第5話



空を好きな人がいる。



空の写真ばかりを撮る人。



空の絵ばかり描く人。



わたしには到底理解出来ない。



「そらがすきなの?」



「好きだよ」



「なぜ?」



「きれいだから」



絵を描いているその人は、空を水色や青色に塗る。



ときどき、キラキラさせる。



星空というそうだ。








空ってそんな単色なの?



空の色がわからない。



ぐるぐると、何かが渦巻いているようなそんな気がするのに。



隣でわたしも絵を描く。



すべての絵の具を混ぜ合わせる。



「きみの絵はなんだか汚いなあ」



「そう?」



「それでいて暗い」



「そう」



「こわい」



「そっか」




そこまで言われると才能がないのだと筆を投げ出した。



空をもう一度見上げる。



やはり、わたしにはその人のように、そんな色には見えないんだ。



手を伸ばしてみる。



相当、遠い。



遠いなあ、と呟けば、その人は笑ってくれた。



遠いね、と返事もくれた。



その人は、空みたいな色の人だったように思う。



なんだか、広くて遠い。







わたしのことを見守ってくれる人ができた。



あの時の看護師さん。



わたしに分厚いノートを渡してくれた。



「これで日記とか書いたらいいと思うの」



「体調管理にも繋がると思うし」



「ありがとう」




わたしがノートに綴るのは、どんなことだろう。


いざ書こうと思うと、何も思い浮かばない。


せっかく看護師さんが見ているのだから、早速使わないと申し訳ない。



言葉を考える。



子どもらしくて、かわいらしい言葉を。



ダメだ、思い浮かばない。



落ち込んでいると、看護師さんは笑って「無理して書かなくていいのよ」と言った。



「ねえ」



「なあに」



「おんなのこ、みえた?」



笑っている顔が強ばった。









「ほうごうしたの、みようみまねで」



「じょうずにできてた?」



「あなたがやったの?」



「わたしがやったって、あのこがいってた」



わたしは手元に置かれている日記を眺めていたから気がつかなかったのだが、


顔を上げたときに、


看護師は、涙を流していた。



「なぜ、なくの?」



看護師は、ただ首を横に振った。







手元を眺める。



痙攣がひどい。



震えてモノが持てない。



大丈夫、大丈夫と言い聞かせて深呼吸する。



脂汗が出てくる。



背中を伝う汗が気持ち悪い。



薄い病院服に汗が染み込んで寒気がする。



指先は器用なほうだった。



すべてなくなるわけではない。



これらは一時的だ。一時的だ。



それなのに、永遠のような絶望感に囚われる。



もしかしたら、すべてなくなるかもしれない。



ふと物音がして、


病室のドアの隙間のほうを見ると、



少女が覗いていた。




片目のない少女。




一瞬ぞっとした。



隙間というのは恐怖を感じるものらしい。



少女が音もなく病室に入ってくる。




「はいってこないで!!」



「かってにはいってこないで!」









今は誰にも会いたくないというのに、


少女は入ってきた。



入ってくる姿が見えるわけではなく、いつの間にか目の前にいる。



少女がわたしの痙攣する腕を掴む。



ぎりぎりとものすごい力で掴む。



骨が軋んだ。



「いたい!いたいよ!」



今度は自分の腕から少女の手を離そうとする。



離そうとすると、今度は引きずっていこうとする。




「やめて!」




少女が入ってきた隙間を見ると、そこはいつもの病室の外ではなかった。



まるで沈んでいくみたいに、溶け出す闇。



あそこに行ったらすべてがなくなる。



なにもわからなくなってしまう。



なんとなくそう思った。



「まだ!まだ、そっちにはいけないんだよ」



意識を保たなくてはいけない。



隙間が大きく開いて、縦横無尽にキャンドルが並んでる。



その灯りが一つずつ揺れては消えたりしていく。



自分のベッドの脇には壊れた時計が山積みになっている。



少女は手を離し、その時計の数を数えだした。



わたしは、腕を擦る。



まだ、動く。



痙攣はおさまったようだ。



ただ、今度はいつにも増して身体が痛みだした。



痛くて眠れそうにない。







エピローグを考えなくては。



もう、多分時間はないのだろう。




「おやすみなさい」




少女は、そう言ってこの病室を去った。



病室には静寂が訪れた。











文字を書けないときは写真を撮ることにした。



そしてそれを現像して日記に貼る。



今日は生憎の雨だった。



雨の空は何色だろう?



