからくらいにひどい目に遭ってもらうのは、落としどころとして妥当なところかもしれない。シーフーが来なかったらあたしは殺されていたんだし。

 シーフーは腰に手を当てて、正座する2人に諭す。 

「いいか、下駄にアンパン。この鍋は妖怪や仙人用だから人間であるあんたらを殴っても死にはしない……いや、当たりどころによっては。まあなんだ、あんたらは二度と蓬莱軒とこの残虐カンフー娘に手を出さないこと。約束破ったらあんたらがどこにいようと蓬莱軒は出前して、一生おしりがひりひりするくらいの究極激辛担担麺を24時間耐久で食べさせるからね」

 2人は壊れた機械みたいに延々と頭を下げ続けた。



 あたしはシーフーにお礼を言わねばならない。

「助けてくれてどうもありがとうございました。最初の時、木恒のかけた金縛りが解けたのはあなたが来たからだったのね。あなたが仙人だということさえわかれば、あたしがここで捕まってることがわかったのも、あの中華鍋のアレも説明不要。説明してくれても今のあたしには理解する自信ない」

「同じ竜穴を狙ってるいけ好かないキツネが気に入らなかっただけだ」

 

 オフィスの窓から差し込む陽光が濃いオレンジ色に変わり始めていた。

「もうすぐ夕飯の時間だ。腹は減ったか?」

 いろんなことが起こりすぎて空腹すら感じない。シーフーが言ってるのは課題のことだろう。

「竜穴というものの説明は木恒から聞かされた。シーフーもそれが狙いならば、蓬莱軒で料理人しなくても好きにすればいい。命を救われたあたしにできるお礼はそれくらいしかないから。お店のことはもう少し結論を先延ばしにするから」

 シーフーの目的はどのようにして達成するのかわからないが、あたしには竜穴など必要ないから彼があの土地にいる時間が必要であれば部屋込みで提供するつもりだった。

 

 しかし、この変わってる(どころではない)シーフーという男は

「竜穴は竜穴。採用試験は採用試験だ。俺はしっかり努力をしたんだ。それを無駄にさせるな。君には料理を食べてもらう」

 と言い切った。


(続く)

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