第2話
蒸し暑い空気。
タイルの床にぶつかるサンダルの音。
手術器械の触れ合う金属音。
服の擦れる音。
流れる血の感覚。
骨を切り落とす鈍い音。
その時間はひどく長かったという感じと、それとはまったく逆のすぐ終わったような記憶とが入り交じっている。
なにひとつ生まれてこない朝を迎える。
いや、世界のどこかでは、絶えずなにかが生まれ、なにかが潰えている。
手術後の経過は順調ではなく、高い熱が毎日つづいていた。
はかばかしくない病状への不安と、言い知れぬ焦りとが交錯した苛立たしい毎日であった。
身もこころも、くたくたに疲れていた。
エーテルを滴下して眠る。
生活しているというよりは、生存しているといったほうがぴったりくる。
病気そのものの苦しみより、べつなところが苦しくなってきていた。
わたしの前で朗らかに笑う少年を見ても、わたしは一緒に笑うことができない。
くるしい。
そんなわたしの顔を見た少年が、顔色を変えた。
(ちがう、そんな顔をさせたいんじゃない)
わたしは少年のことを、もう思い出せない。
それが、ただつらいんだ。
夜の病棟がこわいという人は多い。
非常灯の明かりが不気味だったり。
わたしは、夜の静けさはきらいじゃなかった。
人は幽霊に会うのを怖がるらしい。
それは何故なのだろうか。
死への恐怖?
わたしは幽霊と会っても、べつにこわくはない。
そもそも幽霊というものを見たことはないのだけれど。
わたしは真昼のほうがこわい。
あかるさのなかでの粗相は、人の眼につきやすい。
あかるいところは、こわい。
人がさわぐ。人はさわぐ生きものだ。
暗闇で怯えていると、だれかが慰めてくれたりする。
眠れないの、と。
暗いところがこわいの、と。
睡眠の問題じゃないし、そういう問題じゃない。
来る日も来る日も寝たきりでいるわたしにその言葉はどうかと思う。
ちがうんだよ、ちがうの。ぜんぶ、ちがう。
英語で患者は「patient」。
耐える人。忍耐する人。
耐えているのだ、わたしは。ひたすらひとりで。
夜は、日中に過ごす人並みな人たちのことを思って、涙をながす。
いつになったら自分は、と何度も思う。
自分の涙から雨のにおいがするような気持ちだ。
泣いても泣いても、泣き止まず。
枕は水たまりになる。
”止まない雨はない”と、どこかで聞いた。
ちいさな、囲われた世界のなかにいるわたしは、素直にそのことばを信じるだろう。
清潔な病室。
この消毒されきった病室で、ほんの少し、自然で素朴なものを感じて素直になる。
頭のなかに虫を飼った。それは、さびしさからだった。
虫たちは、わらわらといっせいに動きだす。
痛みがじわじわと身体に広がる。
つつまれるようなおかしな感覚。
そうなったあとは、部屋のなかで飛び跳ねるような気分。
窓は閉じている。
だれも座っていない椅子は、倒れている。
椅子、椅子、椅子とはしゃぐ。
椅子には、腰をかけて仕事や休息をするという機能的な面と、王様の椅子、医者の椅子というように、地位や身分を示すシンボルとしての側面もある。
ささやかな支配欲が満たされる。
病室にある椅子はキャスターがついていなくて、つまらない。
固定された椅子。
そこに置かれているというだけで、一日の時間を美しくするもの。
ここにあるのが、カエデの木でつくられた揺り椅子だったらよかったのに。
シェーカー・ロッキング・チェア。
些細なところまで考え抜いてつくられた椅子。
飾りのない、それでいてとても繊細な椅子。
しばらく椅子を眺めて、ふと思いつく。
ナースステーションまで行き、パソコン前に置いてあるキャスターのついている椅子に座る。
そしてそのまま無人の廊下をそのキャスターのついた椅子で滑る。
ひとり、きゃっきゃっとはしゃぐわたしに、大人たちの非難の言葉がかかる。
「ずいぶんと子どもっぽいことをするもんだ」
そのえらそうな言い方に、いらっとした。
「なぜ?こんなのに乗ってる人いるじゃない」
「きみ、すこし黙っていなさい」
大声をあげられた。
そして悪いと思ったのか、次に紡ぐことばは幾分か声を落としていた。
「きみはあんまり余計なことを言い過ぎるんだ」
相手のことばの断片が鋭利に胸に突き刺さるのを感じる。
余計なことってなんだ?
