第22章 贖罪の終点――ここが、私の終着点であり、生きた意味―
■第二十二章 贖罪の終点――ここが、私の終着点であり、生きた意味―
そして今、私はどこかにいる。太陽の日射しが眩しい6月のある日の昼。
ここは、どこだろう?
「せんせ―! ツルせんせ―!」
私を呼ぶ、声がする。こんな私を呼んでくれる、声が……。
目蓋を閉じているらしい。まるでセロテープを貼られたかのようななんとも言えない嫌な重さがあったが、なんとかそれを振り切り眼を開ける。
目の前には、田園風景が広がっていた。私が住んでいる、美山市。私が生きた土地、美山市。ここは、どこだろう? 私は今、どの地点にいるのだろう?
「せんっせ―! ツルせんせ―ってば―!」
声は右から聞こえてきた。そちらの方に向くと、そこには小さな女の子がいた。肩まで伸びたロング・ヘア―で、白いワンピ―スを着ている。……あぁ、そうだ、この子は……雨享癒ちゃんだ……。
「……ごめんなさい、少し……寝てたみたいだねぇ……」
やっと、今の状況を理解する。今私は、〝美山のベンチ〟に座っている。
ここからは橋のこちら側の美山市を象徴する光景を一望することができる。広い田んぼ、合掌造りの木造建物、そして、小学校。それらが、地平線の彼方まで、とまではさすがに言えないものの、遠くまで見渡すことができる。一番この美山の橋のこちら側が奇麗に見える場所に、私が我儘を言ってベンチを置いたのだ。
ベンチひとつ置くだけでも、それなりに大変だった。あちらこちらの農家を周り、お願いをした。難航するかと思われたベンチ設置交渉ではあるが、相手方もこちらが「夢原塾の夢原さん」であることは知ってくれていたので、快諾をもらうことができた。ここからの景色を塾生のみんなに見てもらいたい。そういった考えもあったが、一番はやはり、〝私がこの美山市の景色を見ていたかったから〟だった。
あの大型ショッピング・センターがなければ…………。
ときどき、そう思うことがある。あのショッピング・センターがあちら側、橋の向こうの美山市に建つことが決まってから、色々とおかしくなったような気がする。そんな気持ちがあると同時に、それは馬鹿げた責任転嫁であることも心のどこかで知っていた。ここにショッピング・センターが建つのは、必然であったのだ。商店街を守ろうといつまでも固執していた私の父は、失敗したのだ。本当に美山の人々がショッピング・センターを求めてなどいなかったなら、ショッピング・センターは経営不振で倒産していなければならない。しかし実際は、倒産などしなかった。代わりに、美山代々続いた商店街が、シャッター商店街と化した。つまり人々は、ショッピング・センターを求めたのだ。
たしかに、ショッピング・センターができてから私の人生は少しばかりおかしくなったのかもしれない。しかし、それでも、すべてをショッピング・センターのせいにするのはお門違いもいいところなのだ。今、この美山市に住む人々は多分、あのショッピング・センターに行けばなんでも揃う便利な場所だと考えているのだろう。商店街に行けばなんでも揃うと思っていた、昔の私のように。
つまりは、そういうことなのだ。歴史というものは、どこかどこかで似たような箇所がある。ショッピング・センターはショッピング・センターなりの役割を果たしている。人々の需要を満たさなくなった商店街は、その役割から降ろされただけなのだ。
今では、橋のこちら側にまでショッピング・センターのシャトルバスというものが来ているし、配達サ―ビスまで行っている。今はまだ実施されていないが、近々、インタ―ネットで商品を注文をすれば配達してくれるサ―ビスも行われる予定らしい。さらに昔どこかで行われていた『御用聞き』なるサ―ビスも検討中だとかなんとか。それは、今までの美山の商店街の力だけでは到底なしえないことでもあった。『御用聞き』はそれなりに行われていたかもしれないが、それは商売ではなく、どちらかと言うと、親切心から出るものだった。だがそれを商売にすることにより、安定した供給を可能としたのだ。
時代は、移り変わる。夢原癒津留はそのことを今さらながら思い知らされた。
その『御用聞き』のサ―ビスをヒントにして、癒津留もある日、自分がすべきことを思いついた。美山市の通称『橋のこちら側』の子供たちを集めて、勉強を教えようというものだった。もちろん、務めていた塾でも子供たちに勉強を教えてはいたが、子供たちは『橋のあちら側』に住んでいる子が多かった。『橋のこちら側』に住む子は年々減っていった。『橋のこちら側』にある小学校の存続も危ぶまれていた。こちら側で少ない人数を必死に切り盛りするより、あちら側にある小学校と合併したした方がいいのではないかという声が上がっているのは事実だった。また、橋のこちら側に住む子供たちの学力が橋のあちら側に住む子と比べて極端に低いという話を塾内で耳にした。橋のこちら側に住む人たちの平均年収が低いのか、それとも勉学に対する意識が低いのか……、それはわからない。しかし、その話を聞いたとき、私の中の何かが目覚めたのを感じた。そうだ、これだと。これこそが、私がやるべきことなのではないかという思いが生まれたような気がしたのだ。
