「バス・ストップ」
福本驚
「バス・ストップ」
「バス・ストップ」
福本 驚
さて、どこから話し始めたらいいのだろう?
僕たちの一家が、東京の二十三区のマンションから、東京の多摩地方といわれる調布市に引っ越してきてからかな。
二十三区から多摩地方に引っ越したからって、親父が落ちぶれたと思わないでほしい、親父は念願のマイホームを建ててたのだから。
転校は様々な選択肢があった。
離れた場所から通学をする、その地元の学校に入る。
大学付属校だった僕は前者を選んだ。
離れてしまっても、同じ高校の生徒でいることが有利に働くと思ったし、なにより高校三年の時に、転校するメリットは何もないと思われたからだ。
そのため、通学時間は倍になったが、それはいたしかないものだろうと諦めるしかなかった。
駅に行くまでは二通りの方法があった、一つは自転車で駅まで行く方法と、バスに乗って駅まで行く方法だけれども、自転車に自信のなかった僕は、迷わずバスでの通学を選んだ。
なにしろ坂がが多いのだ。
文系で体力のない僕は、バス通学を迷わず選んだ。
ところで「バス・ストップ」というイギリスの古いバンドの曲があり、僕はこの曲を今朝も、バスに乗りながら聴いている。
この曲は、僕はなぜか僕を気にいってくれた……不良の、良い噂がない先輩が、合同の学際(僕は滑り込みながらも参加した)の打ち上げの時に、洋楽の好きな僕に知っているかとカラオケで歌ってくれたものだ。
僕はメロディライン、その時にわからなかった歌詞にひかれて、すぐにアルバムを買って、スマートフォンの一曲に加えた。
僕が引っ越したのは春休みだったので、ネットでバスの時刻表をプリントアウトして、一番近いバス停までは自転車で確認していって、万全を期した。
春休みも終わり、僕はバス停にぶらぶらと歩いて行った。
そこで人生を変える出来事が起きた。
はっきり言おう、僕は恋をした。バスを待つ列の一番前の、制服姿の少女に恋をしたのだ。
僕はそれから早起きをして、小走りにバス停に向かうのが日課になった。
一度は彼女の次に並ぶことができたが、気恥ずかしくて、それからは時間を調節して、彼女の間に三、四人がが並ぶころにバス停に着くようにした。
そして僕の視線の先には常に彼女がいる。
僕が彼女を知ったのは、深大寺植物公園前のバス停の列で、ある雨の朝、先頭に並んで一心に文庫本を読んでいる姿を見た途端、僕は彼女に恋をしていた。
僕が聴いている、「バス・ストップ」という、この曲は男の子が女の子に、雨の日に傘を差し出して、恋が始まるという内容で、僕の場合はそう巧くはいかなかった。
待合所には屋根があったし、お互い傘を片手に持っていたからだ。
だけど僕は彼女に恋をしてしまった。
僕は家からバス停まで、高いフェンスに囲まれた植物園を横目に見ながら、かなり歩いていく。
僕は深大寺という、東京でも有数の植物園をへ説する名刹の近いところに引っ越してきてのだ。
二歳下の妹はバス停まで行くのが面倒臭くないかと聞く。
本人は近くの中学校へ自転車通学だからだ。
僕は彼女と会えるのと、四季折々に姿を変えるだろうこの道が好きになりつつあった。
苦に思ったことはない。
彼女を初めて見た時は、桜が咲いていて、道路脇を両列並んでいるのを楽しみ、彼女がこの桜の下で微笑んだなら、さぞ素晴らしいだろうなと想像して、実際には微笑を浮かべることなく、一心にバス待ちの最前列で、文庫本を読む彼女を見つめていた。
梅雨の時は、まるで夜の暗い原生林の様な植物公園の横を歩き、明けて夏が訪れると、光り輝く様な木々の緑の眩しさに目を細めて歩いた。
夏休みが終わり、残暑も過ぎた頃は紅葉が風に吹かれ落ち葉は舞い踊り、木々の葉が大部分落ち、すっかり寂しくなると冬を迎えた。
その間、僕は季節と共に彼女の変化を楽しんだ。梅雨の前には衣替えで、暗い色調の制服から、目の冷める白いシャツと空色のスカートの彼女に見蕩れ、そして再び冬服に着替え、寒さが増すと、冬服のセーラー服の上に、同色のコートを着て、可愛らしいマフラーに、白い顔をうずめている彼女を見る事ができた。
季節の移り変わりは、彼女の服装だけでなく、彼女自身も変化させた。
特に彼女が髪を切った、時は僕をどきどきさせた。
あれは、そう……梅雨の鬱陶しさが去り、暑さが本格的になると、彼女は背中の真ん中辺りまでの長かった髪を、肩の辺りまで切り揃えた。
それは初夏が、彼女の新しい髪形と共にやってきたように僕に感じさせた。
僕は吃驚したが、それはとても好ましく思えた。実際、見蕩れてしまったほどだった。
それまで、大人びて見えていた彼女が、幼い少女に見えて、僕はドキドキしてしまった。。
その髪を切った日、僕は彼女と初めて目を合わせた。普段なら込んでいて座れない座席に彼女は座れていて、後から乗って来た僕を、上目遣いに見ていた。
彼女の手は切り揃えた髪を、所存なさそうに触りながら、いつもは目から離さない文庫分から視線を外し、窓の外を見てから僕の事を密やかに、しかししっかりと見上げてきたのだ。
まるで自分の新しい髪型はどうか?
と、問うて来ているように感じられ、心の中で『似合ってる。本当にすごくいいよ』と意気地のない僕は口に出せずに何度も繰り返した。
ただ伝わるかどうか解らないけれど、肯定の意思を込めて微かに微笑んで見せた。
自分でも互こちない笑顔だと思うし、状況からして微笑む意味もないというのに、僕は考えも思いも、頭から吹き飛んで、ただ微笑んだ。
僕の意を汲んでくれたのか、彼女は頬を赤くし、小さく頷きながら、窓の外へ目をやり、一つ小さく頷いてから、文庫本に目を落とした。
秋を越す頃、再び彼女は髪を伸ばし始め、束ね方による髪型の変化は僕を楽しませた。
しかし僕は彼女の事を殆ど知らなかった。
いや、全く何の知識もなかった。
名前などは論外、解っているのは、バスを降りた調布駅で下り電車に乗る事と、その制服から割り出した……僕はそのために、学校でナンパを趣味をしている友人に都内女子高生制服図鑑という本を見せてもらって、お前ストーカーだな、とまでと言われ、否定できなかったけれど、中学生である事、そしてチラと覗き込んだときに確認した、胸元のバッジで三年生であるという事だけだった。
僕は高校三年なので歳の差は三つ。
僕は付属高校に通って、成績もそこそこだったので進学は決まっていたが、彼女は今、受験勉強に励んでいるのだろう。
そう考えると、彼女に対して『がんばれ』と、これも声にならない声で応援した。
そしてある冬の朝、彼女はバス停に居なかった。受験の為に時間帯が変わったのだろう。
僕は次の春にまた、彼女に会えるのだろうかと思いながら、バスに乗り続けた。
僕にとっては長い冬が終わり、桜の開花と共に春が訪れた。
そしてまた、彼女に出会うことができた。
同じように列の先頭で、薄茶色のブレザーの上着とチェック柄のスカートを身に着け、文庫本に目を落として、バスを待っていた。
僕は大学に無事進学し、野暮ったい学生服から私服に着替えて、新しい生活を迎えていた。
それにその日は、彼女に会える希望を胸に、自分なりに精一杯のお洒落をしていた。
これまではなかったことだけど、彼女の視線が文庫本から離れて宙を泳いだ。そしてその視線は、眩しそうに彼女を見つめる僕のそれと、一瞬絡み合った。
僕は目は良い方で、彼女の目に安堵の色が浮かんだのを見て、それが僕を見た時だという事を確信した。
都合のいいように考えるのは、恋している人間が良く陥る罠だと自省もした。
でも視線を外した彼女から、僕は目を離せなかった。
久し振りに見れた事と、先程の意味ありげな視線、何より彼女の淡い桜色に塗られている唇に、目を奪われたのだ。
口紅程派手ではなかったが、妹に聞いたところ、そんな感じのリップクリームもあるらしいから、それなのだろうと思った。
次の朝、僕は少し早目に家を出た。自分の心が抑えられなくなってしまったからだ。
今日こそは、列の先頭の彼女に近づいて、何か一言でも話しかけるつもりだった。
しかし予想外の出来事が起こった。僕がこれなら先頭の彼女の次に並べると思って、バス停に向かっているとき、彼女もまたバス停に向かっているのが見えたのだ。
バス停にはもう人が二人並んでいて、僕らは鉢合う様に丁度その後に並ぶことになった。
僕の横に彼女がいる。桜色の唇の大人びた彼女が横に立っている。
それだけでもう、心臓は破裂しそうだった。でもどうして、遅れたことのない彼女が今日に限って……妄想かもしれない、馬鹿馬鹿しいと笑われるかもしれない、でも僕は彼女が意図的に遅れてきたのではと考えてしまった。理由は僕と同じ、僕の近くで並ぶために……。
その日は何もできなかった。顔を俯けて僕と同時にバスに乗り込む彼女、僕は何か話掛けたかったけど、何も言えずにバスを降りた。
次の日こそが正念場と、僕は前夜から意気込んで、バス停に向かった。
僕は馬鹿だった。
バス停では、彼女と同じ制服を着た少年が、並んで楽しげに話し合っていた。
