第6話


洋服タンスや押し入れ、トンネルは別世界への入り口だと誰かが言っていた。



わたしが読んでいた物語の多くにもそんな世界の設定があった。



二世界論。



空想や、幻、それに白昼夢。



非現実的で超自然の要素がある世界。



二つに分けるのが好きなどっかの誰かさん。



わたしの世界はいったいどちら側だろう。






別世界に行ける通路が存在しているのだとしたら、この世界の通路はどこにある?



その世界へ行くには、やはり資格は必要だろうか。



いいや、資格なんて必要ない。



別世界に掟や法則はない。



死者の世界なんて本当に存在するのだろうか。



ただの消滅に繋がるのではないだろうか。



もし、つなぎ止めているものがあるとすれば、それはなんだろう。








黒い日傘を差して、太陽が照りつける日中に外に出て、日光浴をしていた。



わたしの目には、周囲のものがあまりに眩しくて反射してしまって、


白っぽくしか移らなかった。



そこに帽子を被っている男の子と女の子が目に入って来た。



影でわかった。



男の子はキャップで、女の子は麦わら帽子を被っている。



どちらも微笑ましいくらい、似合っている。



女の子と男の子は会話少なくとも仲良さそうに寄り添って歩いている。



そこへ一人の少年がやって来て、


キャップの男の子と麦わら帽子の女の子のことを冷やかした。



キャップの男の子が不機嫌そうに何かを言い返せば、


少年は気分を悪くして、女の子の麦わら帽子を奪って行った。



女の子は終始ただおろおろとして傍観していただけだったけれど、


自分の麦わら帽子を取られ、驚いて泣いてしまった。




キャップを被った男の子は、女の子の麦わら帽子を取り返そうと駆けて行った。



女の子はずっとずっと泣いていて、わたしは思わず近寄った。






「だいじなぼうしだったの?」



そう尋ねる。



キャップの男の子が帰ってくるまでの、つなぎ。



尋ねなくても良いようなことを口から紡ぐ。



何と声をかけていいかわからないからだった。




女の子はしゃくりあげながら頷いた。



長い髪が風に弄ばれ揺れて漂う。



涙が流れて濡れた頬に髪の毛がくっつくが、女の子はおかまいなしに涙を流し続ける。



そんな言葉では到底女の子の慰めにはならない。





わたしは女の子の髪を撫でて整える。



柔らかくてサラサラとした髪の毛。



何故か、病院の枕や、廊下に落ちているごっそりした髪の毛がフラッシュバックされた。



どこからか学校のチャイムが響いてくる。



きっとあの少年は、学校のグラウンドなどにいるのだろう。



少年の日焼け具合から、友達とサッカーをしたり、


遊具で遊んだりしている姿が想像出来る。



勝ち気な子の感情表現なんてそんなものかもしれない。



そんなことは泣いている女の子には言えなくて、ただ自分の慰める手元だけを眺めていた。






女の子は帽子が無くなってしまってから、すっと日陰に入った。



太陽の光を避け、まるで空に怯えるように小さくなっている。



わたしが差した、黒い日傘には入らず、木下の日陰に入っている。



昨日降った雨のせいで出来た水たまりに、長いワンピースのスカートが浸っている。



水たまりは土の中で濁った色をしていた。



女の子は浮かない表情で、水たまりに手を伸ばす。




わたしは雨上がりの空を眺める。



今の女の子の心とは対称的な青く澄んだ空。



女の心はひどく淀んでいるのだろうと思う。



女の子の手は、泥水に浸かっていて、彼女の白い手はその中の泥を掴んでいる。



こんなときにどんな言葉をかけたら良いのかわからないわたしは、



ただ清々しい空を複雑な気持ちで眺めた。



キャップの男の子は、女の子の麦わら帽子を手にして帰って来た。



女の子は笑顔で駆け寄って行こうとしたが、駆け出そうとして急激に失速し、



立ち止まるのをわたしは不審に思った。



キャップの男の子の右半身は傷だらけで、


引き摺った右足はからはあらぬ方向に向いている。



彼の頭からも血が出ているけれど、キャップを目深に被っているため、


どこを怪我をしているのかわからない。











キャップの男の子は無愛想に女の子へ麦わら帽子を差し出す。



女の子は怯えてしまって、なかなか受け取ることが出来ない。



キャップの男の子の足下には黒い水たまりが出来ていく。



わたしの手を何気なく見れば、生暖かい水が流れて行く。



黒っぽくて、どこかで見たことのある色のもの。



生暖かい水は溶けていく。







ベッド横の規則正しく並んでいる兵隊の人形が乗る机の埃をタオルで拭いて、


整列をあるべき様に正す。



たとえ寝ている間に動き出しても、わかるようにと思って、


いつもきっちりやっているのだけれど、何ひとつ動いていない。



はたまた、バレないように完璧な序列に戻しているのだろうか。




じっと眺めては、乗っている兵隊を全部落とす。



ぱらぱらと落ちて小さな部品がバラバラに散らばる。







心はここにあらず。



(誰の心が?)



