2
あれから一ヶ月ぐらい経ったかな。季節は夏に差しかかっているところだった。木々についている葉っぱたちは綺麗な緑色へと変化していっている。最近少し暑くなってきた。それでも、俺は変わらず赤ずきんの元へ歩みを進める。
「赤ずきん」
池の周り、道に接した草原に腰を下ろしどこかを眺めてる君を呼ぶ。くるりと俺の声の方へ向いて「オオカミさん」そう呼ぶんだ。
「ほんとに来てくれるんですね」
「約束したろ?そばにいるって」
「……そうですね」
悲しげに微笑んだ君に、モヤモヤが生まれる。
何かあったのだろうか。でも、いつも通りの赤ずきんだし心配いらないだろうけど、どこか違うようにも見える。
問いただそうとした口を、何も言わずに閉じた。誰にも言いたくないことはあるだろうから、俺は気づいてないフリをした。
「今年は、よく晴れるね」
「お母さんも村の人も良かったって言ってました。去年は雨が多くて、野菜たちも上手くできなかったから」
自給自足してる人たちにとって、それはもうきついこと。隣町にも提供したりして生計を立てたり、自分たちのご飯の食材としても必要となる。
あー、大変だったなあ。あん時は。
思い出す大雨の日のこと。あの時はすごい状況で、村人総出で畑に行ってはもう少しで収穫に至る野菜たちを全て、急いで採ったっけ。ずぶ濡れになるわ、無事なやつは少ないわで雨恨んだなあ。
「今年は、そうならないといいけど」
「そうですね」
赤ずきんの言葉にはっとして、
「いつまで敬語なの?」
近くにあった猫じゃらしを手に取り、ゆらゆら揺らした。遊ばないよ、猫じゃないんだから。俺が遊んでるとこなんて、想像もしたくない。
「年上だし、失礼かなあーって……」
そういや、年齢言ってなかったっけ。でもさ俺ってそんなに老けて見えるのか?
「赤ずきんは、何歳?」
「今年で、17です」
驚いた。見た目ではもう少し下かと思ったけど、そんな歳なんだ。意外だな……って、そうか。こんなこともあるよな、見た目じゃ俺も年上とか間違えられ……て……。
あれ、
「17?」
「はい、17です」
「…………俺も、17なんだけど」
俺の声はこの場に反響したかのように、耳にまだ残っている。時が止まったように俺たちは数秒、数分、固まって少しずつ赤ずきんの顔が青くなっていったのを俺は見てた。
「ご、ごめんなさい!てっきり年上だってずっと思ってて……」
「俺、そんなに老けてるかな――……」
我ながらしみじみする。自分の顔はそんなに老けているのかと。そんなに老けてない自信あったんだけどなあ……。あれ、目が霞んできた。
「な、泣かないでくださいい」
「いや、赤ずきんのせいではないよ。違うから、汗だからこれは」
「絶対嘘じゃないですかあ……」
わたわたと焦る君に自然と笑みがこぼれて、いつの間にか笑っちゃってて君は不思議そうに僕を見つめた。
「ははっ、うんまあ俺も赤ずきんのこと年下かなあとか思ってたし」
君の顔の前で、猫じゃらしをゆらゆらと揺らしてみせた。
「お互い様ってことで」
年上に見えたことは俺が大人びてたって解釈しよう。
俺につられて笑っている君に言う。
「敬語、外してよ」
同じ歳なんだしね、さすがに敬語はいやだよ。
「ね、外して」
「でも、これで慣れちゃってますから」
「外さないなら猫じゃらし攻撃するよ」
「それは、嫌、です……」
されたことを想像したのか嫌そうな顔をしていた。猫じゃらし攻撃って、傍から見たら変なことしてるよな絶対。変人になっちまう。
「じゃあ、外します」
「うん」
嬉しさで緩みそうな口元を必死にこらえる。
前から思ってた敬語を外してもらえるんだ、嬉しくないわけない。
「……わっ、」
静かな時間、ほわほわとしている中ぺろりと頬を舐められた。少しざらついてて、水分を含んでいるのか若干ヌメっとしている。
それが鹿の舌だと気づいたのは数秒後だった。
「びっくりしたー」
屈んでいる鹿の顎周辺を、軽く撫でてやると赤ずきんがした時みたいに目を細めた。
この鹿はよくここにいる。
「お前は、ここが好きなのか」
独り言のように呟いた。それに対して返事をしたのか小さな声が聞こえた。
「……そうか」
満足したのか俺の手から離れて、池の水を飲んでからどこかへ行ってしまった。
「あの鹿は、私のところにいつも来てくれて……私の中でここに来ると会える友達なんです」
「へぇ、優しいんだな」
鹿にも感じ取れたのだろうか、赤ずきんが寂しくしていたことを。あいつは、せめて一人にしないようにここに来ていたのだろうか。
なぜか、もう見えなくなった鹿の姿、消えていった場所を見ていると俺は悲しくなってしまった。
もう、来ない。
そんなことが頭をよぎる。……考えすぎか。
頭の片隅へ置いて鹿に俺は感謝した。赤ずきんを一人にしないでくれて、ありがとな。
「ていうか、なに敬語で話してるのかな?赤ずきんちゃん?」
目を合わせた時、すぐに逸らした君に笑顔で迫る。言ったそばから敬語で話す君が悪いよ。
「……えっと、」
「言い訳は受け付けません」
痛くないように頭にチョップをする。
手をあげられると思って、とっさに目をぎゅっとつぶった君は俺の手が当たると同時にぴくりと体が動いた。
「次は、猫じゃらしね」
すこーし怒った風に言えば、君は小さく笑って君も猫じゃらしを手に取る。
「これからは気をつけないと、だね」
吹いた風に乗って揺れる頭巾と髪に、君の横顔に見とれてしまう。幼さが残る顔だと思っていたのに、いきなり大人びた顔で笑うから戸惑う。しかも、外した口調いきなり過ぎて驚いた。……外せって言ったのは俺だけどさ。
ああ、心臓がうるさい。
「そういえば鹿さんにまた明日って、言ってなかった」
さっき、俺が見ていた場所を君は見つめて不安そうな表情になる。同じことを考えているのだろうか。
もう、来ないのだろうか、と。
「大丈夫」
「え、?」
「また来るよ、きっと」
短い間の後、うん。と聞こえた。
「そうだね」
――そんな俺たちの願いは虚しく、砕かれた。
あれから数日経ってもあの鹿に、一度も会うことはなかった。
***
鹿に会えなくなって、また、数日が経った。
君はずっと気にかけていて、いつもより元気がなかった。今は少し軽くなった方だ。元気も取り戻して、俺とも変わらず接してくれてる。でも、やっぱり時々見せる表情には俺も鹿のことを考えさせられる。
一人じゃないからあいつはここに来なくなったのだろうか。
もしかして俺のせい?
