俺が異変に気づいたのは、鹿に会ってから三日後のことだった。

 この暑い中、赤ずきんが長袖のシャツを着ていた。前まで半袖のシャツだったのに、いきなり変わったらそりゃ変に思うだろ?

 それもこの暑さだ。何もしなくても汗が出る気温になってるのに、脱水症状を起こして倒れてしまうリスクもある。帰っている途中に倒れられでもしたら、俺は……。

 赤ずきんに聞く。



「なんで長袖着てんの?」



 冬場だったら、あー衣替えとかかな、で済ませられたけどそうはいかない。



「……朝ちょっと寒気があって、その、」



 明らかに動揺してる。俺から顔を背けた時見逃さなかった、赤ずきんが“しまった”そんな顔をしたことを。

 無意識だろうか、右腕を服がシワになるくらい握ってる。



「ねぇ、なんで?」



 服を握ってる手に触れると、驚いた反応を見せ俺から少し離れた。



「あ……ごめん、なさい……」



 そんなことされたら、ねぇ。



「赤ずきん」



 右手首を少し強引に自分の方に引き寄せて、逃げられないようにする。

 当然、赤ずきんは驚いた顔をした。一瞬痛みに顔が歪んだように見えたが、気には止めなかった。



「隠し事、してるよね?」



 そうとしか考えられない。

 今言えば怒らないから、そんな言葉を後から添えると観念したのか小さく、すごく小さく頷いた。ポツポツ、ゆっくりだが事情を話し出した。大体のことはわかったけどもう少し大きく話してほしかったかな。気を緩めると言葉を聞き逃しそうだった。



「……ごめん。手首痛かったよね」


「ううん、傷口に近かったから顔に出ちゃっただけで……」



 頭を下げている俺に、優しくこう言ってくれた赤ずきんに感謝の言葉を述べた。



「でも、朝から災難だったね。なんて」


「自分のドジさに呆れるよ」



 笑ってるけど相当痛かっただろうな。割れた茶碗の上って絶対ざっくりいってそうだな、でもそれほど深くないって言ってたし大丈夫か。

 大怪我とかにならなくてよかった。怪我をしてもここに来てくれたことが嬉しくてつい、笑みをこぼしてしまった。



「長袖暑くない?俺、半袖でもあっついのに」


「オオカミさんに心配かけたくなかったから、長袖来てきたの」


「……ごめん。俺のためだったとか気づかなくて」


「大丈夫、バレたならしょうがないし。この時期に長袖はおかしいよね」



 意地悪な笑みを浮かべた赤ずきんに、不覚にも胸が鳴ってしまった。

 もうこれ以上ギャップを見せないでほしい。いつか俺は、爆発するんじゃないだろうかと思う。そんなことないだろうけど、最初のばくり。そう大きな音を立てる心臓には俺自身がもたない。



