第十九話「Beginning」
コップのビールを一気に干すと
ぷはーっ
となる。なるわよね?
若い女がオヤジくさいからよせ、とか余計なお世話だっつうの。
町の中華料理屋のカウンターでやればむしろ絵になるってもんよ。
飲みたい気分なの。
運ばれてきたお酒のおつまみ兼ひとりだけの祝勝会のメインディッシュは、シェフ―――こういう店の場合はなんと呼ぶのかしらね―――のオススメの二皿。
三色野菜の紹興酒漬けとネギチャーシュー。
私は大して呑兵衛ではないけど、いかにもなチョイスは気に入った。
ま、今は目の前のおつまみとビールを楽しもうじゃない。
白、緑、橙の三色が目を楽しませてくれる紹興酒漬け。
大根ときゅうりとにんじんの拍子切りを紹興酒メインの汁に一晩漬けて冷やしたもの。紹興酒の他には……醤油、砂糖、生姜、唐辛子と……このピリッとくるのは山椒かな、そのあたりをひと煮した味がしっかりと染み込んでる。
洒落たバーで出る野菜スティックなんかよりよっぽど味わい深くて、お酒にあうわー。ビールよりこっちで酔いそう。
箸できゅうりをつまみ、前歯でガブッ。おお、きゅうりの中身までちゃんと味が浸透している。
白い大根は奥歯でガリッ。橙が本当にきれいな人参はコリコリとかじる。
口の中、ビールと紹興酒でちゃんぽんになった気分。酔うな、これ。
でもさ、この、癖になる染み込みと、歯ごたえは、止まらない、わね。
口を思いきり動かしたのでビールで小休止。
物思いモードに入ると、仕事のことに頭がいってしまう。ずいぶん仕事人になったものね私。本当信じられない。
「ったく腹たつっての」
思わず口をついた独り言、そばを通りかかった猫っぽい顔した従業員は自分に言われたのかと勘違いして「ミャッ」とリアクションとった。あ、ホント猫みたい。
んー、酔ってきたか?お酒は割と強いほうなんだけどな。
腹が立つ。それは今日のプロジェクト発表会のことだ。
入社3年目にしてプロジェクトチームに抜擢された私はそれは張り切ってこの仕事に取り組んだ。それこそ残業上等、休日出勤だって。
特に去年の秋はまるまる会社にいたような気がする。
それもこれもプロジェクトのデータ集計や、資料作成、こまごまとした稟議の持
ち回り等の下っ端仕事―――抜擢されたとはいえチームでは一番下なのだ―――だけでなく、プロジェクトの成果を高めるために率先して打ち込むには時間がいくらあっても足りなかったのよね。
二度とないかもしれないチャンスを確実にモノにしてがんばらなきゃって気持ちがあった。
それは一緒に住んでいた彼が理解してくれたからこそであって、どんなに辛くてもくじけずにいられたんだわ。
でも物事には限度ってものがあるのよね。打ち込みすぎて周りが見えなくなった私と彼とのすれ違いは日増しに多くなっていった。
ささいなことで口論になり、緊急の仕事で約束を反故にすることも一度や二度ではなかった。これは私が悪かったと思う。
でもそれは、2人でしっかり働いてずっと一緒にいられるためのがんばりだったんだよ。
その幸せを求めて頑張れば頑張るほど、彼との距離は遠くなり、ある日埋められない溝にまでなっちゃった。
後はお決まり。
私が部屋を出ていく形で今に至る。今は仕事が恋人。
「何が仕事が恋人だっての」
いかん、また声をあげてしまった。今度はモヒカン頭の従業員が「コケッ」と叫んで店の奥に退避していった。ごめんごめん。どうも荒れ気味。
プロジェクトの発表会は無事成功。私の苦労は報われた……はずだった。
この日のために新調したスーツに意気揚々と身を包み、会場を後にした私を待っていたのは、賞賛を装った悪意だった。
同じ女性の正社員は、ちょっと運がよかっただけのくせにいい気になってと陰口をたたく。嫉妬?少しは真面目に仕事に取り組んだらどうなのよ。
派遣の子たちは笑顔で距離をとっていく。お局に睨まれたくないのよね。
男性社員は、ムードメーカーだとか華は必要だと言いやがった。誰よりも下作業したの私ですよ。
上司は、笑っていない目で薄っぺらいお褒めの言葉を下げ渡した次の瞬間にはさらに上司の後を追って、自分の功績をアピールしまくってた。○ね。
出る杭は打たれる。出過ぎた私は打たれる。人の頭、カンカン叩かないで欲しいもんだわ。
ヒールは磨り減るわ、
神経は磨り減るわ、
お肌は荒れるわ、
「その結果がこれですかっての」
ビールをあおる。注文を受けた長い顔の従業員がおそるおそるビールを置く。
もう二、三本追加しといて。
自分と彼のために頑張った私に残ったのは、ちょっと嫌な評判と一人になった喪失感だけ。
会社のため、彼のため、自分のため。全部空回り。
もう飲むしかないかっ。
ビールを再び注いだとき、店のガラス戸が開いた。ヒュウッと寒風が吹き込む。
早く閉めてよ、もう。
その客はバイトの女の子―――ここ、従業員多すぎない?―――に案内されてカウンターの私の隣の席に腰かけた。地元じゃなかなか人気の店らしく、ほぼ満席に近かったから仕方ない。
椅子に置いていたコートとバッグをカウンター下の荷物置きに移した。
視界の隅に映った客の手にはこの店のチラシが握られている。その上着の袖に見覚えがあった。
「酢豚とあんかけチャーハン」
カウンター向こうの若いシェフにかけられた声。
酔った勢いで隣の客の顔をガン見した。
「あっ」
「お前……」
最後に見たときのこの顔、私は涙でよく見えなかったんだ。
向こうもそうだったと思う。
今。片方はいい感じに酔っぱらった目で。もう片方はやつれた顔の中で目だけをまんまるに見開いて。
「なんであなたがここにいるのよ」
「そ、それは俺のセリフだろ。お前こんなところで何してんだよ」
「ちょ、ちょっと
「どうでもいいだろ。今朝ここのチラシもらったから来ただけだ」
シェフがコン、と彼の目の前に空のコップを置いた。
「ビールは頼んでないよ」
彼の言葉は調理に入ったシェフの耳には届かなかいみたい。
コップを無言で握りしめてる彼の姿がおかしかった。
「はい」
私はビールを注いであげた。
「なんだよ」
「間抜けな状態を間抜けじゃなくしてあげたんだから感謝してよね」
と無理矢理の乾杯をした。
「お前のおごりなんか受けるいわれはない」
「どうでもいいよ。他人だって隣り合えばこういうこともあるっての」
私が飲み干すと、喉をゴクリと鳴らした彼も続く。プライドは高いけど割と素直なところ、変わってないな。別れてまだ二か月ちょっとだけど。
「あとは手酌ね」
瓶を間に置く。
私はおつまみの二品目、ネギチャーシューにお箸をつけた。
これはもう言うまでもなくおつまみの王道。
斜め切りした長ネギと細切りチャーシュー、粗く切ったザーサイをラー油であえたお手軽料理。同棲していた頃によく作ったっけ。つい注文しちゃったのもその頃の味が忘れられなかったからかもしれない。
「おいしっ」
余計な説明は不要ね。このチャーシューは相当いいお肉を使ってる。
ああ、会社の奴らのバカヤロー、私は今幸せだ。
きょとんと見ている彼にお皿をすすめる。
「このおいしい幸せを御裾分けしてあげる」
「あん?俺は酢豚とあんかけチャーハン頼んでるんだよ」
「じゃあ、あんたの頼んだ料理を少しよこしなさいよ」
「嫌だね。おい、お前いったい何杯飲んでるんだ?」
シェフがスッと私の前にレンゲを置いていく。このひと、聡いんだか鈍いんだかどっちよ。
「ヤケ酒アンド祝勝会。一向に成長しないあんたもつきあいなさいよ」
「口が悪いところ変わんねえな。ん、祝勝会でヤケ酒っておかしくねえか?」
「話せば長いのよ。そもそも私が仕事に打ち込んだのだってさ」
酒の勢いだっていい。今の気持ちをぶつけられるとしたら彼だけだ。別れても彼だけだ。
(この人たち話が盛り上がりすぎて、酢豚とあんかけチャーハン出すタイミングがわからない。ボス、指示をくれ……)
「まあ、お前のつらいのはよくわかった。でも選んだ道だろ。負けんなよな」
「ヒック、とーうぜんよお。また明日から始まるのよぅ」
「もう遅いから帰ったほうがいいぞ」
「そーするわぁ。お会計すみませーん」
私はコートとバッグを持って彼の後ろを通りしなに、
「ご飯は三食きちんと食べる。休みの日は布団を干す。わかった?」
と囁いた。
「あまり酒飲み過ぎんなよ。気をつけて帰れ」
「あら、タクシー呼んでくれたの?バイトちゃん気が利くわね」
ちょっと千鳥足の私の背中をバイトの女の子が支えてくれる。
席でチャーハンの残りをほおばっている彼は
「突然でびっくりしたけど、打たれ強いお前で安心した。じゃあな」
私は背中で彼の声を受けて、ほーらいけんを出た。
お酒で火照った肌に寒風が心地よかった。
「大丈夫ですか。行先は○○2丁目でいいんですね」
バイトちゃんがタクシーの運転手に再度行先を伝える。
「ありがと。ここ通ったら急に飲みたくなって長居しちゃった。お料理もおいしかった。また来るわね」
「はい、お待ちしております」
タクシーが走り出す。
私はここからまた始めるんだ。
(終わり)
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