次の休みの日には自分がこの村でやりたいことを考えた。そうだ、休みの日に、独自で塾のようなものを開いてみよう、と。塾なんて大仰しいものでなくてもいい。ただ、ちょっとしたお遊びのようなものでも構わない。決して子供の人口が多くない橋のこちら側の美山市ではあった。そして実際に、準備を終え、チラシによる宣伝も終え、塾のようなものとして始まったときも、集まった子供の数はたったの3人だった。橋のこちら側にある美山市のいつ使っているんだかさっぱりわからないような公民館の一室を借り、算数の授業を行った。集まった子供たちは下は小学2年生から上は小学6年生とバラバラだった。男の子が1人と、女の子が2人だった。それぞれ、学校の授業でわからない部分はありますか? と聞いて、ところどころ指導をした。普段の学校の1コアマは45分。それに対し、こちらの塾もどきの授業はひと区切りを30分弱ほどにして、休憩の間はジュ―スやお菓子を振る舞った。そして、テレビ番組の話や、ハマっている漫画の話などをした。最初は話についていくことができなかった私ではあるが、積極的に勉強し、話についていけるようにした。時には、漫画の展開の議論などもしたりした。最近の少女漫画はえらいことになってるな、と驚かされたものだ。
算数の授業からはじまり、国語、体育に加え、書道などもはじめたりした。日が経つにつれて人数が集まるようになったので、サッカ―やら野球やらができるようにもなった。休みの日に小学校のグラウンドを借りたりすることもあった。近くの公立小学校に、同じ大学、同じ学部に通った友人がいたのだ。実際には講義で顔を合わせただけの友人だったような気もしたが、教師という立場になっている以上、それはどうでもいいことだったのかもしれない。
あらゆることをしている内に、私と生徒たちの間で信頼関係のようなものが芽生えたのだろうか。勉強上においての質問が増えてきた。今までは、分からないことを教えるだけという方式が一般的になっていたが、それ以外の質問だった。積極的に生徒が学習しようという立派な意識の向上だった。
「先生、なぜ水は凍ると固まって氷になるのですか」「算数を学ぶ意味がわかりません」「国語を勉強して一体なんになるんですか」「日本の歴史って何でわかるんですか、誰が習う内容を決めているんですか」
なかには即答できないものもあったが、できるだけ誠意を込めて答えた。9割は答えることができたと思う。しかし、言葉に詰まってしまう質問もなかにはあった。
「ショッピング・センターができたということは、良いことなのですか? それとも、悪いことなのですか?」
「先生、罪って、なんですか?」
人数が増えるにつれ、何を考えてるんだかさっぱりわからない子が入ってきた。IQを測れば250はあるんじゃないかと思うほどだ。それほどに、その子の実年齢と精神年齢はかけ離れているような気がした。そういった子がいれば、運動が妙にできる子も入って来た。というか美山市では、運動ができる子が多かった。もちろん、全員が全員できるわけではないが、そういった子が割合多かった。
そうした子を引きいれて行く内に、考えることが多くなった。自分でも答えを考え、子供たちと議論をするようになった。中には議論が嫌いな子もいたが、議論が好きな子もいた。そういった中で、互いが互いに、少しずつ前に歩き出している実感を癒津留は得ていた……。
そして今日は、散歩の日だった。橋よりこちら側の美山市に唯一ある小学校で、今日運動会が開催されていた。だから、今日は塾は休みになるかなと思っていたら、ひとりの女の子が塾をいつもはじめる午後1時にやってきたのだ。はて、こんな子が塾にいたかしら。最近、やはり歳のせいなのだろうか、記憶に自信が持てなくなってしまった。もしかしたら、橋の向こう側の子かもしれない。そう思った。塾を開いて数年経った後から、徐々に橋の向こう側からわざわざやってくる生徒も増えた。来たり来なかったりする子も増えた。この子もその内のひとりかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんにせよ、常連の子ではないことはたしかだろう。それにはさすがに自信を持てた。
「お嬢さん、ごめんなさいね。お名前、漢字でどう書くんだっけ? オーバーさん、物忘れが激しくなっちゃって……」
「そ、そうですよね。私の漢字、覚えにくいって他の人からもよく言われます」
癒津留が紙と鉛筆を渡すと、小学校4年生ほどの女の子は机の上に名前を書き始めた。紙の上には『雨享癒』と書かれている。癒津留は目を丸くした。長い間教師をやっているが、こんな名前は見たことがない。そして誠に残念ながら、名前が読めそうにない。
「はい、これです。名字は佐藤で、名前はこれ、『うじゅえ』。さとう うじゅえです」
うじゅえ。何かアフリカの森林奥の部族が祭っている偶像の名前を連想させるそれは、癒津留を混乱させた。癒津留という名前もそれなりに珍しいとは思っていたが、さすがうじゅえには勝てない。ていうかそんな珍しい名前の名字が『佐藤』って。上には上がいるもんだなと思わされた。しかし、当然そんなことをおくびにも出さずに癒津留は、