あの時、俺の頬を舐めたのはなんなんだったんだ。
水を飲む前、短い間絡まった視線。俺は忘れてない。あの時のあのお前の目を、しっかりと何かを見据えていて真剣なその目に、人間の目かと思わせるものを感じ鳥肌が立ったのを――俺は忘れてない。
「……いない」
今日も、いつもの場所へ行くとそこにはあるはずの姿がなくて一瞬焦った。君がいつも座っていた場所には小さな紙が置いてあった。手に取ると可愛らしい字が書かれてあって、赤ずきんのものだとすぐに分かった。
『すみません。今日は家の手伝いで行けそうにありません。明日はちゃんと来ますから!』
手紙では敬語なのを許すなんてないから。
今の俺は笑っているが、怒りオーラが出てると思う。紙だからと言って敬語はいいなんてないんです。
「はあ……」
君がいないのに怒っても仕方ない。明日実行しよう、次はするって言ったからね俺は。猫じゃらし攻撃、決定。面白そうだなあー(棒読み)。俺は確実に変人扱いだな、他のやつに見られたら。
なんて湧き上がっていたものは、数秒後なくなっていて冷静になった。気にはならなくなったが、入れ替わるように『あいつ』が湧き上がってきた。
「なんでいなくなったんだよ、お前は」
あの場所、消えていった後ろ姿を思い出す。何をしているのだろう。一人なのか?もし、一人だったら……。
「赤ずきんが一人じゃなくなっても、ダメじゃねえか」
そんなの寂しいじゃねぇかよ。
しゃがみこんで、熱くなっていく目頭を隠すように腕を顔を埋めた。そんな時、
「あれ?ハヤト、何してんの」
近づいてくる足音。これは絶対に隣に来て覗きに来る。それもムカつく顔で。
「もしかして……泣いてんのー?」
やっぱり、この声は――間違いない。
「なあって、聞いてんの?」
「うるさい」
こいつの声が聞こえた時点で引っ込んだ涙。感動を返せこの野郎。
「お前こそ、なんでいんの。――ヒロ」
案の定ムカつく顔でこちらを見ていた。ニィっと笑って素早く屈んでいた体制を直した。
「ハヤトに会いに来たの、うふっ」
「………」
「引いた目で見んのやめてくれる?言葉ないのが一番くるから」
そう言って、ドカっと俺の隣に座った。俺もしゃがんでいる体制は結構きつかったりしてその場に腰を下ろした。
「赤ずきんとやらは、いないんだな」
「からかいに来たのかよ」
「いやあ?ハヤトが珍しく気にかけてっから、どんなやつかなあーってね」
「からかいに来てんじゃねぇか」
「俺が嫌なやつみたいな言いがかり、やめてくださあーい」
嫌なやつだろ、たまに。
そんな言葉はしまって、ヒロ……俺の幼馴染みでもある隣のやつに目線を向ける。
誰に話しかけてるのか、「やだねえー、ほんと」とか言いながら近所のおばさんの如く、手の平を上から下へ軽く振る。
面倒だから言わなかったのに、バレてたのかよ。……まぁ、変に思うよな。いきなり出かけるのは多くなるわ、出かける時間は決まってるわで。鋭いヒロなら気づくよな。
「赤ずきんのこと、からかったりするなよ」
「ええー?もし可愛い子だったらそれは、無理だなー」
「……」
「無言の圧、やめてよ」
また、溜息を漏らす。言っても無駄だな、聞かないやつは聞かないから。
「好きになっちゃうかもしんないね」
「そうかよ」
「赤ずきんちゃんには、その態度で接してんの?」
「それはない。この態度で接するのはお前だけだよ、安心しろ」
「わあー、安心出来ないわー」
ぐすぐすと泣き真似を始めたヒロに、冷たい視線を送ってからまたあの場所を眺めた。
どこにいったんだろう。
「鹿のこと?」
耳を疑った。まず、頭に出てきたのは“なぜ知っているのか”と言うこと。
考えてることが分かったのか、それとも俺のこの顔で読み取ったのかわからないが微笑を浮かべ話し出す。
「鹿がいなくなった日、たまたま散歩しててさハヤト見かけて……って言ったら後はわかるよね」
それで知ってたのか。話しかけなかったのはこいつなりの気遣いだろう。
「てゆうか。赤ずきん見てるなら、よくね?」
「正面から見たい♡」
悪寒はしたが、ほっとこう。
「今、失礼なことを考えてるハヤトくんに朗報です」
「朗報?」
「そ、朗報~」
わくわくとした顔をして俺を見てくる。何でだろうな、嫌な予感がする。……気のせいか?