「明日からは半袖着てきなよ。帰り道とかに倒れても、助けてあげられないから」


「……助けてくれるの?」


「そばにいたらね」



 その言葉にふへへ、と笑ってから立ち上がって池の方へと歩いていく。くるりと振り返るとスカートがふらりと翻る。



「優しいね、オオカミさんは」



 もうほんと、勘弁してほしい。

 風になびく髪も服も、優しくしゃべりかける声もその表情も全部、俺の心臓の音をさらっていくのには簡単なこと。

 溢れてしまう感情。俺だけだったらいいのに。



「はあー……」


「えっ、ため息、なんで?」



 わたわたと焦る君。その声、行動さえもさらっていって、ため息の後に笑いがこみ上げてきた。



「ふっ、あははっ」


「どうかしたの……?」



 目の前にしゃがみこんだ君、覗き込むように心配そうな顔をして俺を見ていた。



「何でもないよ」



 無意識に、何も考えなくてした行為だった。



「っ」



 君の頭に手を乗せて、撫でている俺がいた。自分でもなんでしたのかもわからなくて、でも不思議とそれをし終わった後の恥ずかしさはなかった。満足感が俺の中で溢れていた。

 だから、君が頬を赤く染めていたことなんて気づかなかった。



「……優しいなあ」



 そう呟いたことも、涙を流したことも。

 俺は知らない。





 帰り道、赤ずきんと別れた後、急に恥ずかしくなってきて一人熱くなった顔を隠してた。

 今思えば、おかしなことしたよな。もし、おかしな人だとかやめてほしかったとか思われてたらどうしよう。



「ああー、馬鹿か俺は」



 しゃがみこんだ体制で、グシャグシャと頭を掻き回した。



「帰ろう」



 してしまったことは取り消すことは出来ない。気にしない気にしない。

 でも不思議と後悔してない自分に気づいた。




 ***




 少女は撫でられた部分に軽く触れた。あんな事されたのは小さいこと以来で、それも両親や村の人たちにしかされたことはない。

 異性で、同世代。この歳でされたのは初めてだ。

 嬉しくないわけない。

 それもオオカミさんにされたのだ、それこそ嬉しくないなどありえない。私より大きな手で、あったかくて、それでいて優しかった。まるで大切なものを扱うかのようで……。

 胸がうるさい。顔も熱い。

 でも、長袖のこと誤魔化せてよかった。あの話信じてくれたみたいだったし、疑ってる様子もなかった。

 とっさに出た嘘だった。本当のことを言いたい自分もいたけど、そんなこと出来るはずなくて。言ったらオオカミさんとあの人達の関係を壊してしまう。

 ……私の言うことを信じてくれた時の場合はね。

 信じてくれるわけないよ。

 きゅっとスカートの裾を握った。

 なんで、泣いたんだろう私は……。

 あったかくてあったかくて、頭を撫でられたことが嬉しくて今の自分には十分すぎるもので。

 なんか、『頑張らなくていいよ』って言われてるみたいで。

 ダメだった。緩む涙腺を我慢出来なかった。少ない量で抑えられたからよかった。

 オオカミさんも気づいてなかったみたいだし。



「よしっ」



 もう少しだけ、頑張ろう。力を込め村の門をくぐるとすぐにその思いは砕けた。



「やあ、赤ずきん」



 だ。

 震えてくる体と逃げたいという思い。でも逃げたら……そんな考えだけが脳内を占めていく。

 オオカミさんにせっかく嘘ついたのに、また長袖を着なきゃいけなくなってしまう。言ってしまいそうなを口を必死に閉じたのに。



「あのさ、いつになったら離れてくれんの?」


「君だけのものじゃないんだよ」


「それとも何、自分だけが特別だとでも思ってんの?」



 ケラケラと馬鹿にした笑いが静かな村に響いた。

 オオカミさんは、あなた達のものでもないよ。そう、言いたかった。

 だって私だって独り占めしてるわけじゃない。話したいなら話していい、私はそれをやめてとも言ってない。オオカミさんにもしゃべらないでなんて言ってない。

 一人だった私を見つけてくれたのは、オオカミさん。そばにいるって言ってくれて、私たちは“友達”になったんだ。

 なのに、どうして?

 ただ仲良くしてるだけなのに、こんなにも私は恨まれてる。何が悪かったんだろう。

 ――そうか。

 そうすれば、こうして暴力を振られることも、オオカミさんに心配かけることもなかったのかな。



「まだ、足りないんだろ」



 震えが止まった。私の中から感情というものがスッ……と無くなっていく。

 私の悪いところは、自分の言いたいことを言えないところ。一人で全部抱え込んでしまう。

 ごめんなさい、オオカミさん。

 他の人たちにバレないように森の入口付近へと、手首を掴まれ連れて行かれる。押されるように手首を離されその場に倒れ込む。ニヤニヤして私に近づく人達をじっと見据えた。一筋、涙がこぼれた。

 助けて。そう言えたら、どんなに楽だろうか。



「ごめん、なさい」



 誰に向けた謝罪なのかわからない。




 ***




 ただ用もなく散歩していたこの俺、ヒロはいつもなら聞こえない声に気づく。



「……っう」



 薪割りでもしてんのか?

 それにしては不自然な声に疑問を持つ。

 これは数人いるな。どうゆうことだ?まさか、いじめ……なんてな。

 馬鹿なことを考えた自分に笑いが出た。

 だんだんと近づく声に嫌な予感がふつふつと湧き上がる。この声を俺は聞いたことがある。



「……っぁ………うっ」



 見えにくい場所だった。バレないように木の影に隠れて何が行われているのかを確認する。

 目を疑った。傷だらけになった腕や服、笑いながら倒れている子に暴力を振るっている。やめてとも言わないその子に見覚えがあった。

 赤い頭巾。そしてこの声からはわかりにくいが最近聞いた声だ。



「なーにしてんのー?」



 赤ずきんちゃんだ。

 俺に見られたと思い焦ったのか、すぐさまその場から赤ずきんちゃんをおいて離れていった。

 何してんだ、あいつら。



「……よっと、大丈夫?」



 ゆっくり立たせてあげて、服についた土やその他の汚れを叩いて取っていく。すらりと伸びた足から見えた、痛々しい痣。

 服に隠れるところにしてたのか。



「言わないでください」


「……」


「オオカミさんに……言わないで………」



 着ている長袖は隠すためだったのだろうか。こんなにも暑い日に我慢して長袖を着て、ハヤトに会っていた。

 それでもハヤトだっておかしく思うだろう。

 もしかして、嘘を言って誤魔化したとか。



「どうして……」


「心配かけたく……ないっ、関係壊れちゃう、からっ……」



 我慢していたものが弾けたのか、泣きながら俺に懇願する。

 そこまでして隠したいのか。あいつなら助けるのに。



「うん、わかった。言わないよ」



 俺も立ち上がって、涙を拭き続ける彼女を優しく抱きしめて頭を撫でた。



「よく、我慢したね」



 ぷつりと解けたように、子供のように泣き出した。よしよしと宥めるように撫でてやると、俺の服をきゅっと握る。

 ハヤトにバレたらやばいなあ、この状況。まだ赤ずきんちゃんのことには気づいてないみたいだし、それについては言わないけどさ。怒るだろうな、確実に。うー、怖い怖い。

 あいつらがこんなことをした理由は、おおかた予想はついてるけど。ごめんな、赤ずきんちゃん。この事を黙ってるほど俺は優しくないんだ。

 数分後、泣き止んだ彼女を家まで送ってハヤトの元へ急いだ。



「ハヤト!!」



 俺の声に反応して、勢いよく振り返る。



「話がある」



 いきなりのことに頭がついていかないのか、首を捻って俺を見ている。そんなことどうでもいい。

 淡々と彼女のことを話した。みるみる顔の表情が変わっていき、驚きから少しの悲しみ、怒り。どれも久しぶりに見た気がする。

 ほら、俺はちゃんと言ってやったんだから。

 後はお前が、助けてやれよ。

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