「ありがとう、雨享癒ちゃん。じゃあ、どうしましょう、うじゅえちゃんって呼んでもいいかしら。それとも他に、こう呼んでほしいって呼び方はあるかしら?」
と聞いた。このやり取りをすれば、癒津留はまず間違いなく生徒のことは忘れない。この子のことを覚えていないということはおそらく、この子と私が会ったのが多分、小学校のグラウンドで体育的なことをやっていたときだろう。そういうときは、こういう交流はしないからだ。
「はい、『うじゅえ』で構いません」
ニッコリと笑顔を添えてそう言ってくれた。
「ありがとう、うじゅえちゃん。じゃ、よろしくね。えっと、うじゅえちゃんは橋の向こうに住んでいるのかしら? それとも、橋のこちら側?」
「えっと、はい、橋を渡らない、こっち側に住んでいます」
はきはきとそう答えた。
「今日は運動会があったと思うんだけど…………うじゅえちゃんは参加しないの?」
ひとめもりほど下げた声でそう尋ねた。
「…………はい、えっと、あるんですが、……行きたくないんです」
ふためもりほど下がった声で雨享癒はそう答えた。答えたくないようにも見える。
「いいのよ、そんな顔を下げなくても。でも、私の塾には来てくれたんだ」
明るくム―ドを盛り上げるように癒津留は言った。学校に行きたくない子でも、外には出れる。別に悪いことではない。
「は、はい! 夢原先生の活動は……面白いから! 勉強も……学校より丁寧に教えてくれるから……」
これもまた二級品の笑顔で答えてくれた。癒津留としてはこれ以上ないほどの、最上級の褒め言葉だった。
「うん、ありがとう。それじゃあ、そうね。あともう少し待ってみるけど、今日は多分雨享癒ちゃん以外の子は来ないかもしれないから、雨享癒ちゃんと先生、一対一で何かしましょうか」
「何をするんですか?」
目をアンドロメダ銀河の見かけの等級3.4等星ほどの輝きをさせながら、ルンルン気分でこちらに尋ねてきた。その眼には、希望があった。
「そうねぇ…………」人さし指で顎をいじりながらしばらく考える。そして、言う。
「じゃあ今日はお外に探検に行きましょうか。お外に行って、『秋』を見つける。どう?」
「えっと、えっと、よくわかんない……。先生、『秋』ってなあに?」
必死に考えに考え抜いて、それでもわからない。そんな声色だった。それに対し、笑顔で私は返事をする。
「それがなんなのかも、考えてみましょう。別にこれは学校のお勉強じゃないから、自分で答えを作ってもいいのよ」
「答えを、作る…………?」
眼をパチクリさせて私の方を見つめてくる。まだ知らない言葉を、知らない概念を聞いた時の顔だ。歳老いれば老いるほど、その顔とは縁がなくなる。その顔とも、その感覚とも。
「そう。世の中にはね、答えがないものだって存在するのよ。もちろん、そちらの方が大事だ、とかそういった話じゃない。そして今、私が言った『秋』を見つけてと言った、その『秋』には、正解がないの。だから自分で、『お、こいつぁ、秋だな』って思うものを見つければいいのよ。正解はどこにもない。あるとしたらそれは、あなた自身」
少々長くなってしまったか、と後悔する。もう少し短く説明することもできた。こんなところで、自分の老いを感じた。
「んー、んー、よくわからないけど、何でもいいってこと?」
「そうね。できれば秋っぽいものがいいけど、別に何でもいいわよ。散歩してる最中に見つけた、何か面白いものでもいいわ」
当たり障りのない回答をした。これでいい。
「そうね。じゃあ、お散歩に行きましょうか。何か1つ、見つけることを目標に」
「は―い! わかりました、せんせい!」
そして、橋のこちら側の美山市の田園風景を、山を歩きながら、30分ほど過ごした。9月で、残暑がひどいこここの頃とは言え、今日の気温はわりかし過ごしやすいと言えた。そんな移動をしている中で、癒津留と生徒一名はベンチに到着した。ほんの少しばかり大きめの丘があり、その丘から美山の田園風景が望める場所にベンチがぽつんと置いてあるのだ。そこまで歩き、癒津留と生徒一名はそのベンチに座った。
「先生、私ね、このベンチが好きなの。この村の全部が見える。でねっ、でねっ! 風が当たるのが、すごいね、気持ちいいの!」
「雨享癒ちゃんは、この村が好きなの?」
「はい! とても……とても好きです!」
「どういうところが好きなのかしら?」
「う―ん……、う―ん……、よくわからないけど、この景色が好きです。あれ、先生と同じだな……。えっと、えっと、私は、ここから見る夕焼けがとても好きなんです!」
ここから見る夕焼けが好き。それは、紛れもなく自分と同じだった。私、夢原癒津留も、ここから見る夕焼けが、何より好きなものだった。
「じゃあ、ショッピング・センターは好き?」
聞いてから、あれ、自分はどうしてこんなことを聞いてるのだろう? と思った。それぐらいおかしな質問だった。私はこの質問をこの子にして、一体どんな回答を求めているのだろう?