「その鹿、俺見かけたんだよ」
「………は、?」
「最近、だったっけ。元気にしてるっぽかったよ」
“元気にしてる”その言葉に安堵が生まれる。とりあえずよかった。
「よかったな」
「……おう」
俺の返事を聞くなり立ち上がって、背伸びを始めたヒロを見ていると目が合った。ニイっとまた笑った時は、とてつもなく嫌な予感がした。
なにかしてくる。
「おりゃあっ!」
「うおわあっ!!」
突然髪をバサバサと掻き回され、ある程度綺麗に整わせていた髪の毛はあっさりと崩れた。最悪だ。
てか、いつまで続けるつもりだよ。
「やめろって!」
「ふわっふわだな、髪の毛。俺とはちげえわ」
どうでもいいから、早くやめろ。何が面白いんだよ、男二人がじゃれてる画って……!
傍から見た俺たちを想像すると、謎の悪寒に襲われる。
気持ち悪くないか、これは……。
「何、してるんですか……?」
ピタリ。声を聞いた瞬間止まった動き。俺はまた、嫌な予感がする。そうじゃないことを願うが、叶わないだろうな。これは赤ずきんの声だ。
「……えっと、オオカミさん?」
穴があったら入りたいと、心底思った。こんなにもタイミングが悪いことがあるだろうか。
心の隅で、来ないことに安堵していた部分もあった。だからこの場面を運悪く見られたことに、すごく嫌になった。しかも赤ずきんにだ。
「……オオカミさんの、お友達?」
話す時は敬語を外していた。
笑ってはいるが、微妙に引きつっているのがよく分かる。困ってるな、この状況に。
「あっ!もしかして君って、赤ずきんちゃん!?」
よく響く声だ。うるさいと言った方がよかったか?とゆうか耳元でしゃべるな。
俺は物凄く耳を塞ぎたい衝動に駆られ、でも塞げないことで眉間にシワがよる。
「俺はヒロ、こいつの幼馴染みでもあり“親友”でもある!よろしくね」
「よろしく、お願いします?」
差し出された手に戸惑いながらも、君はその手に自分の手を差し出した。と同時に握られぶんぶんと上下に振られる。
「わわっ」
「ははっ、かったいなあー。緩くいこうよゆるーく」
面白がってるなこいつ。
ヒロはわかっててやってる。赤ずきんが困ってることも腕が徐々に疲れてきていることも、「やめて」と言えないことも――ほんとタチが悪い。でもまぁ、気に入ったことは確かだな。
「ごめんね、つい」
「い、いえ」
「ったく、大丈夫か?赤ずきん」
「あ、うん。大丈夫だよ」
明日からは注意深くここに来よう。気をつけていないとついてくることは確実だからな。
ヒロがいるとうるさくなる。よく言えば場の雰囲気が明るくなる。悪いやつじゃないんだけどな、嫌ってるやつもいないだろうし人気者と言えば人気者だ。ヒロの周りにはいつも人がいるから。
「そういえば、手伝いは終わった?」
「そこまで手間がかからないことだったから、早く終わってここに来たんだ」
グチャグチャになった髪の毛を手ぐしで整わせる。絡まっていた部分がブチブチと千切れていく。
手加減をしろよ、ヒロ。
横目で見れば、言いたいことがわかったのか片手を横にし顔の前やる。ウィンクをして「ごめんねっ」そう言わんばかりの顔をした。とても殴りたい。
「来てないですよね、今日も」
静寂な時間が流れた。いきなりいなくなれば不安にもなるし心配にもなる。それがすぐに無くなるかと言われれば、そうはならない。もっとも赤ずきんの場合は無理だろう。長い時間を共にした、友人だから。
「その話だけど……」
「俺、最近?見たよ」
俺の声を遮って、ニコニコとして俺の肩に腕を乗せてもう片方の肩には顔を乗せた。口元がひくついた。ベタベタされても嬉しくない。
「ほんとですか!」
それにお前がすぐ帰ればよかったのに。
「うん、元気そうだったよー」
「うわあ、それはよかったです」
そしたら今、この笑顔は、俺だけに向けられていたのに。
「なあーに怖い顔してんの、オオカミくん」
ヒロの声でハッとした。
ヒロは赤ずきんとただ話してただけなのに、俺は何考えてたんだよ。
笑いかけただけ。そう、鹿の報告が聞けてそれも元気だって聞いて嬉しかったから、だから赤ずきんはヒロに笑いかけてた。それだけなのに。あの時の黒い感情は、なんだ。
『俺だけに向けてほしい』
そう思ったのは、おかしいだろ。赤ずきんは俺だけのものって訳じゃないのに。
「もー、ほら赤ずきんちゃんビビっちゃうでしょーがっ。笑ってー」
頬を引っ張られ俺の制止の言葉は、おかしな言葉へと変わっていく。何をしゃべっているかわからないだろう。それが面白いのか、引っ張るその手を止めようともしない。
「ほらほらあー」
この声のトーン、しゃべり方、絶対ニヤニヤしてる。こっちは痛いっつーの!
