人知れず消えてゆく
サタケモト
第1話
日曜日。
今日は、週のはじまりだろうか、それとも終わりなのだろうか。
日曜日を週はじまりとするか、週終わりとするかはむずかしい問題だ。
頭のなかに数字がところどころ空いている、
文化史的には、日曜日が週はじめで土曜日が週おわりである。
実用上は、土日をまとめて”週末”と言ったほうが使い勝手が良いことが多く、実利や便宜的には日曜日を”週末”とする扱いが、たびたび見られる。
同じ理由で、ISO規格でも情報処理や業務処理では、月曜日を週はじまりとする扱いを定めている。
カレンダーなどの印刷物は、欧州では週はじめの月曜日を左端として記述するのは一般的だそうだ。
一方、米国の多くは、歴史的な本来の週はじまりである日曜日を左端として記述する。
日本は、米国と同じ流儀と言えるだろう。
古代メソポタミア文明など、7日毎の周期を暦に用いたというのは、歴史的にいくつか例が見られ、現代でグレゴリオ暦で週と呼んでいるのは、直接的にはユダヤ暦由来のものである。
そこでは、日曜日が週はじまり。
ユダヤ教と関連性のあるキリスト教やイスラム教も、同じように日曜日が週はじまりで、土曜が週おわりとなる。
ただし、ユダヤの安息日は週末の土曜日(神の天地創造の故事に由来)、キリスト教は週はじまりの日曜日(キリスト復活が週初とされる)、イスラムの礼拝日は週中の金曜日となり、休みの日はバラバラ。
混同されることが多いが、週のはじまり終わりと安息日・礼拝日は別個の独立した概念である。
旧約聖書の天地創造の記述との関連で、日曜日が週末と誤解されることがあるが、キリスト教社会で日曜が休みなのは、そのためではない。
週はじめがイエスが十字架上の死から復活したとされる曜日であるため、それを記念するために礼拝日にしている。
イタリア語などラテン語系言語では、土曜をサバト(=安息日)と関連した表現で呼ぶが、これは天地創造と関連した意味での安息日が土曜なためである。
ちなみに同ラテン語系の週はじまりの日曜日は、ドミニカ(=主の日)を語源とする表現で呼ばれている。
主(しゅ=イエス)が復活したとされる曜日だからだ。
曜日は、西暦321年にローマ帝国によって(元来ユダヤ暦由来のものが)ユリウス暦に振られ、現代のグレゴリオ暦まで連続して7日毎のサイクルで続いている。
(週はじまりは日曜日で、週末は土曜日)
このとき、週はじまりを「主の日(dominica)」とし、農耕を除く全ての労働と奴隷解放を除く全ての裁判を休めと制定した。
これは、ローマ帝国がキリスト教を公認した後、当時のキリスト教の習慣(イエス復活の曜日とされる日曜に集会(=現代でいうミサ)が行なわれていた)に沿って行われた。
それまでローマの暦に公式には七曜制はなかった。
厳密に言うと、それまでは日曜日にパンを割く集会(=ミサ)が行なわれていても、それは労働日の労働外時間に行なわれていた。
つまり、礼拝日であっても労働日だったのだ。
この法制化により、礼拝日に安息日的な意義が公式に付与され、週はじまりである日曜日がキリスト教社会の安息日の位置付けとなっていったそうな。
くり返すような毎日では、曜日感覚も日にち感覚も薄れてゆく。
今日が何年で、何月何日かはわからないけれど、どちらにせよ今日という日は、わたしにとっての”礼拝日和”であると感じた。
敬虔でないわたしは、ここから祈りを捧げる鼻唄を歌った。
まるで音程が取れない。世間はそれを”音痴”という。
鼻歌を歌おうとすると鼻の奥の喉の上らへんが変な感じになる。
小さく歌うと音が外れるから思いきって陽気な明るい曲を選曲する。
口をあけない歌いかたをする理由を考えながら、鼻唄を歌う。
耳と鼻から血が垂れてきたため、血を手の甲で拭う。
手に付着した血を見て、考える。
手より、血のほうがあたたかい。