「ショッピング・センターというのは、えっと、橋の向こうにある美山ショッピング・センターのことですか?」
「えぇ、そうよ」ここまで来たら今さら撤回はできない。相手の答えを待つ。
「好きです! 美山ショッピング・センターにもいろいろなものがあって、いつも行くのが楽しみです! あそこには、なんでもあります!」
「じゃあ、ショッピング・センターがもし潰れちゃったら、大変困ったことになるわね」
いつもだったら絶対に言わない、こんな一言を呟いていた。
しかし雨享癒はまったく怯まず、即答でこう返した。
「いえ! 困りません! また遠くまで行けばいいだけです! 遠くまで行けば、何でも揃ってるショッピング・センターはありますから!」
この言葉を聞いたとき、私は驚いた。
そして同時に、なぜ驚いたのだろうという感情が生まれた。
驚きという感情と、それに対抗するなぜ? という感情。
ふたつの不思議な想いが、胸の中をぐるぐる、ぐるぐると回った。
「雨享癒ちゃん、申し訳ないんだけど、一人でもう一回、秋を探しに行ってもらえないかしら?」
癒津留は平然を装い、雨享癒にそう言った。
「えっと、んっと、わかりました。でも、なんで先生は来ないんですか?」
「……先生、ちょっと疲れちゃって。ここで少し、お休みしたいの。もし秋が見つかったら、また次回、見せてちょうだい。いいかしら?」
次回なんてものがもしあるならば、という言葉は口にしなかった。
「わかりました! じゃあ、ここでお別れってことになりますね。先生、さようなら!」
と言うと雨享癒はベンチから立ちあがり、こちらにブンブン手を回しながら遠くへと行ってしまった。癒津留にはそれが、夕焼けが投げかける黄金の影の中に雨享癒が消えて行くように見えた。そして実際に、消えたのだ。癒津留にもう雨享癒の姿は見えない。
消え行く姿を見て一息ついた癒津留は眼を閉じた。
私はなぜ驚いたのだろう。
しばらく考えて、その答えを私は見出した。
――ここが私の、人生の終着点であることに気付いたからだった。
――私はあの子を見るために、今まで生きてきたのだ。
それと同時に、彼女の頭にはあらゆる情報が一気に雪崩れこんできた。春を迎える直前の雪山が雪が崩れてくるが如く、言葉の通りまさに雪崩だった。
私は、坂下千智君という男が好きだった。
彼とは結局、付き合うことはできなかったけれど、隣にいることはできた。
ウィッチ・ハントというゲームだった。携帯電話に、謎のゲーム参加の招待メール。魔女になったものには、願いを叶えるという文言が書かれていたはずだ。私はそのとき、どう思ったんだっけ……。
彼女の記憶は、32年前のあの日へと戻る。空白のはじまりへと、舞い戻る。
夢原癒津留の家は美山市のいわゆる橋のこちら側にあった。2階建ての木造アパ―トの2階。そこで彼女はメールを受け取った。件名には、『Witch Hunt ――魔女狩り戦争への招待状』と書かれていた。もちろん、いきなりこんなメールを送られて信じる奴なんてまずいない。例え文中に『勝者は、心から望んでいる願いをひとつ、叶えることができます』というものが書かれていようものが、だ。その一言がいかに甘美に聞こえようとも、前提がメチャクチャであるならばそれは当然無意味だ。
当時の彼女はそんなメールを気にもしなかったし、心にも留めなかった。だが、彼女はそのメールを端から端まで全部読んでしまった。彼女の携帯電話には今まで悪戯メールなんて届いたことがなかったし、同姓の友達からのちょっとした悪戯メールなのかと思ったからだ。しかし、翌日思い当たりそうな友達何人かに聞いても、誰もが知らないと答えた。
メールが送られてから3日後の昼休み。
いつもは隅っこの方でひとりでボソボソ弁当を食べる千智がなぜか手ぶらで教室から出て行くのを癒津留は目の端で捕えた。彼は今までそんな行動を一度たりともとったことがあるだろうか? いや、ない。私だから知っている。彼は、いつだって教室の隅っこの席で、まるでいないかのように一人でご飯を食べていた。それが今日は、なぜ手ぶらで?