「うぐっ……痛い痛い!首、首から顔が外れるって!」
手を上へと伸ばし、ヒロの顔があるであろう場所を目掛けて力いっぱい押した。ドンピシャだったのか、手には柔らかな感触と痛がるヒロの声。
俺の勘って結構すげぇな。自分でも驚いた、ドンピシャに当たるなんて思ってもみなかった。
「ならはなへ、いましゅぐおれのかおからてをはなへ(なら離せ、今すぐ俺の顔から手を離せ)」
「オオカミくんが先に離してくれたら、離そうかなあ~?」
「てめっ……」
どちらも負けじと戦っていれば、くすり笑い声が聞こえた。
「仲良しですね、お二人は」
攻撃をしている状態で固まっているため、今とてつもなく変な顔になっている。それがまた面白かったのか笑い続ける赤ずきん。
初めて見た、声を上げて笑った赤ずきんの姿。こんなにも子供っぽく笑うのか。なぜ今まで見ることがなかったのか、見ることは時間があったから出来たはずだ。
……そうか。俺にはそんな力、なかったのか。
ヒロがいたから、今こんなにも赤ずきんは笑ってる。俺の前では見せなかった表情で。そういえば、悲しい顔しか見てなかったな俺。
ただ、黙って隣に座ってることしか出来てなかったんだ。
「あー、面白かった!」
背伸びしながら立ち上がり、森の方へと向かう。
「帰るのか?」
「おうよ、腹も減ったしなー」
確かに、腹の虫が鳴く数分前というところまできている気がする。今日はよくしゃべった。
あたりを見渡せば、薄暗くなっていて赤ずきんは帰れるかなんて心配をした。
「じゃ、お先に〜。赤ずきんちゃん送っていけよ〜」
俺が悩んでいたことをあっさり言って、振り向きもせず手を振りながら薄暗い森の道へと消えていった。赤ずきんはそれに対して小さく手を振っていた。
「……俺たちも帰りますか」
「うん」
「送るよ。この中を一人で帰らせるのはさすがあれだし、ヒロも言われ……」
「よろしくお願いします」
えへへ、なんて言いながらお辞儀した。それに対して俺は、
「お願いされました」
同じく笑いながら言った。
立ち上がって尻についたものを払うように叩き、赤ずきんの住む村へ行こうとした時赤ずきんが固まっていたことに気づく。
「どうした?赤ずきん……」
顔を見れば、その目からは涙が一粒二粒と流れていてギョッとした。それもどこかを眺めている。この方向は、あの鹿が去った場所だ。どうして、
「っ!」
俺は目を疑った。
だって、あの場所にはいるはずない姿があったから。
「鹿さん、だ」
「帰って、きたのか」
状況を上手く飲み込めていない俺たちをよそに、鹿は徐々に近づいてくる。その後ろにはまだ小さい子鹿もいて。鹿には子供がいたんだと納得した。もしくは産んだ……のかは定かではないが、来なくなった理由はよくわかった。
でも今は戻ってきてくれたことが、とても嬉しい。
「よかった……」
俺たちの目の前で止まった。俺はゆっくりとその鹿へと手を伸ばしまた顎周辺を優しく撫でた。
「また会えたな」
気持ちよさそうに目を細めて、俺の手から離れ赤ずきんの元へと寄っていく。その光景を見た子鹿は撫でられるのを羨ましく思ったのか、俺の腹あたりに擦り寄ってきた。同じようになでてやれば、あいつと同じように気持ちよさそうに目を細めた。
「……強く生きてね。私のそばにいてくれて、ありがとう」
涙を拭きながらも笑って送り出そうとする。赤ずきんもわかっているようだ、こいつがもう毎日のようには来ないことを。
