第一話「冷やし中華終わりました 2」
あたしも馬鹿じゃないから、流れで採用したシーフーと名乗るとぼけた男が自称料理経験それなりと言ったことを鵜呑みにはしない。
「あんた、腕は確かなの?」
シーフーは壁の時計を見て
「腹減ってないか?」
とカウンターの中に入った。そこは蓬莱軒の料理人の戦場、父の思い出が一番詰まっている場所。
「断りもなく―――」
スツールから立ち上がって抗議しようとした鼻先でシーフーの掌が、座って待ってろと言うようにひらひらした。
シーフーはたすきがけの結び目を解いて、背負っていた中華鍋をガスコンロの上に置いた。両手を石鹸で念入りに洗うと、今度は中華鍋をゴシゴシとこすり始めた。
あたしはスツールに腰を落とすと
「ここひと月閉めてたから大した食材ないよ」
と彼が失望する前に言っておいた。
冷蔵庫や食品棚に入っている食材は、あたしが店の自力再興を目指して試行錯誤した
シーフーはそれらを簡単にチェックする。
「それなりにあるね」
ろくなものないと思うけど。
この謎めいた―――というより怪しさ満点と評した方が正しい―――料理人が何をつくるのか見てやろうじゃない。
「
「
中華鍋は片手鍋と両手鍋の2種類に大別される。
長い把手一本の――フライパンみたいな―――片手で使う鍋を俗に北京鍋といい、中国北部でよく使われるそうだ。
鍋の左右に手でつかむ把手―――すき焼き鍋のような―――がある両手鍋を広東鍋という。これは中国の海沿いだけでなく西の内陸でも広く使われている。
北京鍋は広東鍋に比べて直径が小さく深底。起源は広東の方が古い。元々は土器の延長だからね。
どちらが優れているというのはない、深さを利用した調理、広さや傾斜を利用した調理それぞれに得手不得手があるんだ、と父は言っていた。要は料理人の好みの問題なのだ。
高級志向の中華料理店は広東鍋、町の中華料理屋―――うちはこっち―――は北京鍋がよく使われている印象。
「両方使えるって器用ね。普通はどちらかに慣れるともう片方は下手になるって言うじゃない」
「無駄に年季だけは長いから」
どう見ても30に届かない外見のシーフーが年季が長い?30年以上鍋を扱ってる中華料理人なんて山ほどいるよ。
「ま、別に両方使わなくてもいいけど」
会話の最中もシーフーは、初めて入る他人の厨房を勝手知ったる感じで滑らかに動いていた。
年季が長いかどうかは別として慣れてる感じは本物だ。
強火にかけてよくあたためた中華鍋―――これは空焼きと言って鍋を火の世界に慣らすための基本だ―――に温めていない油を杓子一杯分入れて鍋の肌になじませていく。
この鍋の内側を杓子が爪を立てるように撫でていくシャークシャークという音が中華料理にとってのゴング。黒肌の鍋の金属と銀の杓子がお互いを削りあうかのようにね。
杓子を持っていない方の手で鍋の把手をコントロールして鍋自体を斜めに斜めに揺らしてまわす。
油が十分に行き渡ったら、煙が出始める前に杓子でカンカンカンと叩きながら鍋の中の油を油入れに戻す。
それから料理別に必要な油を入れてから調味料や具材が投下されていく。
シーフーは刻んだしょうがをパッとまいた2秒後には溶き卵をボウルから投下。鍋底に黄色い大輪の花が咲く。
中華料理は基本強火。卵などはあっという間に半熟時代を通過して固まりはじめる。花の命は短いのだ。
そうなる前に、ここで冷えたご飯(お好みに応じて温かいご飯でもOK)をどかんと投げ込む。
東京ドームみたいな形のご飯を杓子のでザクザク崩して卵と絡ませる。同時に手早く鍋を振って中身を空中回転させながらまんべんなく炒めていく。
この時、杓子の背を使うタイプと縁を使うタイプに別れる。シーフーは父と同じ縁派だった。
ちょっと懐かしいかも。
ご飯がパラパラになったら塩をパラパラ。パラパラコンボ。
また鍋と杓子をカシャカシャきしらせまくって鍋をシェイク!
