第三十二話「腹が減っては戦はできぬ」

終戦記念日に捧ぐ

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 あの日。

 この国の総力をあげた戦いが矢折れ刀尽きる形で終わりを告げた日。


 国を守るためなら南洋の空に潔く散ってみせようと固めた男子の覚悟、同時に忍び寄る恐怖のふたつからあっさりと放逐されたあの日。


 それから何日経ったのかわからなくなった頃に自分はようやく故郷の大阪の土を踏むことができた。

 英雄の帰還ではない。沖縄の海に陣取る米軍に一矢報いる機会すら逸した敗残兵の出戻りだ。

 迎える者はいない。家族の安否も知れない。

 

 あの日と同じ青い空の下に広がる焼野原。自分が昨年まで暮らしていたあきんどの町は影も形もなくなっていた。


 南九州の基地から戻る途中、さまざまな人から聞いた各地の状況。

 ピカと呼ばれる新型爆弾が投下された広島と長崎のこと。

 米軍が東京、大阪はじめ各都市に対して非戦闘員を巻き込んだ無差別爆撃を行ったこと。

 東京の大本営が信州か東北の山中に移る予定だったこと。


 18歳で動員され、数日以内の特別攻撃とっこうの命令待ちをしていた自分は何もかも失って立ち尽くすことしかできなかった。


 昭和20年8月末。

 見渡す限りの夏の光に満ちた空を見上げている時だけ現実を忘れられる。その青さを泥はねのように汚す戦闘機も焼夷弾の姿はもうないのだ。


 戦友はみな南の空に飛び立ち戻ることはなかった。

 生き残ってしまった自分だけが戦争後の現実と向き合うのはつらい。

 これから日本はどうなるだろうか。自分はどうすればいいのか。

 

 ぐううううううう


 何百回繰り返したかわからない感傷を腹の音がぶった切る。


「腹が減っては戦はできぬ、か。戦はもう終わったんやから腹が減らなくなればええのに」

 

 手持ちの糧食も金も尽きた。こんな焼野原ではまともな飯屋などあるわけもなく。

「空襲警報やないんやから鎮まれや、なあ」

 おまじないのように両手でさすっても、若い胃袋は容赦なくラッパを吹く。

 戦争で負けたのもみじめだが、ひもじいのも同じくらいみじめなものだ。

 腹が減ると人間自然とうつむき加減になる。青空を見上げる余裕すらなくなる。


「おとんになにすんねん!」

 唐突に沸いた声に振り返ると、親子連れが3人の男衆に囲まれていた。蹴倒された小柄な父親が男衆の一人に下駄で踏みつけられている。

 父親の持っていたカボチャの入った籠を難癖つけた男衆が強奪したらしい。

 憲兵もろくに機能しなくなった敗戦直後の治安の空白がこのような無法を許す。

 誰も彼もがこれからの身の振り方に悩み、そして飢えていた。


 国民学校の高等科(※13歳か14歳)の娘は両手で下駄ばきの足をどかそうとしていたが、無理とわかると勢いよく噛みついた。

「いっでぇぇ」

 下駄ばきは噛みつかれたふくらはぎを押さえて飛びのいた。

「こんアマっ。兄ぃにケガさせてただで済む思うなよ」

 藍染の手ぬぐいをほっかむりした弟分が凄む横で、麦わら帽子をかぶった男が

「カボチャやキュウリもろとくだけではおさまらなくなりましてん。嬢ちゃん、一緒に来てもらいまひょか。なに、高いゼニ稼げる店紹介してあげよるさかいに、あんたのおとんも安心やで」

 と言い、下卑た笑みを浮かべた。


「頼むさかいそれだけはやめてくれ。娘は勘弁してや」

 すがる父親に再び下駄が叩き込まれる。

「ささ、嬢ちゃん。ええとこいこか」

 焼野原になったとはいえ、天下の大阪の往来でこんなこと許されていいはずがない。しかし、警察も憲兵もいない、戦争で意気消沈した人々は見て見ぬふりをしてそそくさと立ち去る。

 自分はここで立ち去るわけにはいかない。国は守れなかったが今でも命は張れる。



「待てや! こ、これが自分が特攻してでも守ろうとしたお国か。恥を知れ貴様ら」

 藍染手ぬぐいか肩をいからせて近づいてきた。

「な、なんや。この兵隊くずれ。ぐぁっ」

 先制の拳骨が効いた。が、そこまでだった。麦わら帽子が木刀で自分の背中をしばいた。

「日本は負けたんや。兵隊が弱っちいからや」

 下駄ばきの頭突きの衝撃で視界がおかしくなる。軍帽が吹っ飛んだ。

「と、特攻なめんなや。くずどもめ」

「アメリカさんにケツ蹴っ飛ばされてのこのこ帰ってきたんか。ぼん


 3人がかりで袋叩きされとって。腹減って力が入らへん。

 そういえば、陸軍も海軍もいつもすきっ腹で戦ってたようなもんや。米国や英国は毎食ごっつ肉やパン食うて余裕やってん。

 

 腹が減っては戦はできぬ。ほんまやな。お国も自分も阿呆やで。


「せやけどなあ」


 腰に下げていた水筒を麦わら帽子の顔面に叩きつけた。

「上見て青空に現実逃避せえへん、下向いて卑屈にならへん。わしの身の丈でものをみる。それがこれからのわしん戦い方やっ」


 どうせ捨てそこなった命。ここで義のためにまっとうしたってええ。


「いや、命は簡単に捨てたらだめだよ。兵隊さん」


 お前いつからそこにいてん?

 茫洋とした声の主は男衆の背後に立っていた。

 上に伸ばした手に握られているのは大きな片手持ちの中華鍋。


 鈍い打撃音が三回聞こえた。自分のの意識も遠くなっていった。


 

 暗黒の世界に漂ってきたその匂いが、目を開くより早く上半身をバネのように弾け起こさせた。

 焼野原の片隅に運ばれていたらしい。品揃えは貧相だが露店がいくつか並ぶ一帯のようだ。

 大阪のあきんどは終戦のショックも乗り越えて復興ののろしを上げている。なんとたくましいことか。


「ほんまおおきに。おおきに」

 小柄な父親が自分の上半身を支えて頭をぺこぺこ下げた。

「痛いところはありますか」

 勇敢な娘は水で冷やした手拭いで自分の顔や手足の擦り傷を丁寧に拭ってくれている。

「青物屋だったんですね」

 重ねたブロックの上に敷いたベニヤ板に並んでいるのはさっきのカボチャやキュウリ。ちょっとしなびた青菜もある。

「京都の親戚の畑からわけてもろたんを商いしとります。どんな時代でも食材を売る店は必要やさかい。この青空市場から大阪はよみがえりまっせ」

 父親の意気込みを聞いて、その隣の露店の女主人もにっこり笑う。

「私の旦那は満州に出征しとってん。絶対ここに戻ってくる信じて店守り続けるん決めたんやわ」

「もう次の時代に向けて動き始めてはるんですね」

 青物屋の父親は照れたように

「そんなたいそうなことやおまへん。これからアメリカが乗り込んでこようが、イギリスが土足で入ってこようが、わしらは飯食わなきゃあきまへん。死んだもんの分まで飯食うて生き続けてやるんがわしらの戦いですわ」

 と言った。


 ハッと気づかされた。武器で殺しあう時代は終わり、まったく新しい価値観の世界に変わっていく中でも永久不変のこと。


 誰もが腹は減る。うまい飯をいっぱい食べたい。


 偉そうな役人も、勇敢な兵隊も、泣くことしかできない赤ん坊も腹が減っては何もできない。

 命をつないで次の時代がどんなものになろうともしっかり食べて生きていかなあかん。

 


「自分もそう思います。特攻で英霊になったあいつらの分まで新しい時代の戦い方ってやつをやってみたくなりましたわ。この市場でなんでやりますさかい、使ってくれませんか。腹いっぱい飯が食える時代をつくるんがこれからの夢ですわ」


「人手はなんぼでもほしいところや。京都や奈良に買い付けに行ったり、畑耕したりせえへんとあかんよって」

 青物屋たちはうなずいた。


「腹が減っては戦はできぬ。これ召し上がれ」

 すうとお椀が差し出される。その手の主は先ほどの中華鍋の持ち主だった。

「シーフーさんのすいとん、うまいんやで」

 少女が箸をくれる。

「前途ある少年に幸あれ。ご飯がおなかいっぱい食べられる国になるかどうかは君次第かもね」

 すうっと鼻にのぼってくる汁物の湯気。自分の食欲が爆発した。

 そのあとシーフーという青年が何を言っていたかは覚えてない。

 

 ズズッ、ハフッ、ガブ、モグモグ、ハムハム


 すいとんを味わい尽くしていたからである。

 

 すいとんは戦中戦後によく食された鍋料理だ。

 小麦粉を水練りした塊をメインに、そこにある食材(芋のつるや葉っぱまでも食材とされた)をかたっぱしからぶっこんで煮込むだけという手軽さと、具材にこだわりがなく大鍋で一気に食べられる貧しい時代に重宝された。

 

 出汁などないただのお湯に、豆の粉やこうりゃんといった代替材料の水練りが履いていたり、具は芋のつるや雑草だけ、燃料が乏しいため、水練りに十分に火が通らず生煮えで口当たりが最悪だったりと。