あの絵が上手な人に会いにいこう。



そして日記に描いてもらおう。




「え、かいて」



「仕方ないなあ」




元気なさそうに笑う彼に、申し訳なく思った。



そう思いながらも、見ないふりをした。




ここでは、その気遣いはあまり良くないだろう。







わたしが渡した日記を見ながら「見ても大丈夫?」と聞くから頷いておいた。



どうせ大したことは書いていない日記だ。



「うまく喋れるように、ってなんで?」



「うまくないから」



「ふーん」



「うまく笑えるようにっていうのは?」



「うまくないから」



「ふーん」



「別にうまい必要はないと思うけど」







病室いっぱいに広がる絵画を眺める。



どれも色鮮やかで、とてもきれいだった。



「きれいだねえ」



「そうだろう」



そうやって笑う彼も、またきれいな笑顔だと思った。



きっと彼のほうが、時間がない。






昔に現像して大事そうに写真立てに入れておいた写真は


随分と色あせてしまっていたため、


入れ変える。



ベッドサイドのデジタルフォトフレームの景色は自動的に移り変わる。



絵を変える。色味や雰囲気が変わる。



胸のあたりに彼の好きだった、きれいな色が広がった。




また訪れた花壇の前。


花壇の花は枯れていた。









雑草が生え荒れ果てた花壇。



土が掘り返されている。



弱虫だった自分だけがただ一人、残された。



どこか遠くで楽しそうな笑い声が聞こえてくる。



おだやかな風で花が揺れる。



影も揺れる。



それをぼんやり眺める。



隆起した土を撫でる。



「何か、埋めたの?」



看護師さんが隣にしゃがみ込む。



影が揺らいで、感情が深まる。



心のなかの何かが濁っていきそう。






「泣きたい時は泣いていいのよ」




「なにいろ?」



「え?」



「なんようび?」



「……今日は、金曜日よ」



抱えてきた鳥籠のなかで、セキセイインコが反応して鳴く。








「いかないでっていったら、いかない?」



「どこへ?」



「どこへでも」



「わたしが、いけばよかったのかな」



「どこへ?」



「    」



口を開いたけれど、声にならなかった。



目の前をどんどん人が通り過ぎていく。



わたしはいつもそれを目で追うだけ。









追いかけても追いかけても追いつかない。



おそらく、ほんの少しだけ向こう側なのだけれど、


あと少しの勇気が出ない。




勇気があれば行けるものでもなさそうではある。



地面が割れて狭間が出来てその距離はどんどん広がっていくから、


そこに辿り着くことはできない。



地上で生きていくことができないのであれば、


大地にでも潜ってしまえばいいのに。



そこは安らかなのだろう。


みんなが言っていた。






「しんのぞうのたねをうめたよ」



「え?」



土を掘り返して取り出すと、そこにはゴム毬のような塊。



「うごかなくなってしまったぞうきにはきょうみない」



「うごきのおもしろいものがすき」



「うごいてるものがすきだなあ」



自己確認するように二度、呟く。



「うごかなくなったら、きょうみない」



「きょうみなくなっちゃうんだ」




興味のなくなったものを手で持っているのにも飽きて少し考える。







「わたしはみんなと、はぐれちゃったのかな」



看護師さんから返答はなく、ちらりと窺うと、


わたしの手元のものに視線が集中している。



「よかったら、あげる」



「いらないわ」



「あらったら食べられるんじゃないかな」



「どういう……」



「だいちは、はたけだよ」









土を払って、真っ黒な塊を口に運ぶ。



もぐもぐと咀嚼して口を動かしていれば沈黙も気にならない。




そうだ、いつの間にかわたしはおなかが減っていたんだ。



いつからかずっと、食べ物を口にしていなかった気がする。




「こけいぶつたべたの、ひさしぶりだなあ」



看護師に手を引かれる。



また病院内へ戻される。







いつ、ここから出られるの?