千智君の行動はいつも観察していた私にとって、とても奇怪なものに思えた。彼とは中学時代から共に過ごし、見てきた。話もしたことがある。彼はいつも事務的に答えた。それがひどく冷たく感じることもあった。しかし、高校に入るとそれがまったく別の態度に急変した。彼の態度に人間味が出てきた、と言えばいいのだろうか。高校1年生になってまた彼と同じクラスになって数ヶ月経ったある日、彼に突然謝られたのだ。「中学のとき、冷たい態度をとってすみませんでした。これからもどうぞよろしくお願いします」と。それに対し、私はなんて答えたんだっけ……。あ、そうだ、「いえいえ、こちらこそお願いします」と、笑いながら答えたんだった……。
しかし、そののほほんとした人間味溢れる関係も高校2年の9月に壊れることになる。
昼休み中、彼が携帯電話を見ながらご飯を食べているのを見て、おふざけ半分、注意半分のつもりでこっそりと彼の背後に周ったのだ。「ご飯中に携帯電話を見るなんて、行儀が悪いですよ―」と言おうとしたのだ。自分をアピールするためという下心も少しはあった。
彼の背後にまわり、肩に手をかけようとしたとき、私の気配に気付いたのか、彼は思いっきりこちらを振り向いた。顔面は蒼白だった。
「何、してるんだ」彼の声は震えていた。
「え、えっと…………」すぐに本来の目的を言えばなんとでもなかっただろうに、この時の私は言葉を詰まらせてしまったのだ。悪戯が見つかってしまった幼児のように。
「あっちへ行け。人の携帯を勝手に見るんじゃない!」
怒鳴りはしなかったものの、その声には敵意と凄みがバッチリ込められていた。
「ご、ごめん…………」
そう言って、トボトボ自分の席に戻ることしかできなかった。
この時の彼女も、32年経った彼女も当然、彼がこのとき見ていたメールの内容を知らないし、知ることができない。このとき、彼は富樫弁護士からのメールを読んでいた。富樫は妹坂下光の検査診断を千智の代わりに聞きに行っていた。この日の午前中に、結果はわかると病院から連絡されていたからだった。常識で考えるならば、兄の千智が直接医師に確認しに行くべき場面であるかもしれないが、千智には今日学校があり、医師に確認をとるだけなら他の誰かを代わりにいかせるだけでも構わないだろうと考えていた。というか、直接結果を聞きたくなかったのかもしれない。だからこそ、委任状を富樫弁護士に持たせ、富樫を病院に行かせたのだ。その結果のメールを千智は見ていたのだ。つまり、「検査結果。坂下光に胃癌の疑い有」というメールを受け取っていたのだ。
そんなことが3ヵ月前にあったものだから、正直躊躇われた。
「行ってきなよ、ユヅ」
「え?」声をかけたのは友達の梨恵だった。声はいくぶん弾んでいた。
「なんか彼、相当深刻そうな顔してたよ。もしかしたら、何か事情があって誰かに助けを求めてるのかもしれないよ。こういうときに体当たりしないでいつ体当たりするの!」
心の底からそう思っているのか、それとも心のどこかで貶しているのか。どうせ後者だろう、とは思いながらもその言葉に背中を押されたこともまた事実だった。多分梨恵は、私が千智君のことをずっと見てるってことは知っていたのだろう。
教室から出て、左右を確認する。この学校の廊下は広い。右方向に千智君がいるのが見えた。それを目視で確認し、すぐに姿を追う。彼はどうやら、屋上に向かっているようだった。
公立F高校の屋上は立ち入り禁止のはずだ。だから、今、屋上には誰もいない。しかし、扉のガラス越しから屋上を見ると、手すり持たれながら携帯電話のメールを見ている千智の姿があった。
――どうしよう。
癒津留の心は揺れた。ここで、扉を開けようか。彼と話しがしたい。仲直りがどうしてもしたいという気持ちがあった。しかしそれと同時に、3ヵ月前、千智から睨まれたあの日のことを鮮明に思い出すことができるのもまたたしかだった。どうする? どうしよう? ふたつの思いガグルングルンと頭の中にまわるまわる。
そして、頭の中でグルグル回っていたふたつの思いは、ある位置で軟着陸を見せる。
