第十七話「地獄の酸辣麺  Ⅱ」

 消えよう。

 消えてなくなって、楽になりたい。

 何もしたくない、何も考えたくない。もうたくさんだ。


 そうして私は―――身を躍らせた。




「うぉっ?」

 全身の血の気がひいた。

 ビルの屋上から飛び降りたことを後悔したからでも、アスファルトに打ち付けられた痛みからでもない。

 2本の足がしっかりと道路を踏みしめていた驚き。時間がすっ飛ばされたような違和感。

 人が9階の高さから飛び降りて無傷で済むことはない。

 しかし、その無傷がここにいる。

 私はおさえきれなくなった願望に合わせた白昼夢を見ていただけなのだろうか。

 全身から空気が抜けたようにクタクタとその場に座り込む。

 時たま車も通る道だが、轢かれても構わない。むしろ一瞬で決めてほしいくらいだ。



「あのさ」

 突然背後からかけられた声に心臓が飛び出そうになった。いや、このまま破裂してしまってもいいが、そこまでやわくはなかった。

 振り返ると、配達用スクーターに乗った白い料理人服の若者がぼうっとした目で私を見下ろしていた。

 いつからそこにいたのだろう。飛び降りる―――本当に飛び降りたのか自信がなくなっていたが―――寸前には人も車も見えなかったし、地面にへたりこんだ前後もスクーターの音ひとつ聞こえなかったのだが。

 うまく声を出せずに咳き込んでしまった。


「ここに落ちたら道路に赤い大きな花がぱあっと咲くでしょ。それはきれいな花とは違うよね。見てしまった人のこと、掃除する人のこと、少しは考えたら」

 唾を飲み込む間に何とか整理する。

 この若者は私が飛び降りようとしていたのを知っている。それほど追い込まれて身を投げるしかなかった私の命の心配をするのではなく、後始末のことを考えろと言っているのだ。つまり、私の飛び散った命をゴミと同じ扱いにしているのだ。

 なんて人間味のない嫌な奴だろう。

「君なぁ」

 二度と立ち上がることはできないと思っていた足腰が意外な力強さで再び地面を

踏みしめた。

「私がどんな思いで死を選択したかわかってるのか」

 若者は茫洋とした表情をひとすじも動かさない。私の心は小さな爆発を起こす。

「会社が傾いたのは私のせいではない!クビにされる覚えもない!妻が娘を連れて出て行ったのもだ!家のローンに払う金なんてもう残っちゃいない!どいつもこいつも私を馬鹿にして!お前もだ、この若造が!」

 茫……。

 ああ、怒鳴った私が愚かだった。偶然居合わせた若者に何を言っても始まらない。

 すべて私が至らなかったからなんだ。その結論はさっき飛び降りる前に出したじゃないか。

「怒鳴って悪かった。さ、行ってくれ」

 私はスクーターに道をあけた。世の中で必死に働いて家族を養うことのむずかしさを二十代半ばの出前持ちに理解できるわけもない。

 若者は走り去る前に

「これからの人生でちゃんと一花咲かせてみたらどうかなって?俺、次は助けないよ」

 これからの人生だ?、次は助けないだ?

 ろくに苦労もしてなさそうなガキのくせに何をわけわからんことを言ってる。

「偉そうなことを言うな!」

 と叫んだ時にはスクーターはとうに次の角を曲がった後だった。



 最後に話をした相手があんな奴だということは、やはり私の人生はろくなものではなかったみたいなものだ。空になってると思った感情がまだ残っていたのは驚いたが、それがなんだというのだ。私の選択は変わらない。

 もう一度だ。

 あの屋上からもう一度。それでおしまいだ。

 


