第九夜


「ねえ」


「んー」



いつもの午後。


まどろんだ空気の中で、突然彼は話しかけて来た。



ぽつりぽつりと溢れ落ちる言葉。



それはまるでいつもの通りで。


日常の中にとけ込んでいた。




「ぼくがずっと君と一緒にいられると思わないでね」



「……どういうこと?」


「わかっていると思うけど、一応」



「答えになってない。それってどういう意味?」


「わかってるでしょう」


「わからないから聞いてるんだけど」






いつもの中ではそれは異質な言葉で、


安息の時間に突きつけられた現実に一瞬息をのんだ。




そうだ、彼はいつも抽象的なことしか言わない。



けれど本当のやさしさというのは、


やさしい言葉をかけるだけでは決してない。



彼の言っている意味を理解しようと、脳みそを働かせ始める。





「じゃあ言い方を少し変えよう。君は知っているよ」


「人はみんないつかは死ぬってやつ」









「確かに知ってる。それは認める」


「けど、なに、自殺、病気や事故のフラグでも立てるつもり?そうやって私の気を引こうとでも言うの」



「そうじゃなくて。仮にそうなったら君は傷つくだろうと思って」


「今の君はとても安息に座してるから。死ななくともお別れは来るものだ」


「出会ったからにはね」



核心を突いた言葉は、胸に刺さる。



本当にその通りだったから。


安心しきっていた。


少し前に彼に対してイライラした態度を取ったのも的を射ていたから。



一瞬真っ白になった頭をまた元に戻す。


冷静な自分はとても冷たい人間のように感じられるから不思議だ。




「”わかっている”と”知っている”は、違うよ」



負け惜しみで私は彼にそう呟いた。



とても小さく呟いたつもりだけれど、


彼はちゃんと聞き取って笑顔でその通りだねと返答した。



その笑顔が儚く映って、言いようもない不安に私は駆られるのだった。










「”ずっと”って魔法の言葉だ」


「”ずっと”だなんて言い換えれば”永遠”で」


「そんな時間の持続性を伴った物事の不変なんてないよ」


「時間は有限だし、不変なんてあり得ない」





「”ずっと”続いたとして、果たしてそれは本当に……」



言いかけて止まった続きの言葉を想像する。


促すことはしない。




「ね、私たちが”ずっと”って使うと何だかとても重苦しくなるね」


と、笑ってその場をやり過ごした。




だって、まるで息が詰まるようだった。




(そこにあなたという酸素は存在しない)









時間は絶えず流れている。



彼は人の気持ちが離れてゆくのを恐れていた。



そう、彼の才能は見せかけだけ。



もしくは最初だけしか効かない麻薬。



私が彼に見ていた才能は淡くも消え去った。



時間に虚しさを問いかける。



なぜ、私は彼を好きになってしまったのか。



無駄な時間だったのではないだろうか。



似非の芸術人。アーティスト気取りの阿呆。



そうして気取っていなければ、ただの社会不適合者。



社会に不適合でいることで楽を知ってしまった、


人間として堕落の道をただ歩むだけの人間。








よく居るでしょう?



「絵を描くのが好き」


「音楽を聴くのが好き」


「本を読むのが好き」



そんなことを言う輩が。


必ずいる。



そして、よく聞く。



「趣味を仕事としてはいけない」



確実に商業が関わってくる。


商業性が関わっている芸術を芸術と呼ばないわけでもない。


純粋主義が重宝される世の中だけれど、それは表面上のことであって、


水面下ではどのようにも金銭は動いている。



金銭が動かない芸術は評価としてどうなのか。


他者の評価。








それでも良いと思う。



見る目のあるかないかは別として、誰かが彼を評価することは今後もあるだろう。



だが、それは最初だけだと思う。



もし長期で続くのだとしたら、それはただの自堕落なものだ。



見切りという言葉を知らない人間だ。



無用なものは切り落とさなければいけない。



家族でも何でもない人間なのだから。



私と彼は恋人同士でもなんでもない。



そう、ただ暗黙の了解で空気のように存在していただけ。



約束なんぞ存在しない。




「別れましょう」



私から切り出した。



彼は何も言わなかった。



彼の手の上にはカタツムリが乗っている。



彼が雨上がりに拾って来たのだろう。



「消えましょう」



あなたの前から。



彼の視線はカタツムリからひとときも離れることがない。


私も同様にカタツムリの殻を眺める。



殻があるから、そんなにゆっくりなの?


殻があることであなたは本当に身を守れているの?


ナメクジと何が違うと言うの?




「君のその質問に答えようか」



「ナメクジとカタツムリは別の生きものだよ」



「カタツムリの殻は、カタツムリ自身から出した石灰分で出来ているんだ」



彼の細い指がカタツムリの殻をつつく。



「無理に身体から引き離そうとすると死んじゃうんだよ。カタツムリの殻は外れない」



「まあナメクジとカタツムリは仲間とは言えるだろうね」



「そっくりだもんね」



「大丈夫、殻の傷は少ししたら治るよ」





「別れたいの」



私は震える声と流れ出しそうな涙を堪えた。



自分の感情を押し殺すことがこんなにもつらいだなんて。



「空間はね、暦日の答えを繰り広げいくの」



「そう」



彼はぼんやり考えるような仕草をした。


即決は彼らしくない。


きっと何度もこの場面を繰り返すのだろう。


ゆるやかに通り過ぎてゆくすべてのこと。



さあ、嘘をつきましょう。


とてもかなしい嘘を。





「別れたいの?」



「別れたい」



「それは嘘なの?」



「嘘じゃないわ」



「本心なの?」



「本心だわ」



そうか、と彼は呟くように言った。



ひどく陳腐なやりとりですべての行程が終わる。



このセオリーが済めば、すべてなかったことになってしまう。



「忘れて良いよ」



「忘れないよ」



「ねえ、こういうときってどっちが良いんだろうね」



「思うがままで良いんじゃないかなあ……思い出したいときは思い出したら良い」



「決めつけることなんてないよ。もう君は自由だ」



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