いや、もうここには来ないかもしれない。でも俺たちはそんなこと考えなかった。
『また、会える』その考えしかなかった。
鹿は子鹿とともに俺たちから少し離れ、軽くお辞儀してゆっくりとあの場所へと帰っていった。
「またね、鹿さん」
後ろ姿に、そっと呟いた赤ずきんの横顔はスッキリしたようにも見えた。
「よし、帰ろう」
「うん」
元気な返事が響いた。
***
村の門前で、俺たちは止まった。太陽はもう沈みかけていて空には綺麗なオレンジ色が濃い青に染まっていくところだった。
「じゃあ、また」
手を振って、俺も去ろうとした時声をかけられた。
「あっ、オオカミじゃん!」
俺は村人との交流は多い方で、だからこうやって声をかけられることも多い。
「久しぶりだな」
「最近遊びに来てくんねぇから寂しかったんだぞ?」
そんなことを笑いながら言っては軽く叩かれる。数人の俺と同じ歳のやつらが、俺を囲み赤ずきんとは距離ができてしまった。
「今日はまたなんで来たわけ?」
「赤ずきんを送りに来たんだ」
一瞬、ヒヤッとした空気が流れ、笑みが消えた気がした。気のせいか?
「なんだよ、お前ら出来てんのか!」
「ないってー!……あ、赤ずきん。お前の親が探してたぞ、お前のこと」
「えっ……、わかった、ありがとう」
焦るようにこの場を去っていこうとする赤ずきんを呼び止める。くるりと振り返った君に手を振った。
「また明日!」
俺に手を振り返して、また走り出した。その後ろ姿を見てホッとする。
「いつの間に仲良くなってんだよ」
「たまには、私たちのことも構ってよね」
数分ぐらいたわいもないことをしゃべってから、俺は村を離れた。
今日は色々なことがあった。ヒロに君のことはバレるし、仲良くなるし、鹿にはまた会えた。村のやつらとも久々にしゃべったし、今日はいい日だったな。君の知らなかった一面も、見れた。
胸にそっと手を当てた。あの時感じた黒い感情は、なくなっていた。
何だったのか、自分でもよくわからない。あんなことを思ったのは初めてだった。
やっぱり君と過ごす日々は、今までよりたくさんの色がついている。早く明日になってほしい。こんなにもワクワクするのは初めてかもしれない。
俺はまだ見ぬ明日に期待を抱いて、空を仰いだ。
***
「おい」
びくりと体を震わせた。
後ろを見ればさっきオオカミに話しかけていた人達。皆笑っていない、その顔は無表情だった。――違う。怒りを、含んでいる。
「あんま調子乗るなよ」
「オオカミはお前だけに優しいわけじゃねぇから」
「優しくしてもらってるだけじゃないの?」
「なんでこいつに構うんだろ、わかんねえわ」
口々に怯える少女に向かって嫌みをぶつける。少女はただ、耐えた。自分の前から去っていくのをじっとその場で耐えた。
「また、殴られたいのかよ」
敏感に反応した言葉。
思い出すだけで恐怖心が少女の中を満たす。
それでも、あの人に関わらないとは言えなかった。あの人の前だけは心が休まる。
この事は親には相談もできない。かと言ってあの人にも相談できるはずがなく耐えるばかり。
「助けて」
そう言えたらどんなに楽だろう。
少女は静かに赤い頭巾を深く被り、涙を流した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます