第ニ夜
眠れば、脳内の人に会える。
眠れば必ず会えるというわけでもないけれど、最近は高頻度で会えている。
(その分、現実では疲労感が増す)
「質問しても?」
脳内の彼がわたしに問う。
「なあに」
「君が知った、寂しさや悲しみ、切なさというのは、どんな色をしているのでしょうか?」
「……なぜ、色に喩える必要があるの?」
「ぼくが知っている色と似ているのかなあと思って」
「ちょっと違うでしょうね、きっと」
「でもね、違うっていうことを知っていることが大事だと思うんです」
寂しさや悲しみ、切なさを具体的に聞いてこないのが脳内の人らしい。
聞いてこられたら、自分で自分の傷を押し広げるようなものだと思う。
どんなかたちでも、伝え合えたらいいのにね。
ぼくらが共に生きている印に。
生きているといろんな苦しみに出会う。
怨みや憎しみ。
求めるものが得られない苦しみ。
何かに執着してしまう苦しみ。
物事への希望が勝れば、苦しみと言うよりは試練として認識ができて、ただ忍耐あるのみと理解できるかもしれない。
しかしながら、希望はあるか?
「君の言う苦しみは思い通りにならないってことかもしれないですね」
「わがままだっていうこと?」
「いいえ仏教の教えです」
「仏教徒なの?」
「いいえ」
「仏像、好きなの?」
「別に嫌いではないですが、詳しくはないですね」
淡々と質問に答える脳内の人。
弥勒菩薩が出てきて、何でもありなこの世界に思わず笑ってしまった。
弥勒菩薩はアンニュイで、なんていうか色気があって好きだけれど、空也上人像のほうが好きだなあ。
浄土寺か、六波羅蜜寺かと言われれば、やはり後者のほうが有名な気がする。
歴史の教科書に載っている、口から何か出てる人。
(その何かとは、南無阿弥陀仏を象徴した阿弥陀如来である)
「鹿の角の杖、いいですよね」
「わかる?いいよね、厨二的で!昔うちにもね、剥製の鹿の壁掛けがあったんだけど、その鹿の角を折ってちゃんばらごっこして遊んで怒られたなー」
なぜか鹿の角の話から自分の幼少期が連想されてしまった。
たとえば、夫婦の間で憎しみ合って別れる場合。
親子間や友人間で意見が合わずに、喧嘩状態になり離別を余儀なくされる場合。
病気などで死別を余儀なくされる場合。
お互いに求め合っている最中に起こる、拒否できないお別れというのはあるものだと思う。
どれくらい人は、その離別に寛大でいられるのだろう。
意見の食い違い等によって確執が生じる。
わたしは確執というものが好きではない。
(そもそも好きな人はあまりいないと思うが)
しかしながら、話し合いが好きだという人は居ると思う。
そういう逆境的なものを乗り越えれば、もっと絆が強固なものになると信じて疑わない情熱的な人も存在する。
何度も話し合うことで理解を得ることはできるというが、所詮わかり合うのは無理だと思う。
妥協と譲り合いでの共存だろう。
もしかしたら一方的な押し付けになりかねない。
もっと嫌なのは、起こってしまった修復できないこと。
交通事故、愛憎に絡む裏切り行為。
これは、つらい。
心の準備も何もない。
盛大に傷つくしかない。
誰かは言うだろう。
そんな傷もいつかは忘れ、癒えてゆくものだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます