余話
第二十八話「或る男の晩酌」
梅雨入りしたものの、雨らしい雨の降らない6月の下旬。
最近忙しくてご無沙汰していた馴染みの店で夕飯をとろうと、曇りガラスのドアをカラリと開けた。
中華屋特有の甘いの辛いのが混ぜこぜになった空気が全身を包み込む。
仕事帰りでくたくたの体、この匂いにとらわれたらもう後戻りできない。
さほど広くない店内を見渡してカウンター席、テーブル席の空き状況を瞬時に見定める。
決めた、と顔の長い店員とアイコンタクトしながら席につく。
ほぼ独りで来ているから、結局はいつものカウンター席なのだが。
「いらっしゃいませ!」
久しぶりでも変わらない元気な女の子―――この店の経営者だ。名前はなんだっけ―――が実にいいタイミングで注文をとりにくる。
「え......とビールの中瓶と餃子。後で天津丼をお願いします(餃子と言えば天さんだぜ)」
昔から買い物でも食事でも店員に丁寧な言葉遣いをするのは親のしつけの賜物だ。
女性は彼氏が店で横柄な物言いをすると途端に醒めるそうだし、何より私自身仕事で横柄な物言いをされるよりも、丁寧に会話できた方が気持ちよく対応できる。
女の子が中瓶とコップを持ってくる。注文を承った料理人のお兄さん―――私より少し若いが雰囲気はお兄さんだ―――が餃子を焼き始める。
このジュアアアア、がいいよね。日本人は焼き餃子。上海に赴任している同期によると、中国では水餃子が主流らしい。
コップにビールを注ぐ。あー、また泡だらけ。コップを斜めにして注いでもなぜかうまく注げない。
新人の頃、上司にお酌をして「下手だなー、お前」とよく言われた。飲み会ではジョッキの生ビールだと嬉しい。
自分独りの晩酌は中瓶くらいで好きにちびちびやるのが好みだ。泡だらけの一杯目に目くじらたてる人もいない。
んじゃ、ま、お疲れ俺。
今日も仕事が順調だったことに加え、趣味の方で一区切りついたことに、心の中でセルフねぎらい。
泡だらけの中を少しだけ滑り落ちてきたビールが乾いた喉をちょっとだけ湿らせて、胃にまっさかさまに落ちていく。
「あー、この一杯のために生きてる」と職場の40歳近いおっさんがよく言ってた。あのセリフ嫌いだが、今日だけは少し同意だ。
「はい、餃子お待ちどうさま」
カウンターの向こうから料理人がカウンターの上にお皿を置いた。
人間、視覚より前に嗅覚が反応する。鼻腔から大脳へノンストップで情報がいくから。
香ばしい皮の匂い。しっかりと火を通したぜと主張する焦げの匂い。
6つの餃子が行儀よく身を横たえ、私が箸をつけるのを待っている。
横腹のぬらっとした白みが艶めいて、どことなくエロい。
小皿に醤油とラー油を注いで、箸をとろうとしたとき。
「しばらくぶりですね。さっぱりした顔してますけど何かありました?」
と料理人が話かけてきた。手には私の注文した中瓶。注いでくれるようなので、
コップを傾けて差し出す。
「春にあったあの大きな災害の支援や復旧に、うちの会社かかりきりでしてね。ようやくそれが一区切りついたんですよ」
もちろんその地方のインフラや住民の生活が完全に復旧したわけではない。これからも復旧・復興は続けていくことだろう。国や自治体が復興計画を作り、我々民間はできる仕事をやっていく。
一区切りとは、私自身のこと。ゴールデンウィークはじめ休日もかかりきりだった支援業務がひとつ山を越えたので、次の人員と交代となった。
明日からはもとの通常業務に専念。これもまた楽ではないんだが今は考えまい。
「それは大変でしたね。お疲れさまです」
頭を下げた料理人の注ぎ方は見事だった。黄金色と泡が8:2。
「どうも。ではいただきます」
今度は思いっきりビールが喉を流れていった。
んあーーーっとか叫ばないよ。まだおっさん自覚してないから。
美味かったよ。
コップが空になると、料理人がまた注いでくれる。勧め上手だな。そろそろ餃子に手をつけたい。
「もうひとつあるんじゃないですか?区切りが」
私はコップを持ち上げる手を止めて、料理人の顔を見つめた。
「仕事の方じゃなくて」
どうして知ってるんだ、この男。
そう、今日は私が趣味にしている小説―――と呼べるレベルかどうかはさておき―――の、ある賞の発表日だったのだ。
発表欄に私の作品の題名はなかった。まあ、予想通り。
たださ、無理だとわかっていても、発表予定時間の前は少しそわそわしたり、微粒子レベルでもしかしたらを期待したりもするじゃない?
まあ、自分の身の程を知ってる私だって少しはがっかりする。
数か月前からの挑戦だったからなおさら。
趣味だからまた書けばいいって、割とすぐに立ち直ってしまったけどね。単純。
「ええ、区切りのこと、もうひとつありましたよ」
コップの中身を飲み干す。
今度は少しだけ苦い。舌にも感情ってあるのか。
「また続けるんでしょ」
空になったコップを手の中で転がして答えを探す。
「週末に考えます」
「そうですね、明日もお仕事ですものね。いつか読ませてください」
料理人はへらっと笑い、中瓶の中身を全てコップに注ぎ終えた。
「シーフー、あちらのテーブル席に担担麺2つ」
女の子の声が店内を渡り、料理人は、はいよと茫っとした返事で厨房に戻って行った。
不思議な雰囲気の料理人だよな、彼。ちょっと主人公向き?
でも俺TUEEEな要素なさそうだな。転生イメージもわかない。
まあいいや。今は目の前の美味しそうなモンスターが私の胃におさまりたがってるぞ。
さあ勇者よ、箸をとれ。
(終わり)
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