第十八話「終わってない」
仕事帰り。駅からアパートに着くまでが長いと感じるようになった。
見上げる窓はいつも暗いまま。他に明かりを灯すやつがいないのだから当然だ。
夕飯はファーストフードかコンビニ飯。量は少な目。食欲がない。
何を食ってもうまいと思わないし、腹が減らなければそれでいい。
風呂に入って鼻歌を歌うこともなくなった。
聞く奴もいないし、何より歌える気分じゃない。
コップの中に立てた歯ブラシは一本になり、カランと転がる音が大きくなった。
歯磨き粉の減りは緩やかになった。
布団は敷きっぱなしですぐ横になれる。横着をとがめられることはもうない。
しばらく陽に当ててもいない。ふかふかの布団で寝たいと思う奴もいないから。
夜中にふと目が覚める。隣にひとの気配を探してもあるわけがない。
何度繰り返してもこの部屋には俺しかいないのはよくわかってるだろうに。
携帯と目覚まし時計のアラーム二重奏で目を覚ます。
布団にくるまり続ける往生際の悪い俺を蹴飛ばす足はどこからも飛んでこない。
朝食は食べない。コーヒーを淹れるのすら面倒だ。コンロもしばらく使ってない。
毎日しっかり食べる習慣は過去に置いてきた。
後頭部に寝癖がついてても適当にわしゃわしゃやって、セット完了。
ネクタイが曲がってて上司に注意されることが多くなったな。
ドアに鍵をかける。これはしっかりと習慣づけないといけない。
アパートの敷地を出るまで振り続けてくれた手が懐かしい。
背中を丸めて駅へと向かう。猫背を注意されてバンと叩かれた感触を思い出す。
思い出しても背筋は伸ばさない。伸ばしてどうなるというんだ。
この二か月の繰り返し。
今朝、ここから少しだけ違ったのは、駅前でのことだった。
行き交う通勤客にチラシを配っている男がいた。
いつもどおり両手をポケットに突っ込んで、受取拒否アピールしようとした。
同年代っぽいその男がスッと差し出してきたそれは、足を速めてスルーしようとした俺の出鼻をくじいて、ポケットに突っ込もうとした手にひょいっと自然に滑り込んできた。
あいつが出て行ってから、頑固に守っていた『俺なんかどうなってもいい』ルーティンが崩された気がした。
あいつの姿を消し去るために、無理にふてくされて、無理に虚無をきどって、無理に自分を無価値なものに貶める。
それを信仰のように続けることが自分とあいつの清算になると思い続けて。
俺の心に生じた一瞬の隙を衝いて、さりげなく差し込まれた一枚のチラシ。
ポイ捨てすりゃよかった。そうすれば、俺はまたゆっくり沈んでいく自分に戻れる。
チラシに目をくれる。よくある中華料理のメニューが並ぶ。
タンメン、酢豚、鶏のカシューナッツ炒め、かに玉炒飯、八宝菜、チンジャオロース、エビチリ、中華丼……。
グゥゥゥ
チラシを持ってない方の手でコートの上から腹をおさえる。
ただ文字の羅列を見ただけで、体が忘れていた食欲を訴え始めていた。
久々に、あったかくていいにおいのする飯をガツガツ食べてみたい。
どうしたっていうんだ、死なない程度に何か食えるものを口に入れてれば済むようになっていたじゃないか。
グゥゥゥ
ダメだ。中華屋のメニューが「飯食って元気出せ」と訴えているなんて誰かに話したら、病院を勧められてしまう。
なんなんだ、このメニューは。配ってたあの男は。
足を止めて振り返る。
チラシ配りの男の茫っとした眠たげな目は俺を見ていた。
「どんなつらいことがあってもいつか必ず過ぎていくから。その時に備えてご飯たべなきゃ、次にいいこと来たときに乗り遅れちゃうよ」
「……」
「あんたの腹が鳴らなかったらもう手遅れだと思った。たとえあんたがゆっくり壊れていきたがっていたとしても腹は正直さ。あんたはまだまだこれから。終わってない」
「……」
「今夜寄ってってよね。おいしいもん作るから」
「……ああ」
「じゃ、お仕事がんばって」
俺は畳んだチラシをコートのポケットに入れて改札をくぐった。
終わってない、か。
夕飯は酢豚にあんかけチャーハンでどうだろう。
(終わってないという話が終わり)
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