そんなのあなたの勝手じゃないか。
なぜ、エゴを押し付けて来るのか。
弱者だからか。弱者に対しては、強気に振る舞えると言うのか。
ふらりと無断外出を決意する。
こんなところに少しでも居たくないと、こころが訴えていた。
べつにわたしは感染患者ではないから、他の人びとに迷惑はかけないだろう。
わたしは好き好んで他人に迷惑をかけるわけじゃない。
夜に出るのがいちばん、夜に溶け込んでゆくようで安心する。
出かけた先に、ストリートミュージシャンがいた。
おんなじ、孤独な人。
彼は目の前でとてもあかるい歌を歌う。
喚いて訴えるような歌声だ。
「うたうの、たのしいの?」
「いいや、ぜんぜん楽しくない。毎日生きた心地がしないよ」
「死ねるものなら死にたいね」
同じ目線にしゃがんで、話をする。
「なやんでるの?」
「ああ、もうこの世は腐ってる。悩んでいないのなんて、バカだけだよ」
「しぬならどんなかんじでしにたいの?」
「じつは、自殺にも流行り廃りがあるんだ」
「ちょっと前までは焼身自殺も流行ったけど、あれ、かなり痛くて苦しいらしいよ。火傷は死に至るけど、死亡率は確実に面積に比例するから、かなり焼かないといけない。それこそ全身焼かないとね」
「一時期流行ったガングロっていう肌を黒くするのって、そういうののメタファーなのかな?そいつらにそんな頭があるなんて到底思えないけどね。でもいつの時代にも死にたがりっているからなあ」
「割腹自殺は古いし。いまは、睡眠薬を飲んでの自殺かなあ。練炭とかもあるけどさー」
「首吊りとか水死は、死体がきたないんだってよ。人身事故とか飛び降りは、他人の迷惑になるし」
「凍死もありだけど、極寒の地に行かなきゃなあ」
「俺はミーハーでもあるけど、天邪鬼でもあるから、みんながやらないやり方がいいな」
「情死とか憧れるけど、自分の周りに情死をしても良いような、いい女がいねえよなあ……」
おしゃべりなその人を見ながら、眼を丸める。
(そんなに言いたいことがあるんだなあ)
気負いばかりが先に立ち、知識も経験も不足している未熟な時代だろう。
悩むかもしれないが、死にあこがれるほどだろうか。
(いったい、どこがいたいの?)
医師たちが、自殺未遂で運ばれてきた患者に対して胃洗浄を行った後に、ラーメンが出てきて笑ったという話を耳にした。
なんだか、ラーメンが流行っているらしい。
ラーメンは、たしかに大衆的な食べもので、値段も手頃かもしれない。
そんなことをふと思い出した。
「ラーメンはすき?」
「は?ああ、まあ好きだけど」
「じゃあ、きっとしぬまえにたべるね」
「……?どういうこと?死ぬ前に食うのが、なんでラーメンなわけ?もっと美味いもん食うんじゃねぇの?なんか、おもしろいこと言うなあ、おまえ」
濁った眼で痩せこけたひょろっこいミュージシャンは、わたしの知っている病人とそっくりだった。
煙草のにおいがする。
年をとった患者は、よく外で煙草を吸っていたように思う。
いつもどこか遠くを眺めながら、なにを考えているかわからないような感じだった。
ひと言でいえば、生気が感じられなかった。
しかしこのミュージシャンは、どこかギラギラしているというか、野心というか、そういうものも感じられなくもない。
どんなに言っても、死ななさそうだ。
「だれかにみとめられたいんだね」
「さっきからおんなじことばっかいってるよ」
「それが俺の思想なんだよ!」
急に激した物言いをするミュージシャン。
病人もしょっちゅう、突如として感情的になったので、慣れてはいた。
「大事なことなんだ。それが伝わらないと、俺が生きている意味がない」
「腐敗した世界だよ。こんな腐りきった場所でどうやって生きろっていうんだ?生まれたくて生まれてきたわけじゃない」
「この歳になればいろいろ理解も出来て、親の性交渉に口を出すつもりもないし、嫌悪を
