第三十話「フカヒレのスープ」

 ここはどこだ?

 どうしてわしは白いクロスのかかったテーブルの前に座ってるのだ。

 自宅の寝室でやすんでおったはずだが。

 

 周りを見まわす。

 80を越えても衰えを知らない儂の記憶に間違いはない。こんなところ知らん。

 窓一つない部屋。

 儂がついているテーブルは向こう側へと延び、その先は薄闇に包まれており、この部屋の広さがつかめない。

 

「おい。誰か」

 この状況を説明させる必要がある。立ち上がって自分から人を探すことはしない。儂の声を聞きつけた者が来るだろう。

 しかし、数秒待ったが何のいらえもない。

 常に秘書、使用人、部下、家族のいずれかが傍に控え、儂の指示に耳をそばだたせていたというのに。

 儂の声を無視するとは無礼な。


「誰か―――誰かおらんのかっ!」

 今度はできる限りの大声で薄闇の向こうへ怒鳴った。

 若い頃から文化人、論客、政治家と常に脚光を浴び、大衆の上に立ち続けた儂をこんなところに放っておくなど許されることではない。


 怒りの鼻息の音に混じって、薄闇の方から足音が聞こえてきた。

 急ぐ気はみじんも感じられず、むしろ悠然としている。

 なんだ、そのたらたらした足音は。新兵のようにとっとと走ってこい。

  

 薄暗がりの中から白い服が滲みだすように現れ、銀の盆を手にした若者の姿になった。

「どうもー。お待たせしましたー」

 コックか貴様。するとこの部屋はレストランか?

 いや、その前になんだその間延びした物言いは。客は神様だぞ、敬意をはらわんか若造。

 こういった年長者を敬うこともできないろくでもない奴が多いから、儂らの世代がおちおち隠居もできん。日本にはまだまだ儂のような指導者が必要なのだ。


「おい、ここはどこだ。それと儂の秘書に連絡を取りたい。電話してもらおう」

 孫くらいの年齢に見えるコック―――最近は帽子もかぶらんのか―――はそれに答えず銀の盆からテーブルに何かを置いた。

 白い皿の上に乗った同色の両手付きわん。中華料理のものだ。

 椀には丸みを帯びたふたがかぶせられていて中は見えないが、スゥッと漂う匂いには覚えがあった。

「小僧、これは―――」


 コックは薄闇の中から引き寄せた背もたれ付きの椅子に腰を下ろすや、銀の盆に乗っていたもうひとつのもの―――タブレット―――を手に取った。

「えーっと」

 茫洋とした目つきでタブレット画面を黙読するコック。なんなんだ、このマイペースは。こいつ、まさか儂が誰だかわかってないのか?


「石綿恒三郎さんでしょ、元政治家の。知ってますってば」

 コックはタブレットに語り掛けるようにつぶやいた。儂に目もくれず。

「知っててその態度とは。最近の若い者は礼儀を知らんのかねっ」

「あー、つばが飛ぶよ。汚いよ。ちゃんと質問には答えますからちょっと待ってくださいよ」

「貴様のような下っ端では話にならん、一番上の者を今すぐここに呼んで来なさい!」

「ここの一番上の人は今忙しいんで、その人から俺があんたの給仕をするよう頼まれたんですよ」

「儂を愚弄するとただではすまない。下っ端コック風情、電話一本で破滅させてやれるのだからな」

 携帯電話は……秘書に持たせておった!このレストランの電話はどこだ。

 こんな馬鹿な奴、相手にしないで電話を探しに行こう。自分で探すのが忌々しいが仕方あるまい。


「んー、大体わかった。あんたのこと」

 席を立とうとする出鼻をくじくタイミングでコックがタブレットから目線を離してこちらを向く。何考えてるか読めないぼうっとした目をしとる。

 コックが儂の前に置かれた白い椀のふたをとると、何もない薄闇の空間を白い湯気が芳醇な匂いとともに立ち昇った。

「お、おお。これは」

「ここで一番上の人の奢り。大好物でしょ、フカヒレのスープ」

 なぜそれを知ってる、疑念は食欲があっさりと押し流してしまった。


 上品に輝く黄金色のスープに浮かぶ島のようなフカヒレ。

 よく見ると、スープの海にも無数の細切りフカヒレが揺蕩たゆたっているではないか。

 青梗菜チンゲンサイを添えたり、タケノコを入れたりしない、フカヒレと上湯シャンタンだけで彩られた椀の中の世界。

 シンプルなれど、色、つや、匂い、温かみを認識すればするほど引き込まれてしまう。


「フン、無礼な接遇は後でたっぷりと灸を据えるとして、これはこれで食べてやろう」

 レンゲで上湯スープを一口掬い、口に運ぶ。

 年のせいか味がよくわからなくなってきたはずの舌がスープに包まれた瞬間、数年ぶりに『味』をきめ細やかに堪能し始める。あたたかな爆発が口内で発生した。

 感じた瞬間に溶けてなくなる雪のような極細のフカヒレ達が再び生を取り戻したかのように喉を勢いよく通って胃の腑に落ちてゆく。腹が熱い。

 とろけるっ。喉の内側までとろけそうだ。


 手仕事で熱加減を見極めながら徹底的にダシを湯に浸透させる。

 丁寧にアクをとり続けることでしか成しえない上湯スープの完成度。

 化学調味料いっさいなし。

 スープの黄金色を損なわないことまで計算しつくして醤油と酒はぎりぎりで抑えて、塩を主軸に。

 後味はきわめてすっきりなのに淡くない。中華の神髄の旨みの太さがしっかりとしている。


「フ、フハッ」

 儂としたことが、興奮して二口目を数滴こぼしてしまった。胸元にできたシミなどどうでもいい。このスープをもっと啜らせろ。


「お口にあったようだね。鶏まるまる一羽と金華豚のダシは贅沢だよー」

 コックの目に満足そうな光。その生意気な態度にも不思議とイラつかない。

「お、お前が作ったのか?」

 この旨味、儂の3分の1も生きてないようなハナタレに作れるわけがない。これは包丁と鍋に数十年捧げてこそ到達するものだ。

「久々にね。俺が今いる店のお客でフカヒレ注文する人いないから」

 若造が久々に作ったものに感銘を受けているのか、この石綿恒三郎が。


「飯を食べて幸せを感じることに上下も貧富もないよ。舌とおなかは平等で正直なものさ」


 それどころではなかった。

 椀の中央に横たわる滑らかで大きなフカヒレを味わうのに夢中だった。

 もはや説明不要の温かい上湯スープで煮込まれたつるんつるんでぷりっとしたフカヒレの塊に歯を突き立てるも、フカヒレは笑って押し戻す。

 儂の噛む力と歯が弱っているのだろう。なかなか噛み切れない。しかし、この一進一退の攻防が食の楽しさを思い出させていたのも認めねばならん。

 ようやく切り込んだフカヒレの切れ目から迸る鶏と金華豚のダシ。フカヒレ自体に味はないが、ダシを最大限に吸い込んだフカヒレは最高の贅沢料理なのだ。

 ふおうっ、気持ちいいぞ! この食い心地。


「―――あ、そうだ。石鍋さん、それ食べ終わってからのことなんだけど」

 コックがタブレットを指でスクロールしていた。

「今はこの噛みごたえに集中させんかっ」

「んじゃ、食べながらでいいよ。あんたが聞きたがってた説明ってやつをするからさ。どこから話そうかな」


 コックの一言は上湯スープより淡々としていた。

「あんたは今日死にます」

「ん!?」

「正確に言うとまだ死んでないけど時間の問題。死因は急性の心筋梗塞だって」

 儂は最大の楽しみだったフカヒレの塊をすでに食道に送り込んで、スープを飲み切ったところだった。

 食後の素晴らしい高揚感がコックの無粋で不快な話にズタズタにされた。


「不謹慎にもほどがあるぞ。お前の料理は絶品だったが、許せる冗談と許せない冗談がある!」

「死んじゃうことは俺が決めたことじゃなくて運命ってやつだから。文句があるなら後で言いなよ」

と、コックは怒声をするりと受け流してタブレットの情報を読みあげ続ける。

に影響する審査事項。数々の暴言、行政機関への

忖度そんたく、公金の身内への支弁疑惑、施設移転に関する諸々の―――」

「うるさい、黙りなさい、馬鹿者!」

「俺に言っても仕方ないんだってば。ただ、あんた良いこともいろいろやってるってこの報告書に書いてあるよ。そこらへんを頑張ってアピールしちゃいなyo」

「なんなんだ、その語尾は」

「そこはスルーで。で、過去のインタビューにて――――」


 人生の最後に食べたいものを一つ選ぶとしたら?


「『最高級のフカヒレのスープ飲んで、ごちそうさんって言って往生したいね。ハハハ』と答えてますな」

「覚えとらんわっ」

「(´・ω・`)そんなー。腕によりをかけて作ったのにー」


「そうだ。旨いフカヒレのスープで脱線してたが、ここはどこだ、お前は何者だ、儂をどうしようというんだ、責任者を連れてこい!」


 コックは食べ終わったスープ椀を銀の盆に下げ、タブレットも載せて立ち上がった。

「そろそろ蓬莱軒みせの仕込みの時間なもんであがる時間だわ。あんたの質問に簡単に答えると―――」

 コックの後ろ姿が部屋の奥の薄闇に紛れていく。最後まで茫洋としたままだった声だけが残響する。 


「ここは地獄。俺は閻魔大王の知り合いってだけの通りすがりの料理人。あんたはこれから閻魔様の審査を受ける身で、死ぬにはちょっと猶予があるから閻魔様の粋な計らいで最後の晩餐を召し上がっていただいたと。VIP亡者待合室で飯食える特別待遇であんたもハッピー。会いたがってた責任者には後でちゃんと会えるから、ね。ちなみにこのタブレットは閻魔帳。地獄もクラウドの時代なんだね」


「おい、ちょっと待て!儂をここに置いていかないでくれ!金は払う。君を私の専属シェフに迎える条件もつけようじゃないか」

「うーん、俺は閻魔様と良い関係でいたいからルール破りは遠慮しとく。あんた、別に地獄行きが決まったわけじゃないんだから、無気力に応援しとく」

 コックの気配が完全に消え、儂はまた薄闇の部屋で独りになった。

 死ぬ?儂が死ぬ?あり得るかそんなこと。儂は石綿恒三郎だぞ!



 目が覚めた。

 見慣れた天井。いつもの寝室。女房はもう起きて階下に行ったらしい。

 儂は毎回の食事をそれぞれ三膳つくらせている。その時の気分で一膳を選び、残りは箸もつけない。

 今朝は何を選ぼうか。朝から中華はありえないがしばらく中華料理は避けたい気分だ。あまりにも夢見が悪すぎた。

 ん、この胸元のシミ。上湯スープ……。


 唐突に寝室のドアが開いた。

 赤ら顔に2本の角を生やした黒スーツの男が入ってきた。

「お待たせしました。責任者えんまさまがお会いになるそうです」

 ドアの向こうに広がるのは廊下ではなく、赤黒い空と鉄色の大地の世界だった。


(終わり)


「蓬莱のシーフー」は私自身好きな作品でして、伏線回収も意識しながらこれからも続けますのでよろしくお願いします。連載間隔が長いだけなのです。

「仮面の夜鷹の邪神事件簿」も同様にごひいきに願います。









 

 

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