遠くからそれを確認した僕は、足を遅め、最後列に並んだ。
駅に着くと二人は、並んで改札を通っていき、僕はその場に取り残された。
桜色の唇は、僕ではなくアイツの為……。
僕は学校に行く気にもなれず、駅を後にして歩き始めた。当ては特になく、甲州街道を過ぎた辺りで、自分が深大寺の方へと向かっていることに気が付いた。
僕はそのまま歩き続け、深大寺の境内まで来て、今朝の光景を見るまでは、普段の昼間は賑わうこの辺りの店を、彼女と歩くことまで考えてたことを思い出し、益々足取りが重くなった。
そして深大寺の中の、色々な所を登ったり降りたり、暫く彷徨った後、側に隣接する小さな青渭神社に来ると、賽銭箱の前に座って、目の前を通り過ぎる車を見ながら、涙ぐんでるのに気づいて、目を拭って家に向かった。
次の日も学校を休み、その後は調布駅まで自転車で通い、バスとは縁を切った。
ある夜、妹が
「今から料理道具を譲って貰いに行くけど、遅いから付き合え」
と言ってきた。
妹は料理好きで、母か教わるのに足らず、この街に引っ越してきてから、料理教室に通っていた。
今凝っているのは菓子作りらしい。
譲ってもらうのは料理教室が終わる、遅い時間だったので僕は仕方なくついて行く事になってしまった。
妹は、通っている教室の先生から古い道具を譲って貰えるというので、護衛兼、荷物持ちとして同行させられるらしかった。
妹は足取り軽く進んでいくのだが、その先は植物園の方だったので、僕は苦い記憶を思い出し、対照的に重い足取りでついていった。
満開の桜が舞う中、僕の気も知らず、妹は植物園のバスターミナルに向かっていく。
去年一年間の様々な記憶が甦り、僕は耐えきれず、真剣に妹を残して帰ろうとした時、あのバス停に人が立っているのに気が付いた。
僕は目を見張った。そんなことは有得ない、どんな偶然が働こうと。
しかし、現実に実際、彼女があのバス停で、夜桜の花弁の風に巻かれて、こちらを向いて立っている。その彼女に妹が駆け寄っていった。
そして僕を手招きすると、お節介な妹は、彼女とは大分前に料理教室で知り合った事、最近、元気がないので相談に乗ると、これまで何度か聞いていた、好きになった相手が、自分を避ける様に、姿を見せなくなった事、もしかすると高校でしつこく迫ってくる上級生と、一緒に居る所を見たからではないかと悩んでいるという事を、彼女は語った。
仲を取り持とうと、彼女から色々情報を聞き出した妹は、状況、風貌等から僕を導き出し、ご丁寧に写真を見せて面通し迄して、相手が自分の兄と確信し、計画を立てたのだ。
僕はしっかり、妹の言葉を聞きながらも、視線は彼女から外す事が出来なかった。
料理道具云々は方便で、僕と彼女を引き合わす口実だったのだ。
僕は呆然としながらも、一つだけしなければならないことは、はっきりと解っていた。
「バス・ストップ」あの曲の男の子は雨の中、傘を差し出し女の子を恋人にした。今日は雨は降っていないし、僕は傘を持っていない。
ただ満開の桜、そして強い風、その風によって降っている桜吹雪は雨の役割を果たしてくれないだろうか?
そして彼女に傘を差し出す時が来た。
「こ、ここの植物園、引っ越してきて、一度も来てないんだ。今度一緒にどうかな?」
我ながら心もたなく情けない傘だなぁと思いながらも、彼女の返事を待った。
「私はここで生まれたんですけど、まだ一度も……お願いできますか?」
彼女は僕の差し出した、見えない傘の中に入ってきてくれた。
僕は去年の春に恋に落ちて、今年の春に恋を手に入れた。
いっぱいの桜が、僕らの間を風に吹かれて舞い上がっていった。
了
「バス・ストップ」 福本驚 @hiroyuki0402
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