血が出てくる原理がよくわからないけれど、道理で耳の聞こえが変だと思ったという考えに至った。
わたしが音痴な理由も、きっとこのせいで耳のどこかが悪いからだ。
そんなふうに言い聞かせている自分がひどく滑稽に思えた。
頬づえをついて窓から階下を覗く。
いつも地面との距離を測っては、「ここから落ちたとしたら、死んでしまうのかな、即死かな。内臓破裂かな……。それとも骨折程度かな……」などと、想像する。
外からも歌が聞こえてきた。
なつかしい
黒い煙が上がってきて、異臭を放っている。
煙は、上へ、上へとあがっていく。
かつては生物だったものが焼かれている。
いつからか鳴かなくなったそれは、だれかの手によって焼かれていく。
しずかに灰になっていく。
ものを焼いているだれかの眼は、ひどく充血していて、結膜炎みたいな真っ赤な色をしていた。
わたしの視線に気付いた、だれかのその赤い眼が動く生きもののようにこちらを見ようとしたその瞬間に、あわてて窓から顔を引っ込めた。
心臓がドクドクと血液が逆流するように波打った。
気持ちを落ち着けるためにも部屋を何気なく見回していると、壁に無造作に掛けてある紙媒体のカレンダーを見れば、水曜日に赤い丸がついている。
その赤い丸は、さきほどの恐ろしい赤い目を連想させるものでもあった。
赤い丸のなかへ吸い込まれそうな感覚に陥り、頭をしずかに横に振った。
幻だ、すべて。
はて、今日は、水曜日だったのだろうか、と考えなおす。
逢魔が時の空を見れば、なんだかその空とおなじくらい不吉な予感の色で胸がいっぱいになった。
一日は、窓にはじまる。
窓には、その日の表情がある。
晴れた日には、窓は日の光をいっぱいに受け入れて、きらきらの笑顔のように映る。
曇った日には、日の暮れるまで、窓は俯いたきり、ひと言も発しない。
雨が降りつづく日には、窓は雨のしずくを、もらい泣きしているかのように、涙のしずくを垂らす。
ゆっくり、まじないをかけるように、自分の
そうして、目を閉じる。
十二数えて、目を開ける。
すると、目の前のすべてがみずみずしく変わって、目の前にあるすべてのものが、とても新鮮に映るようになる。
視界で、くろい影が動いた。
そのくろい影の正体は、ネズミだった。
ネズミが目の前をよぎっていった。
わたしはそのネズミを好奇心から追いかけてみた。
窓際を移動すれば、うす暗い築年数経つ建物の暗闇に呑み込まれる。
傷んで
そんな風の通り道を遮るように床に転がる
孕んだ女は陣痛の苦しみから床を爪で引っ掻いていたようで、床は傷だらけだった。
剥がれた爪が一面に散らばっており、派手な原色のマニキュアも落ちていた。
それらを踏みつけて行けば、爪は音を立てて割れて、さらに細かく微塵に散ってゆく。
マニキュアの殻瓶を蹴飛ばせば、音を立てて転がって、闇に吸い込まれるように消えていった。
しずかな音は、しずかな破壊を生む。
この共同居住空間に、こんな気違いで場違いな妊婦が存在しているなんてはなはだ信じられない。
規定違反だ。
さきほどのネズミが砕けた爪の欠片を餌と間違えて啄んでいる。
そのあわれさをあわれんで、愚かなネズミのガスが溜まって膨れた醜い腹を踏みにじる。
想像どおりの音が鳴る。
螺旋階段の中心の柱は
そこからネズミを蹴り落とす。
弾む音のなかで力無く落ちていくそれを、わたしは眺めている。
ネズミの身体は思っていたより軽くて、底は抜けなかったけれど、
これでいいんだ、とわたしはまた湿った部屋へと戻る。
部屋には腐った絵草紙がたくさん積んであって、わたしはそれらひとつひとつの絵空事を塗り潰していく。
丁寧に、丁寧に。
口からまた一本歯が抜け落ちた。
裸足の少女がぺたぺたという足音を立ててやってきた。
それはひどく気持ちの悪い音だった。
気にしないでいようとは思ったものの、つい少女のほうを見やる。
なぜ、ここに少女がいるんだ?