「バンド仲間も、女と金と……女の比重が多いかな。音楽が第一じゃねえんだよ。不純なやつばっかりさ。不純にきれいな理由をつけてヤリたいことヤってんだよ。おかげで不名誉な印象が俺にも付きまとうし、グループよりピンが一番だと思うね。集団行動なんてしていらねぇよ」
「だからいま、ひとり?」
「そう」
煙草を口に咥えるが、火をつけず、そのままにしている。
「女のなにが良いんだ?男との違いなんざ、胸と穴だろ」
「あとはキーキー喚くヒステリーばっかりだし、あんなのと関わるんなら自慰のほうがよっぽどマシだ」
「だれかが支配的で高圧的で、俺たちの自由を奪ってる」
「世の中ガキばっかりで、自己との対話も出来ず、やりたいことも明確にできないバカばっかりで、”なんで勉強しなきゃいけねーんだよ。そんなんやりたいやつにやらせろよ”なんてことをほざくやつも多い」
「平等、平等言ってるわりには、イジメとか普通にあるし」
「そもそも人間から攻撃性を奪おうっていう発想に無理があるんだよな。どんな平和主義者にも攻撃性はある」
「変わったものに対して融通がきかねーよな。同じでありたいというか、出る杭は打たれるっつーか」
「同じのどこがいいんだ?ちがうから良いんだろ?」
「過激な表現をすれば、それを集中的に攻撃して自己欲を満たそうとするし」
「変な平等意識を持ち込んだせいで、元来からある差別性が抑圧され、それが別のところで頭角を出しはじめてる」
「自分らにもこんな時があったはずなのに、今じゃ涼しい顔をして”最近の若者は”って、ぶうぶう言うし……ブタかよ」
「なんだかビョーテキね」
「そうか?」
「いきるのが、つらいのでしょう?」
ミュージシャンは、ほんのすこしだけ、嬉しそうにした。
病気になりたがる人間が、この世にはいるのだなあということを実感した。
どこの病気かはわからないけれど。
不思議なものだ、世の中は。
望んだものに望んだものが与えられるとは限らないのだから。
「だれかのかわりにきもちをうたうのってすごいね」
「たまたま俺の思っていることに共感する人間が居たって言うだけだよ」
彼は、朗々と夢を語る。
不平不満を包み隠さず語る。
わたしは耳には入れても真剣に聞いていないことが多い。
途中からは真面目に聞いていなかった。
ふーんとか、へえという相づちを打っていた。
「ねえ」
話を途中で遮って、声をかける。
「ん?」
「くるしみからかいほうされたい?」
「え?」
「いたいのへいき?がまんできる?」
きょとんとしたミュージシャンは、ピアスやタトゥー指差す。
「痛いのなんて慣れてるけど」
そういう痛みじゃないけれど、まあいっかと思った。
「むしはすき?」
「虫?」
「みんなにないしょでおしえてあげる」
ないしょだよ、ともう一度、念を押す。
そしてつづけて言う。
霧のなかの世界に行けるよ、と。
きっと、このミュージシャンは気に入るだろう。
一時的に苦しみから開放されて、元気になる。
感じやすくて、傷つきやすい人が逃げ込みやすい場所。
やさしいけれど、ほんの少し怖い場所。
「ただね、やくそくはまもらないといけないの」
「約束?」
「いきすぎたらだめなんだよ」
そして、きっと行き過ぎてしまうんだろう。
多くの人間が行き過ぎて帰って来れなくなると聞いた。
それは欲が深い大人に多い。
あと、無知で快楽をひとえに追求する人間。
「ちゃんとかえってきてね」
彼はわかっっているのかわかっていないのか、思議な表情を浮かべていた。
戸惑いがちにうなずくのがわかる。
「あ、そういえばきょうってなんようび?」
「あ?今日?火曜日だけど」
曜日は何か関係あるのか?と問う彼に、そう、火曜日かあと呟く。
火曜日なんだって。
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