「うぉっ?」

 今度は足が地についていない。何度かばたつかせみたが足は空を蹴るばかり。

 その代わり、背広とワイシャツの後ろ襟の部分を何かに吊り下げられている。

 意識を目の前に向けると、赤黒い空が奥行きもわからないほどに広がっていた。

 何も支えのない足元の下。

「ひゃああっ」

 とんでもない高さの断崖とその下に黒々と広がる煙。ところどころ薄くなっている個所から空の色に似た赤黒い何かが覗く。

 私の体は荒涼とした断崖の際にぶら下げられており、襟の後ろの支えがなくなれば、高さを推測するのも恐ろしい距離を落ちることになる。


「お前、死にたいんじゃろう?」

 私の体を支えている何かがグイッと動き、左に半回転すると巨大な顔と対面した。

「うわっ、うわわわわ!」

 ここの空の色を若干薄めたような肌の色の容貌は太く逆立った眉と威圧感たっぷりの双眸、ごつくて大きな岩のような鼻、への字の大きな口のパーツが完璧な配置になっていて、一目見れば誰だかわかるものだった。

「わしが誰だかわかってるようじゃな」

 できるだけ早く多く首を縦に振った。衣装も冠も片手に持っている帳面も、

以外のものではないと雄弁に語っていた。

「お前の人生、なかなかにつらい展開だったのはわかるんだが、まだやりなおせるのに自ら命を絶つのなら、わしはお前を地獄に落とさにゃならん」

「じ、地獄ですか」

 私はチラと眼下の光景に目をやった。今度は誰かが虐げられているような悲鳴や

高らかに笑う野太い声も耳に入ってくる。私の脳裏に浮かんだ光景はいつか絵でみた想像上の地獄絵図だった。

「最近は戦争だ、テロだ、自殺だとワケありの死人が多くなってな、わしも残業続きよ。人界の仙人たちが、人間同士のいがみ合い止めるよう努力してりゃあ、もう少しはマシになるんだがのう」

 その巨人―――閻魔大王はそのこわもてに似合わない悲しそうな表情でため息をついた。


「で、お前はまだ死にたいのか」

「お、お手を煩わせるのは恐縮ですが、もう生きていたくありません……」

 閻魔大王は怖かったが、あの絶望だらけの人生に戻るのも怖かった。

「地獄に落ちてもか」

「なるべくなら地獄じゃない方がいいのですが」

「そうはいかんよ。お前は最初に飛び降りたときに、一度やり直すチャンスをもらったにもかかわらず、また飛び降りおったのだからな」

 一度やり直すチャンス?

 あのときか。

 やはりあの最初の飛び降りがしたのは白昼夢ではなかったのだ。

「シーフーの物言いが気に障ったとしても、お前は再考してみる必要があったんじゃ」

 シーフーとはあの生意気な若者のことだろうか。閻魔大王とは知り合いのようだが。

 私を吊り下げていた支え―――閻魔大王の右手の親指と人差し指が私の襟首をつまんでいたのだ―――が動く。閻魔大王は断崖の縁に立っているので、自然と私は

地獄の大地の上空に宙づりにされた形になる。

「ちょ、ちょっと閻魔様!」

 閻魔大王は下を見ろと目線で指示する。ここは従うしかないだろう。

 黒い煙が晴れて、赤錆びた大地を走って逃げる亡者を追いかけて痛めつける鬼の姿が見えた。手にした棍棒で殴られたらひとたまりもない。


「生きたくてもそれがかなえられなかった命がある。誰かの自己満足な正義とやらの犠牲になってしまい、悔いの残る最期を迎えた命もある」


 別の場所では、赤い粘ついた液体の池に顔を押し付けられてもがき苦しむ亡者の姿が見えた。

 

「その時の苦しさから逃れられるために死を選ぶことが絶対に間違っているとは言わん。人間の倫理は時と場所ごとに変わるでな。しかし、もがいてもがいて生きることをやりきったかどうかは全時代万国共通で問われるぞ」

 

 私は万策矢尽きて、あの屋上に立ったのだろうか。閻魔大王によって恐ろしい宙づりにされているからその考えに同調するのではなく、思いだすのも嫌なこと含め、もう一度考えてみた。

 会社に尽くして報われなかった。クビになりかけていた。世の中、そこだけが職場ではない。今までと同じ待遇か得られずとも、職探しが困難を極めたとしても、生きていく手段はゼロではなかったはずだ。

 家族との会話もそうだ。仕事がうまくいかなくなり、娘が難しい年頃になり、極端に雰囲気が悪くなっていったのは事実だ。しかし、妻が自分や娘を地道にサポートしてくれていたことにきちんと目を向けようとしたか。娘と不器用なりに対話をしようと努力したか。向こうが避けるからいけないんだと思い込んでしまったこともあったに違いない。

 家のローンがかなり危険なところまで行っていた。それを維持できなければ、いっそのこと値段のつくうちに手放してやり直す選択肢もあった。持家という今となっては無意味なプライドにこだわっていなかったと言えば嘘だ。


「お前の家のローンなどたかだか30年。ここに落ちればそれどころではないオツトメ期間になる」


 私の視界のそこかしこでうごめく地獄の獄卒と亡者の関係は、人間世界のそれと同じだ。傷つける者、奪う者、騙す者、苛める者がいる。それらの被害者がいる。

 時として加害者と被害者は入れかわることもある。弱者がさらに弱者から搾取することだって。

 人間同士で虐げあう関係はつらいが、明日になればどう転ぶかわからない。努力や運で事態が好転する可能性だってないとは言えない。

 しかし、ここでの獄卒と亡者の一方的な関係は、生きている間より厳しいだけではなく、亡者が地獄から救われない限り永久に続く。考えるだけでゾッとする。


「どこに行っても理想郷なんてものはないのかもしれん。残酷なようじゃがな。報われずともその時その時を生きていくことがあらゆる生物に課せられた呪いであり、祝福じゃな。わしはの審査官にすぎんから、すべての人を幸せにできる力も知恵も知らんがの」


 閻魔大王は再び私の顔を自分に対するように向けた。


「ちょうど昼飯前の小休止中だったでな。わしもたまには気まぐれを起こしてみたくなったわ。一度シーフーに助けられた命、人界でもうひと頑張りしてみるか?死ぬ気で石にかじりつく気はあるか?」


 私はさっきまで死んで楽になることばかり考えていた。

 しかし、死んでも自分が求めてた安息は用意されていないらしい。

 正直に言うと、この地獄を見せられたら元の人生の方がはるかにマシだ。どんなに苦しくても馬鹿にされても、生きてればいいことのひとつふたつはあるだろう。

 それに、先ほどシーフーという若者に対して爆発させた怒りや負けん気はそこそこ残っている。あれを武器にもうひと頑張りやってみて、それでもダメならまたそのときだ。

 シーフーが、そして閻魔大王がくれたチャンス。いかしてやろうじゃないか。

「わかりました。目が覚めた気がします。私、死ぬ気で―――」


 その時、閻魔大王の背中の向こう側から聞き覚えのある声が私の言葉と重なった。


「おーい、閻魔様ー!酸辣麺サンラーメンのびちまってるよー!」

閻魔大王は驚愕の表情を浮かべ、すごい勢いで声の方へ振り向く。

「マジで!?」

その勢いで振り回された私の体。それを一点で支えていたスーツの襟首部分がビッと裂けた。



「エッ?」

と小さく声をあげて再度こちらに振り向く閻魔大王。

「エッ?」

と私も同じ声。 

 支える足場も上から吊るす指も失い、宙に舞った私の視線は閻魔大王のそれと一瞬だけ合った。重力に従って自由落下がはじまる中、あれだけ大きかった閻魔大王の体がみるみる小さくなっていく。

 そして下に向けた視界の中でどんどん広がる赤黒い大地の上で、亡者たちをしばき終えた獄卒が金棒を手に舌なめずりしていた。


 断崖の上。

 閻魔大王はこめかみをつたう一筋の汗を手の甲でぬぐった。

「ん……まあ、死ぬ気で頑張れ」



(終わり)

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