イメージはバイオリン(鍋)を猛烈な勢いで引く弦(杓子)。バイオリンでこれをやると耳を塞ぐことになるが、中華はここがロックンロール。マジで。
びっくりしたご飯が少し鍋の外へ飛び散るっても
刻んだネギを入れる。シーフーは具材の刻みを、さっきヤクザに突きつけたものより薄い刃の
「こいつも入れちまうから」
明日の朝食に使う予定のソーセージも小さく刻まれて鍋に踊りこんでいった。
都度、ご飯に慣らすように杓子の縁でノック。鍋をシェイク。台風の時の大波のように中身が立ち上がって沈んでいく。
「コショウ、醤油と。香りづけに酒を垂らしても大丈夫か?」
こいつ、どこで修行したんだろうと頭を巡らせながら頷く。
強火一点張りで鍋を熱していると時間経過につれ、炎が鍋の両側からあふれだしてフレアが青からオレンジ気味になっていく。父はこのオレンジをカラータイマーが点滅しだした、と呼びここまでで仕上げないとだめだと語っていた。
そのタイミングに間に合ったようで、火から鍋を離したシーフーは右手の力だけで持ち上げた鍋を2、3度シェイクして杓子でお皿に中身を盛った。
スッとカウンター越しに炒飯を出してきた。手際は完ぺきに近い。
「お待ちどう。食べてみてくれ」
「お、おう。いただきます」
鼻孔に届く香りと湯気を堪能しながら、レンゲを使って、盛られた炒飯の一角を崩して口に入れて噛みしめる。
「こ、この味はっ!……なんて言うか普通すぎる!」
あまりの調理手際の良さに期待値が高まりすぎた。
だからこそ普通でしかない味にがっかりした。そのレベルにすら到達できないあたしに言われたくないかもしれないが、ジャッジするお客さんの意見は変えられない。
シーフーは傷つくでもなく不快になるでもなく、腕組みしたまま淡々とあたしの一声を受け止めていた。
「何もしないとそうなんだよね」
何もしないと、って?
「おいしくなるおまじないさ」
あたしは炒飯を全てたいらげるとレンゲを置いて、ご馳走様でしたと言った。
「シーフー。あのー、さっきは勢いで採用しちゃって期待させたらごめんなさい。蓬莱軒は見ての通り大した構えの店じゃないけど、味だけは自信あったの。父さんが努力と研究を続けて辿りついた蓬莱軒の味ってやつがね。お客さんもそれを楽しみに来てくれていた。あなたの腕にすがってみたかったけど、正直言ってこれではお客さんに『蓬莱軒の味です』として出せないわ」
つらいことを告げるときは一気に。
数秒の沈黙のあと
「亡くなった先代のレシピノート、ある?」
父の人生の結晶であり、その店の味の全てがこめられているレシピノート。それをどうしてこの出会ったばかりで本名すら知らない他人に見せると思うのか。正気を疑った。
「見せるなんてありえない。あんたも料理人なんでしょ、自分が言ってることの意味わかってるわよね」
「わかってる。だから読んでモノにするよ。この店の先代の味。お客さんが食べたいと思う味」
「あのねえ、父さんの忌が明ける3日後にお店をどうするか決めたいの。あたしじゃ、あんた以上にダメダメだから、ここをあの木恒以外のどこかの業者に売ることになる。本当はまだ決心つかないけどね」
「この店潰したくないんだろう」
簡単に言ってくれるね。そりゃそうだよ。
「俺に3日くれないか。それで決めてくれ。また、レシピノートは絶対にこの厨房から持ち出さないと誓約しよう」
「口約束なんて信じられないわよ」
「そうか?俺は誓約に縛られる存在だから、これほど安心な約束ってないのだが」
どういう意味かわからん。……わからんけどその声音は不思議とあたしの落胆と疑念をもみほぐしていく何かがあった。
「…………絶対にばっくれない?コピーとらない?写メ撮らない?」
険しい視線を真っ向から受け止めるシーフー。う、なんか真摯な目しとる、こいつ。茫洋とした甘ったるいのが売りじゃなかったっけ。
「蓬莱のシーフーの真名にかけて。
3日後に蓬莱軒の味を再現できなかったらここを出ていく」
こいつが空気読まずに入って来なかったら、今頃あたしは……な目に遭ってたかもしれない。借りは返す。
フーッとわざとらしい溜息をついて、壁に貼られたメニューに目線を向けたまま言った。
「今の炒飯の食材分はサービスする。3日間の勉強に使う食材の経費はあんたの持ち出し。3日後に炒飯ともう2品食べさせてもらって、蓬莱軒の味になってなかったら解雇。もちろんノーギャラ。それでも?」
シーフーは
「大丈夫。『これは先代の味だと言わせてみせる』から」
と宣言した。
あたしは自宅からレシピノートを取ってきて彼に渡した。
本当にお人よしだと自分でも思うよ。そして、3日程度ではどうにもならない味の再現をこの風来坊に賭けてみるほどあきらめが悪い女なんだ。
それからシーフーは視線をノートに、手は忙しそうに動かして料理を作り始めていた。
あたしはシーフーが3日間寝泊りする店の2階を掃除にとりかかろう。
それから2日のうちにあたしは良心的な不動産会社をいくつかまわって将来的な売却プランを相談することにした。
その時は、こんなどこにでもある中華料理屋をめぐる戦いが迫っていることなんか、少しも感じてなかった。
(続く)
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