■終末

第21章 贖罪の果て ―ここに、何があったのだろう?





■第二十一章 贖罪の果て ―ここに、何があったのだろう?

 

 何か、大事なことを忘れている気がする。

 そんなことを思い始めたのは、いつからだっただろうか。

 自分の人生は一体、なんだったのだろうかと考えることがある。

 結婚もしないで、結局、一度も東京の地をこの目で見ることもなかった。

 私の識っている世界は、この美山市と、せいぜいショッピング・センターぐらいのものだった。

 おそらくは、高校生の頃だった。原因不明の病で入院した、あのときから不思議な想いに捕らわれることが多くなった。




 一度も入院なんてしたことのない私にとって、その入院という出来事は大きいものだった。今まで経験したことのない入院生活。常に二の腕には異物が入っているあの感覚。決して美味しくはない食事。誰かに縛られる生活。

 気付いたら入院していた。天井の白い壁を見つめていた。

 あのときほど混乱したことはないだろうし、もうこれからも混乱することはないだろうというほどに混乱した。混乱はしたが、よく頭は動いていた。ここはおそらく病院で、私は病院のベッドに寝ているのだろうということは理解することができた。




 夢原癒津留という女性は、ほんの少し、論理的に頭を動かせる女性だった。

 そんな夢原でも、混乱してしまう不可思議なことは複数あった。

 ひとつめは入院した直接的な原因が思い出せないことだった。どこをどんなに考えても、思い出す気配すらない。叩いても埃すらでない状態だった。思い出そうとすればするほど、真相は闇の中に消えて行ってしまうのではないという奇妙な感覚すら覚えた。まるで意地の悪い底なし沼にハマってしまったかのようだった。ナ―スコ―ルで看護師を呼んで入院の理由を聞きだそうとしたこともあった。しかし、看護師の説明はいまひとつ癒津留の心の中に届かなかった。どう表現するのが適切なのかわからないが、あえて言うなれば、ピントがズレていた。

「癒津留さんは美山ショッピング・センター近くの裏通りの道沿いで倒れていたそうです。それを誰かが発見して、救急隊に連絡してくれたらしいですね」

 その一言はますます癒津留を混乱させた。美山ショッピング・センターに行った覚えはない。父の一件があって以来、近くに行こうとすら思ったことはない。なのにどうして、そんなところに自分が倒れていたのだろう?




 では、その救急隊に連絡してくれた善意の第三者の名前を教えてくださいと癒津留は看護師に尋ねた。しかし、返事は「わからない」の一言のみだった。「救急隊はその人に会っていないそうなんです。どうも連絡した直後に現場を離れてしまったそうなんです」


 退院した後に、その「救急隊に連絡してくれた善意の第三者」に想いを馳せることが多くなった。もしかしたら、その人が私の中に巣食う「想い」について何か知っているのではないだろうかと、何の根拠もない突飛な考えに浸る時間が増えた。




 時間の合間合間を見つけては、美山ショッピング・センターの周辺に行って、聞き込み調査紛いなことをした。意外と私が倒れていたことを知っている人は多かった。「あらぁ、あのときに倒れた子ってあなたなのねぇ? 救急車がきてちょっとした騒ぎになってたわよぉ?」と、毒にも薬にもならないどうでもいい小学生並の感想を聞かされはしたが、救急隊に連絡してくれた善意の第三者の人物については何も知らなかった。その人に限らず誰もが知らなかったのだ。10人ほどに聞き込みしたあとにそれを悟った。おそらくは、誰も知らないのだと。10人が10人共、救急車がこの辺に来てちょっとした騒動だったという旨を話した。おそらくこのあと100人に尋ねても同じことを聞かされるだろう。そりゃそうだ。もしその前の、私が倒れている様子を見た人がいるならば、その人が最初の通報者とならねばおかしいからだ。もちろん、厄介事に巻き込まれたくないと思って通報しないという人も中にはいるかもしれない。しかし「いやぁ、あの時は妙なことに巻き込まれたくなくて、あなたが倒れていたのを見かけても放置していたんですよ」なんて人がいるなら、もしそんな人が存在するのだとしたら、今私にそのことを話して聞かせないだろう。つまり、今回のこの聞き込み調査まがいの行動は、かなり分が悪い行動、というわけだ。あまりこの行動に結果を求めない方がいいのかもしれない。そう思い、後日、適当な電柱を見つけて『●月●日 ここで倒れていた者です。私を見つけ、救急隊に連絡してくれた人を探しております。お心当たりのある方は、ご連絡ください』というメッセ―ジを適当にインタ―ネット上で適当に作ったメールアドレスを添えて貼り付けた。当然ながら、その貼り紙も効果はなかった。1年ほど過ぎたあたりから紙はもうボロボロになっていた。雨や風に曝されたからだろう。貼り直しもしなかった。するだけ無駄だと思ったからだ。