体を低くして、こっそり扉を開けようという結論に。そして、千智が声荒げたりしたら、ダッシュで教室に戻ろう。いかにも日本人らしい結論に至った。
●―ここから Dec. 20th (Thu)12月20日(木)
美山市胡央村公立F高校屋上 PM12:35 ―123:55:00
扉を開ける。キィィィィイィイィッィと、情け容赦なく音が鳴り響く。扉の陰から素早く千智のことを見る。これだけの音を響かせてしまったのだ。さすがに気付かれてしまったか、と思ったが、幸運にも千智は彼女の姿に気付かなかったようだ。一心不乱に、やはり携帯電話の画面を覗いている。
携帯電話を見ている千智の後ろに近づくというのは正直嫌だった。3ヵ月前の思い出が頭にあるから、当然と言えば当然だ。しかし、だからと言って、扉から大声で「せんちく―ん! どうしたの―!?」と叫ぶのは、それはそれで嫌だ。一階下の教室の窓が開いていて、私の声が丸聞こえだったりしたら最悪だ。最悪すぎる。
だからやはり背後からこっそりと近づいて行くしかない。携帯電話が見れないような場所、つまりは、横から肩を叩いたらいいのかもしれない。そもそも、前回も別に千智君の携帯電話を覗いたわけでも、中身が見えたわけでもないのにな、と内心文句を言いながらこっそりと近づく。
そして、なぜだろうか。なるべく見ないようにと、心に決めているそういうときに限って目に入ってきてしまう。私は、千智君の携帯を、今彼が何を見ているのかを、知ってしまった……。
そのメールの件名は、『Witch Hunt ――魔女狩り戦争への招待状』だった……。
「そのメール、何?」
声をかけようかかけまいか、理性が判断する前に、すでに癒津留の口からは言葉が出てしまっていた。
◆
それからは、言葉では表しにくい、充実した日々だった。命を賭けた戦いにおいて、そういう表現はもしかしたら不謹慎にあたるものなのかもしれないが、本当に充実していたのだから仕方ない。彼のことを調べた。彼の妹と話をすることもできた。そして、最期には、彼に殺された。
そういえば私はなぜ彼に殺されたのだろう? そして殺されたのであれば、なぜ私は今ここで生きているのだろう? ……もしかしたら、私は彼に救われたのかもしれない。だったらなぜ殺したのか、ということに対して説明ができない。しかし彼は私を殺したくなかった。なぜなら、私は見たからだ。殺される最期、私が事切れる一瞬、私の眼の端に、彼が涙を流している姿が、あったから……。
止むに止まれず私を殺した。何かしらの理由があったのだろうと思う。だからこそ、私はこうして蘇生させてくれた……。私は多分、彼に愛されなかった。でも、それでも後悔はしていなかった。私は彼から、命を貰えたのだ、というたしかな実感があったからだ。私は彼から命を貰い、その命を粗末にすることなく、この土地の未来のために使うことができた。私の人生は、素晴らしかった……。今まで、何かを置いてきたものがあるとずっと思っていた。これだ。これなんだ。
私はようやく、許されたという実感を得ることができました。
そこには何があったのでしょか。彼から命を与えられたという満足感でしょうか。
それとも、今までずっと抱え込んできた、美山市への思いでしょうか。
決して忘れてはいけない何かを思い出すことのできた、安心感かもしれません。
なぜ、今になって、こんなことを思い出せたのか。それはわかりません。
でも、今の私は知っている。この世には魔法が存在するということを。
だからこれはもしかしたら、魔法の効果が切れたということなのかもしれません。
そう思うと、何もかもが納得できました。
あぁ…………。空はあんなにも、輝いている……。
黄金の矢を美山市に放つあの光は、今の私にとっては、永遠のもの。
そうか、私はもう、死ぬんだ……。
もし私が死んだら、私は、どこに行くのだろう?
そこでもこの美山に輝く、沈まぬ太陽の光を受けて、千智君は笑ってくれているのだろうか?
そこにはきっと、魔法はない。美山市もないし、商店街も、ショッピング・センターもないのかもしれない。父の機嫌は、もう直っているだろうか……?