腐敗の進むぼろぼろの肌の皮膚が黒ずんだ足が目に入る。



「自分を見失いそうだ」



そう、ひとり言を宣う。



ぐちゃぐちゃになってしまったものは何だったのだろう。



心が、ツギハギだらけ。



バラバラにしてしまったほうが、もう一度組み直せるのではないだろうか。


目の前の、目に見えるものにばかり惑わされてはだめだ。








大事なものはどこだ?



え、これどういうこと?



こんなのが三人もいたっけ。



人形を一つずつ拾えば、表情の違う人形に戸惑う。



どうせ、どれかは紛い物で、すべてが紛い物だって可能性もある。



わたしはとうとう数すら数えられなくなってしまったのだろうか。



もうすべてが面倒くさい。



ぐんにゃり歪んだフォルムに直線的フォルム。







ああ、ずれてしまっている。



きっとずれてしまっているんだ。



この世界がずれてしまっている。



元に戻さなきゃと頭を押さえる。



頭がガンガンと痛み出す。



視界が歪んでゆく。



視界が歪むのは、自分の涙腺がゆるむから?




滲む視界にには、あの少女の血色の悪くボロボロな足が、


一歩一歩とゆったりとした足取りでこちらに近づいてくるのがわかった。



あの少女の目がないのは知っていた。



確か、わたしが潰してしまったのだっけ。



顔を眺めながら、考える。



耳はあの位置だっただろうか。



耳とはあんなに下に位置するものだっただろうか。



なぜずれているのだろうか。



常識がわからなくなってきた。



違う、それではもう人間ではない。



奇形じみた何か。




目も当てられない。



無くなってしまっていたのなら、探してあげなくてはいけないよ。



きっともう一人では見つけられないんだ。



一人で探すのは孤独だろう。



探して探して、見失うのは自分の体だったりするのだろうか。





壊れてゆく立方体のパズル。



合わせなくてはいけない。



すべて壊れてからでは直せない。



むしろすべて壊してしまおうか。



そうしたらやり直せるのではないだろうか。




ズレは些細なこと。



そのズレから全てが壊れていく。



元に戻せたり。戻せなかったり。



でも、なぜわたしが直さなくてはならないんだ?



この義務感はいったいどこから来ているというのだろう。




「あたまがひどくいたむの」



そう生きた人間に切々と訴えると、


用法用量が記載された白い紙袋に入った、


白い錠剤を渡される。



規定の時間に飲むはずだけれど、


わたしに時間感覚がないため、痛みだした時に服用する。



大抵、痛みは徐々に酷くなっていき、


立っていられなくなり、正気を保っているのも厳しくなってくる。



シーツをぐしゃぐしゃにしてもおさまらない。



自分の精神的な弱さすべてが、体の弱い部分に現れるようだった。



そんなもの出てこなくて良いのに。



強くなりたい。



何にも負けないくらいな強さが欲しい。



経験したことのないような気色の悪い痛みが何度も訪れる。



何としてでも寝込みたくない。



寝込んでいる時間がもったいないと思うのだ。



海老のように体を丸めて祈るように痛み止めが効いてくるのを待つ


しかし、もう知っていた。



薬の効き目が薄くなっていくことを。



強烈な吐き気が加わり、胃袋の圧迫を感じる。



胃が反抗しだしたよう。



わたしの体はもうわたしの言うことを聞かない気がする。



コントロールを失った身体はどこへ向かうのだろう。





這いずるようにトイレに行き、便座を抱えるようにして吐き出す。



胃袋にはすでに吐くものもなく、水に落ちるのは喉の奥から糸のように伝う唾液と、


生理的に流れ続ける涙。



吐瀉物はどこだ。



吐瀉物を出せば、満足するのだろう。



ここの奥に繋がっているのは浄化槽で、吐き出したものは浄化されるのだろう。



嘔吐くのに疲れ果てて、横になり、冷たい床に座り込む。



ひどく哀れな自分の姿を思い浮かべれば、泣きたくなってくる。



なぜ、こんなにも苦しまなくてはいけないのだろうか。






どうしたの?と誰かがこちらを振り向く顔が何故か脳裡を過ぎる。



ああ、やめて。見ないで。



無性にその顔を見るのがいやだ。



看護師が慌てた顔をしてばたばたとやって来た。



誰かが来るとは思っていた。



その表情が固まってしまっている。



心配をかけたかったわけではない。





自分で処理出来るに越したことはないはずだった。



わたしは一人で出来る。



そう言い聞かせていた自己暗示が解けたようだった。



その顔を見た途端、目を開けていることが出来ないような睡魔に襲われ、


気を失うように眠りに落ちた。




出来ることなら、一番見たくないものには目を背けてなんとかやり過ごしたいと思う。



だが、このように、露骨に目の前に突き出されるのだ。



それはまるで自分が目を背けて来た罰かのようだった。




先送りにした結論には結局いつかは向き合わなければならず、


カウントダウンが静かに始まる。



今までずっとある一面をなるべく見ないように


見ないで済むように心がけて来た。






自分がそれ以上傷つかなくて済むように。



ああ、そのくらいの些細なことすら許されないのだろうか。



お願いだから拒絶しないで。



期待は、すればした分だけ、受ける傷が大きい。




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