 それと同時並行に、学生生活は続く。高校は退院後、退院前と比べていくぶん休みがちになった。そのお陰で国立大学への推薦はいつの間にかすっ飛んでしまった。しかし、成績が優秀であることには変わりはなかった。勉強自体も特に嫌いではなかったし、受験勉強も特別苦ではなかった。ただただ、なんとなく学校には行きたくなくなってしまったのだ。結局、夢原癒津留は修学旅行も行かず、淡々と高校を卒業した。思い出なんてなかった。ただ、悩み続けたという灰色の、グリザイユな思い出しかなかった。アンドレア・デル・サルトの『キリストの洗礼』のように。ただただ、ひと昔前のテレビの映像のような古めかしい記憶しかなかった。その記憶に、色は無かったのだ。




 かと言って、大学生になればそういった生活から抜け出せるかと言えばそういうわけもなく、大学生になってからもその灰色の生活は続いた。癒津留は大学生になってから居住地を変えた。引っ越したのだ。引っ越しをして、奨学金を申請し、授業料は免除してもらった。国立大学の教育学部に入学したものの、稼ぎ手の両親は存在しない。授業料免除の申請を行ったらあっさりと通った。バイトもそこそこに、それなりに勉学に励んだ。講義の単位を効率良く得るための友人も作った。大学の文系の学部というのは、如何に友人を作るかで単位の取りやすさが天国にも地獄にもなる。講義とバイトと、その他勉学の時間と。表面だけを見れば、いくらでも充実していそうに見えた。しかし、それでも癒津留の内面は決して満たされてなどいなかった。何かをどこかに失くしてしまった、その思いはやはり拭いきれなかった。そしてその「何か」は、大学という学び舎にはないものだった。

 それは、講義の時間割をどのようにすれば効率良く講義を受けることができるか考えたり、面倒くさい教育関係ボランティアをどうすれば回避できるかと考えていても見つかるものでもなかった。そもそも、探せば見つかるものなのかどうかさえ、わからなかった。自分でそんなものがわかるわけがないし、他の誰かもきっと、知らないだろう。




 大学3年生になった。教育実習があり、本格的に進路を決めなければいけない時期がきた。公立の小学校に行き、教師になるか、適当な進学塾の講師にでもなるか。癒津留には特に苦手な教科はなかった。やろうと思えば何でもできた。しかし、教科とか科目とは別の場所に、癒津留の嫌なところがあった。それは、なんともいえない公立小学校の閉塞性だった。皆が同じ教育を受け、同じことをやらされる。うまく説明できないその近代教育の何かが嫌いだった。

 もちろん、そういった教育が一番合理的で、効率が良いことはよく知っている。日本の教育水準は少し前と比べて下がったとはいえ、今でもかなり高いレベルであることは疑いの余地がない。さすがの癒津留もそれを否定するつもりはさらさらない。そういった実証の部分を否定する気もないし、君が代を歌えと言われたら喜んで歌う。いや、喜ぶかは知らんが。