少女の手には、ネズミ。
あのネズミかはわからない。
ネズミなんて腐るほどいるのだから。
少女の手が、わたしに差し出され、そのネズミを受け取らざるを得ない状況となる。
肋が浮き彫りになっている貧相なネズミ。
尻尾を掴めば、目の前で振り子時計の振り子のように規則的にぶらぶらと揺れ、すこし、元気なく前足後ろ足を動かす。
わたしが受け取ったのを見ると、少女は緩慢な動きでしゃがみこみ、転がった妊婦の腹を指で裂き、内臓を
一瞬少女が目の前でなにをしようとしているのか、理解しがたかった。
とてもとてもながい人間の
少女は手を止めることなく、”おかえりなさい、おかえりなさい”と口ずさんでいる。
「そんなことをしても、かえれないよ」
思わずわたしは、妊婦の血を浴びて血まみれになった彼女を妊婦の身体から引きずり出す。
「かえりたい」
「かえれないよ」
「なぜ」
日常まったく疑問に思わないことを、改まって質問されると返答に窮することがある。
そのような感じで、少女からの当たり前のようにされた質問に、答えが詰まってしまった。
「なぜって……、あなたうまれてきたんでしょう」
「うまれた?わたしが?」
質問で返してきた少女に、また戸惑うばかり。
少女が、追い詰めるように質問ばかりをくり返す。
「なぜ、ネズミにあんなことしたの?」
わたしは、すこし考える。
行動には、理由が必要なものなのか。
衝動に、理由はあるのだろうか。
「うまれてきたから……かな」
「うまれてないよ」
「うまれてない?」
首をかしげる。すると、目の前の少女も首をかしげる。
かしげたと同時に骨がボキッと鳴って、皮膚から骨が突き出した。
関節を鳴らした、という次元ではなく、骨が皮膚を突き破っている。
複雑骨折以上の、骨折れ状態だ。
脆そうな身体だとは思っていたが、いとも容易く身体が壊れるとは思っていなかった。
「ころされたもの」
少女の眼だけが、わたしを捉える。
そこには眼なんてない。真っ暗な空洞だ。
最悪な感覚に飲み込まれる気がした。
「あなたに」
少女の首に手を伸ばし、痛々しく突き出た骨を皮膚のなかに押し戻す。
少女は身動きしない。
眼球のない眼でわたしのほうを見ているような、そんな感じでずっと佇んでいる。
脆い骨は砕け散った。
「あなた、ちがでてる」
いつの間にかわたしから滴り落ちる血をケタケタと笑う少女。
そんなケタケタ笑う少女を、何とも言えぬ気持ちで眺める。
血が出ている以前に、少女のほうが問題が多いではないか。
少女の笑う口を見ていれば、通常より歯が多い。
口からはみ出るほどの歯。
びっくり人間みたいな少女に徐々に疲弊しつつも、わたしは答える。
「だれの血かなんてわからないよ」
この惨状を見渡せば、いつの間にか部屋すべてが赤黒く染まっている。
窓を見れば、太陽がななめに落ちていった。
太陽が水平線に落ちるとき、まるで熟れた果実が潰れたかのように視界が赤に染まった。
血だ。だれの?
「あなたの」
少女のほうを見れば、少女の首がいつの間にかもげていた。
もげて、床に転がっている。
「あたま取れちゃったね」
持っていたネズミを置いて少女の首を拾い上げ、この部屋から補修できそうな道具を探す。
置いたネズミは駆け出し、その姿を首の無い少女が追いかけている。
妊婦の持ちものと思われる編みものの
少女の身体は、よろよろと壁にぶつかったりしていた。
少女にしろ、壁にしろ、痛々しい音が鳴る。
それでもネズミを追いかけて、少女の手はネズミをとらえるように宙を彷徨うように動く。
少女は、迷子のようだ。
ネズミもネズミで、弱っているのか、逃げ道の経路をあきらかに間違えている。
ただ一人と一匹がこの部屋をぐるぐると駆け回っている。
ぐるぐると。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
そんな光景を眺めていると、いろんな意味で吐き気がしてきた。
「あたま、付けよう」
とりあえず、声をかけてみる。
「ネズミ」
手元にある少女の頭が話す。
「あなたの」
べつにわたしのネズミではない。
「あわれなネズミ」
「そう、おもったんでしょう」
あわれな少女。そう思った。
あわれな残留孤児。
4歳のわたし。
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