そして私は……? 大丈夫、もう私は、救われた。雨享癒ちゃんのあの一言、「遠くまで行けば、何でも揃ってるショッピング・センターはある」の一言を聞いて、私は何かに気付いた。
そうだ、私は今の今まで、一体何を勘違いしていたのだろう。遠くまで行けば、いつかどこかにはあるんだ。当たり前じゃないか。遠くへ行けば。ここではない、どこかへ行けば。
私は救われ、空白の穴を埋めてくれる記憶を取り戻すことができた。そして私は、罪の許しを感じた。私は充分に、この世界で生きた。雨享癒ちゃんを見て、それをはっきりと確信することができた。
そこに広がるのは、黄金の世界。実際に純金の延べ棒がそこら辺に転がっているわけではない。ただ、西日が窓から射していて、その光があらゆる方向に反射して、それが黄金のように見えるだけだった。ネタを明かしていしまえば、なんだそんなことと思えるそれが、今の私にはとても貴重なもののように思えた。その目が潰れんばかりの黄金の光にも少しは慣れ、事物をよく確かめてみると、そこが一体どこであるのかがわかった。そこは、学校だった。今からもう何十年前だろうか、私が通っていた高校。もっと言えば、私と千智君が通っていた、あの学校だ。多分、おそらく、きっと、私が人生の中で一番輝いていた時の、その場所……。
少し考えてあることに気付いた。そうだ、これは夢だ。夢というのはいささか間違っているかもしれない。これは、幻だ。そう思った。西から陽の光が入るような場所に、学校は立たない。それは、私たちの世界の、法則。つまりここは、私たちの世界ではないと、そういうことを表している。私は廊下に立っていた。廊下から教室の中を見ていた。教室へ入るための扉はすでに開いている。右、左を見る。右にも左にも、何もない。誰かがペンキをひっくり返してしまったかのように、白く塗り潰されている。きっと、右にも左にも行ってはいけないのだ。そう思った。誰から指示を与えられたわけでも、教唆されたわけでもない。私自身がただ、なんとなくそう思っただけだ。前に進もう。そう思い、一歩、前へ歩を進めた。
教室の中に入り、扉を開けたままにしようか閉めてしまおうかと悩んだ末、閉めることにした。特に深い意味はなかった。その方が自然なような気がしたからだ。
扉を閉めた直後、扉を開けていたときには見えなかった、教室の奥、教室の窓際を見ることができた。扉を開けていたときには夕陽のせいでうまく見ることのできなかった場所だ。その場所に今、誰かが座っているのが見えた。なぜ先ほどまで気付かなかったのだろうと、自分に対して疑問に思ったが、今はその疑問を無理矢理自分の中に引っ込めた。ここは、いつも私がいる場所ではないのだから、と。この世界は、そういうルールで動いているんだと、自らをそう納得させた。
中に入ると床が少しだけギシッと音を立てた。そうだ、この高校は、床を踏むとこういう音を奏でた。黒板や、棚、色んなものが気になりはしたが、今自分が一番気になっているものは窓際の机に座っている人物のことだった。その人物は席に座りながら頬を腕につきながら窓の外を眺めている。だから、こちらからその人物の顔を見ることができない。私がこの教室に入り、教室の扉を閉めたことには気付かないのだろかと思ったが、やはりその疑問も無理矢理自分の中に引っ込めることにした。〝ここは、そういう世界なのだから仕方がない〟のだ。
一歩、二歩と自分の歩みを進める。窓際に座っている人物との距離も近付く。もう、自分には、〝癒津留〟には、その人物が一体誰であるのか、よくわかっていた。
「あの、もし…………」と癒津留はその人物に声をかけた。そのとき、初めて気付いた。自分の声が、若返っていることに。
その声にやっと、癒津留の存在に気付いたのか、窓際で座っている人物がゆっくりと癒津留の方を向いた。その顔はやはり、癒津留のよく知る人物だった。
「おかえり、癒津留」
笑顔で、坂下千智は夢原癒津留にそう言った。
「まずは、座るといい」
と千智が言ったので癒津留は千智の席の近くにある椅子に座った。そのとき偶然、自分の右手を見た。皺がよっている老人の手は、そこにはなかった。
「おかえり、そして…………ありがとう……」
癒津留が席に座り、そして、千智と向き合った時、千智がそう言った。その言葉だけで癒津留の目には涙が溜まった。今までの苦しさをすべて労ってくれる、真の慈しみの言葉がそこにはあった。救いの福音を今、彼女は聞いたのだ。
「そんなこと……ないよ……、私の方こそ……本当に……ありがとう…………」
具体的に何に対して感謝の言葉を述べているのか、癒津留本人にはさっぱりわからなかったが、万感の思いがそこにはたしかに籠められていた。