針が刺さり辛くなった腕では看護師の手を振り払うこともできない。



看護師の手は震えていた。



毎日、毎日、好きな歌を小さく口ずさむ。



同じフレーズを何度も。



何気なく腕を見れば、ぽつりぽつりと赤いぶつぶつが出来ている。



最初は目の錯覚かと思い、放置していた。



すると不思議と体全体に広がっていって、


頬にも、背中にも、へそ周りにも。



自分の身体の変異に泣きそうになったけれど、


自分が歌っていた歌の歌詞は泣かないと言っていたからぐっと堪えた。



本末転倒もいいところだ。



それに、泣いたところで現実は所詮変わらない。






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看護師さんが病室に顔を出したと思えば、


医者を呼びに戻ってしまった。




「泣かなくてえらいね」




医者は冷たい脱脂綿で腕を拭いて、皮膚をつまんで、注射を刺した。



それをただ黙ってどこか他人事のように眺める。





処置が終わり、ぶらりと花壇へ行けば、


黄色い花が咲いた下にキュウリを見つける。




いったい誰がここで菜園を始めたのだろう。



その黄色い花の下に実るキュウリを触ってぼつぼつを確認する。



「きみもちゅうしゃをうってみてはどうだい?」



そう語りかけてみる。



キュウリは、言葉を上手く理解出来ないらしく、黙っている。



「きみはおりこうなんだろうね」



赤くなく、緑色のぶつぶつはいったい何の種類の病気だろう。








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何とも言えない、おもしろい鳴き声が聞こえてきた。



はて、なんだろうと思い、その鳴き声を辿ってみると、


痩せたネズミが肥ったネズミと小競り合いを繰り広げていた。



取っ組み合いは肥っているネズミが有利で、


痩せたネズミが何度も投げ飛ばされている。



それでも痩せたネズミは逃げていない。



そんな光景に自分の中で思うところが出て来て、


動かなくなる前にと、そっと痩せたネズミを掬い上げ、


自分の食べられなくなった残飯の前に置く。




もくもくと齧るネズミを眺めつつ、横で本を開く。



一生懸命にご飯を頬張るネズミ。




本を読みながらうとうとして寝かけていれば、


看護師さんがやって来ていて、大きな悲鳴をあげた。



それで目が覚めた。



「おちてただけ」



慌てて弁解をしているうちにネズミは走って逃げ去った。



叩き殺されることがなかったネズミに安心しつつも、


看護師の悲鳴はひどくわたしの耳についた。






食後の散歩を兼ねて花壇の前に訪れる。



この間見つけたキュウリの前にしゃがみこんで、語りかける。



「ねえ、こんどはなにをもっていってあげたらいいだろう」



キュウリは何も答えない。



「そうだね、それならそうする」



そう一人ごちて、キュウリをもぎ取り、それを病室へ持って帰った。






野原を散歩することを夢見た魚たち。



海原を泳いで散歩する。回遊。回遊。



空を飛ぶことを夢見た蛙たち。



路上で引かれて圧死。



黒いアスファルトの上に、押し花のように黒い塊が広がる。



もしくは蛇に丸呑みされ死亡。



人間に腸を引きずり出され、解剖の材料。



動物実験にかけられたネズミが、


知能レベルが高くなりネコを捕まえネズミ取りに入れてしまう。



いずれ、人間も入れられてしまう。




ネズミは言った。



「いいえ、ヒトはすでに鳥籠の中よ。トリでもないのにね」



コギツネはひとりぼっち。



夢見る魚たちの泳ぐ蒼い海へやって来て、ひとりぼっちの腹いせに青い火をつけた。



海が燃えてゆくと魚たちは死に、


煙が上がり、空にはクジラに似た雲がひとつ出来上がる。








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