 おいしいものを食べることより腹を満たすことが重要という時代ならではのものだ。


 しかし、今食べているお椀の中はこの時代ではかなり上等な逸品だった。

 カツオと昆布をふんだんに使用し、しっかりと出汁を効かせた熱い汁。疲れ切った心身にじわじわと染み渡る。

 具はちゃんとした小麦粉を練ったもので、豆や大根、ゴボウ、白身魚や鶏肉まで入っている。どこで調達したのかわからないがコネがないととても出せない代物だ。

 山海の具材をしっかり歯と舌で喜び、胃が暖かく満ち満ちていく。

 具材から染み出た味と出汁が中華鍋の中でとろけあって得も言われぬ幸福感が自然と涙を流させる。


「い、生きててよかった……と思います」


「うまいやろ? 流れの料理人にしとくんはもったいないわ。兵隊さんもシーフーさんのごはん食べた人はみんな『生きててよかった』と感じるんや。明日もがんばろって気になるねん」 


 そのとおりだった。自分は死に損ねたとばかり思っていた。玉音放送を聞き、独り生き残ってしまった罪悪感にがんじがらめのまま九州から大阪まで戻ってきた。

 どう生きていくかもわからず、焼野原を目の前にして絶望に打ちのめされた。

 それが一杯のすいとんが「生きることはよいこと」だとすべてを赦していく。


「一度拾った命は大切に。どうせ身を捧げるなら、あんたらしい戦い方でこの国を腹いっぱいにしてやってよ」


「この市場から始めます。自分は、いんや、わいは日本の台所を再建するために戦いますわ、シーフーさん」


「そんな戦があってもいいよね」

 シーフーさんの汚れひとつない調理着が夏の陽を反射した。



そして時は流れ



 エアコンディショニングの効いた地上30階のその部屋はバリアフリー設計が行き届き、その部屋の主の好みか質素に見えながらも品の良い調度品が最低限据えられている。

 普段は彼の決定を仰ぎに来る役員たち、トップ同士の商談のために訪れる他社のCEО、経済産業省や農林水産省の官僚、各国大使や大手メディアのインタビュアーなどが引きも切らないその部屋は、日本の食品流通の帝王の間と呼ばれる。


 歴代秘書に引き継がれること。


 毎年8月15日の昼の2時間だけはたった一人を除いて絶対に通してはならない。


「ごちそうさん」

「完食したね。元気だなあ、会長」

「わたしはねえ、あんたの作るすいとんを食べられるのは今年が最後、今年が最後って言い続けてきたよねえ。それがもう70回を超えてるんだよ。90過ぎていつお迎えが来るかわからないがね、妻や特攻隊の仲間に会うまではこの国の食をまもって次世代に伝えていきたいよ」

「大阪の露店で叩き売りしてた坊主が、きったはったで頑張り続けていまだ最前線で采配ふるってるんだもんなあ。すごいよ会長」

「ファファファ、昔も今もがむしゃらなだけだ」


 車椅子の老人は中華鍋を洗う料理人に懐旧のこもった視線を向ける。

「妻には先に逝かれた。もうあの夏を知ってる人はあんたとわたしだけになった。詳しい事情は聞かなんできたが、あんたは全く変わらないねえ。このまま間違いなくわたしが先に死ぬだろう。そのときはあんたに看取ってほしいわ」

「いやだよ、そんなの。俺もう大勢の人を看取り慣れしちゃってて涙も出ないんだ」

 料理人は昭和20年と同じ茫洋とした口調で切り返す。


「次もおいしいすいとんを頼みますよ」

「あんたがあんたのやり方で戦ってきたご褒美だ。また来年来るよ」


 車椅子にもたれた老人は背後を遠ざかっていく青年の気配が消えるまで、卓上の写真立てのモノクロの写真を見つめづけていた。

 大阪の闇市を背景に青物屋を継いだ若き日の彼、彼の生涯の伴侶となった青物屋の娘、そして一年に一度ふらりと彼の前に現れる中華鍋片手の料理人の姿。

 

 消えることのない暑い日の一幕。

 


「ただいまあ」

「おかえりなさい。外は暑かったでしょう」

「冷やし中華とビールが売れる暑さだね。これお土産」

「あー!これって予約で完売しちゃう究極のブランド枝豆じゃない!しかも段ボールで。いったいどしたの?」

「知り合いのじいさんがどうしても持ってけってうるさくてさ。これ今日ビール注文したお客さんにサービスでふるまっちゃおう」

「えー、ちょっとあたしにも食べさせて!」


(終わり)



応援コメか読了ツイいただけるとまた続きを書きたくなるんだって。(蓬莱軒料理人)



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