そして癒津留は、すべてを語った。ウィッチ・ハント前後の思い出を、今まで、自分が辿ってきた人生のすべてを、記憶がなくなっていたときのことを。いかに苦しく、無味乾燥で、それでも生きる意味を見出し、それに向かって邁進したかを話した。ときにえずいてしまったが、それでも彼は黙って話を聞いてくれた。うん、うんと頷き、たしかに話を聞いてくれていた。そして、いつしか、話すことは一切合切なくなってしまった……。
「…………お別れの時間だね」と、千智は言った。
「えっ……?」まったく予想していなかった一言に、癒津留は聞き返してしまう。
「残念だけど、もう一度僕たちは離れ離れにならなくちゃいけない。だけど、またすぐ会える」
「なんで!?」癒津留はすぐさま聞き返した。
「ねぇ、もう一緒にいようよ、もう、私たちの〝世界〟は終わったんだよ!?」
ヒステリックとまでは言わないまでも、癒津留のそれはもはや一歩手前のソレだった。しかし千智はそれでも冷静に言葉を続けた。
「そう、もう、終わった。でも、あともう一度だけ、僕たちは離れ離れにならなくちゃいけないんだ」
癒津留には千智の言っていることが理解できなかった。しかし、この空間に永遠に一緒にいることはできないということだけは理解できた。癒津留にとってそれは、あまりにも残酷な事実だった。
「君か僕のどちらかは、この教室から出なければならない」
千智は言った。
「君が出て行かないのであれば、僕が出て行くけど、どうする」
「…………」癒津留は言葉に詰まってしまう。しかし、次にはもう回答の言葉が出ていた。
「私が、出て行く。ここから、いや、〝この、世界から〟」
千智はゆっくりと頷く。目は閉じられていた。
「でも、大丈夫だよ、癒津留。もう君には、何の苦しみもなければ、試練もない。苦しみやら試練はもう、終わったんだ。だからその世界で、もう少しだけ僕のことを待っていてほしい」
「千智君は……どこに行くの?」
千智の言葉に明らかな疑問を持った癒津留がそう尋ねた。まるで彼は、聞き間違いかもしれないが、まだ苦しみと試練が猛威を振るう世界にいるみたいな、そういう一言に聞こえたからだ。
「さぁ…………。僕にも、よくわからないよ」
困ったような、複雑な笑顔を癒津留に向けながら、千智はそう言った。本当に、彼にはよくわからないんだ、と、癒津留は確信した。つまりはどういうことだろう? 彼はこれから、〝苦しみと試練が待ち受ける世界〟に飛び込むということか? それはつまり……。
そして、癒津留は右手を差し出した。千智はそれに気付くと、右手を差し出し、握手をした。
「今はこれだけにしておく。私には話がよくわからないけど……頑張って」と、癒津留は言った。
「ごめん」
千智は申し訳なさそうな顔をして、ただそれだけを言った。
癒津留は手を離すと、千智に背を向け、廊下に向かった。あまりこの教室にいると決心が鈍ると思ったからだ。
「ここを出るとき、扉を閉めるのを忘れないでくれ」
背後から千智の声がした。そしてさらに、付けくわえる一言、「大切なことだから」
癒津留は千智の方に振り向かず、廊下の方を向いたまま頷いた。そして扉を開け、廊下に出て、もう一度廊下から教室を見た。そこから立っている千智のことを見た。
「忘れないよ、絶対に」
と言って、癒津留は扉をゆっくりと閉めた。閉じ切った。扉を閉めた直後、その世界を構成する要素がすべて金の粒子となり空気中に溶け、世界は暗闇にゆっくりと覆われた。
私は、何のために今まで生きてきたのだろう?
そんなの、答えるまでもない。
今のために、たった今、この瞬間のためだけに、生きてきたのだ。
ありがとう、千智君。私、生きたよ。どうして生きているのかわからなかったけど、今、このために生きてきた。一生懸命、生きたよ。あなたに殺されちゃったけど、でも、あなたに命を貰うことができた。その命を貰って私は、生きることができた。無駄にせず、使い切った。あなたに愛されることはなかったけれど、あなたは私の傍に、いつもいてくれた……。
私の人生は、こんなにも、〝こんなにも〟素晴らしかった…………!
9月23日午後5時35分 夢原癒津留が美山市内のベンチで亡くなっているのが発見された。老衰で亡くなったもの、と警察関係者からの発表で明らかになった。付近の住民の話によると彼女はこの日、一人で美山市を散歩していたという。
彼女の顔はとても安らかで、まるで、楽しい夢を見て眠っているかのようだったという。
『Let the little children come to me, and do not hinder them, for the kingdom of heaven belongs to such as these』
The Gospel of Matthew Chapter 19 Verse 14
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