 結局、公立小学校の先生になることはやめた。周りが教員採用試験の勉強をしている最中、癒津留は美山市にできるだけ近い進学塾の採用情報を見て回った。また、私立の小学校の先生になるという選択肢もないことはなかったが、美山市周辺には私立の小学校は非常に少なかった。進学塾の方がまだ数があった。さらに、特別支援学校の教師になるという選択肢もあった。これは、一般の小学校の教師になるより、なんとなく魅力的に映るものがあった。しかし、特別支援学校の教師になるには小学校教員免許の他に、特別支援学校の教員免許も必要になる。そのためにはまた1、2年間ほど大学に通わねばならない。さらには、また鬱陶しい教育実習もこなさなければならない。特別支援学校の教師には魅力があったが、その面倒くささを払拭してくれるほどの、上回るほどの魅力ではなかった。そもそも、教育実習を嫌がっている自分に、教師なんて向いていないのかもしれない。そう思った。しかしそれでも公立小学校の教師になるつもりはなかった。教諭になるつもりもないし、常勤講師になるつもりもなかった。




 そして、大学4年の春頃に、進学塾の講師の内定を手に入れた。内定、とは言っても一般的なソレとは違い、正社員に決まったというわけではない。バイトの延長線上のようなものだ。決して手厚い待遇ではない。給料も良いわけではないし、保証もない。バイトと比べればいくぶんマシな給料になった、ぐらいの差しかない。バイトとの差は、「小学校教員免許」がある分、多少時給が上がった程度のものだ。しかし、贅沢をしなければやっていけないほどではない。あと、事務員の目がバイト時代より厳しくなくなった点か。生活はジリ貧でもなければ、豪華絢爛というわけでもない。なんとも言えない微妙な位置にあった。よく言えばもしかしたら、丁度いい位置と言えるのかもしれない。




 そしてとくにこれと言った波風も立たずにその翌年、癒津留は大学を卒業した。これと言って何もなかった。大学で安保闘争も無ければ、警官隊に火炎瓶を投げつけるなんてこともなかった。大学構内に引き籠ることもなかった。事態は思ったより緩やかに、和やかに進展した。そもそも、そんなことがあり得たのは過去のことだ。当たり前の上に、当たり前の話ではあるけれど。




 その後、塾の講師として晴れて社会人となった私を待っていたのは、苦難やら受難ではなく、〝教育者〟としての歓びだった。人にものを教えることの素晴らしさだった。本来、人の前で喋ることをあまり得意としていなかった癒津留ではあるが、教壇で生徒の前に立つとその苦手さは嘘のように口が動いた。癒津留ははじめ、中学、高校生の歴史クラスを担当した。本当は小学校教員免許の他に、中学校教員社会の免許もできれば取っておいてもらいたかったらしいのだが、その面は実績を積み重ねることによってクリアされた。癒津留自信も非常に丁寧に、うまくものを教えることができた。それが塾の上司に認められ、他にもうひとつ小学校の算数のクラスを受け持つことになった。それでもうまく調整をすれば週に4日は休むことができた。普通の小学校の教師より多い金銭を手に入れることはできないが、それでも美山市でひとりで暮らすには悪くない金額は手に入った。5年ほどその塾で務めた後、バイトの延長線のような立場から正社員に近い立場を手に入れることができた。厚生年金に加入することができるようになった。段々と他のクラスにヘルプに入るようになったので、休みが平均して週4日から週3日になっていったがそれはあまり憂慮することでもなかった。完全な休みが週に3日になっただけで、時間に換算すれば週4日完全休日のときと大して変わらなかったからだ。




 休みの日は、本を読んだり、授業の案を考えたりして過ごしていた。しかしそれも、3年が経つと別の姿に変わっていった。授業の形態は最初の1、2年で確立されてしまい、あとはそれを繰り返すだけになっていった。つまり、2年後にはもう授業の案を考えなくてもよくなっていたのだ。そしてまた、その授業の案を考えていた時間は空白となり、別のことをしなければならなくなった。〝しなければならくなった〟というほど切羽詰まった状態ではないが、何か明確にするべきことを彼女としては見つけたかった。〝明確にするべきこと〟があれば、安定した生活、安定した生活習慣を手に入れることができると強く信じていたからだ。そして実際に、少しずつ、癒津留の生活は安定を見せ始めた。彼女の人生は、緩やかなものとなり始めてのだった……。

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