第19章 無力宣言、ワレ、ココニ宣告ス―


■第十九章 癌告知 無力宣言、ワレ、ココニ宣告ス―


「それにしても、なんか私はすっかりあなたの秘書のようになってしまいましたなぁ」

 ハゲた頭を今日も綺麗にクリ―ム色に光らせた富樫が軽快な口調でそう言った。



「なんかすみません……。こんな何回も付き合ってもらってしまって」

「なぁに、なに、なに。構いやしませんよ。今、私はなんと暇ですからね。こうして運転手もどきの仕事ができるのが決して嫌なわけじゃあありませんよ。それに、前金としてしっかりとお代は頂いていますからね。文句のつけようがありません」

 富樫と千智は、富樫が運転する車、トヨタのクラウンハイブリッドに乗って夕辺総合病院へと向かっていた。



 元々の理由は、光の腹痛にあった。ずっと前、具体的にどれぐらい前からその症状が出ていたか忘れてしまったが、結構頻繁に光は腹痛に苦しんでいた。かく言う千智も結構な腹痛持ちで、ちょっと嫌なことやイレギュラ―な出来事があるとしょっちゅう腹を壊していたので、腹痛の辛さは身に沁みていた。さらに、ここ半年は両親の突然の逝去、遺産問題について富樫弁護士との打ち合わせなどで忙しかったため、まとまった時間をとることがなかなかできなかったのだ。それで一回富樫に光を病院に連れて行ってもらったところ、胃癌の疑いが有るという診断を受けたのだ。そして、早期の手術を医師から進められ、一も二もなく千智は了承した。そして検査から2日後の今日、富樫にまた車を出してもらい、病院へ向かっている。ちなみに光には胃潰瘍がひどくなっちゃったみたいだから、その手術だ、と言っておいた。光は入院して、病院内で手術に備えていた。




 病院に到着して、千智と富樫の姿は夕辺総合病院の手術供覧室にあった。手術を是非この目で見たいという千智の依頼に富樫が応え、手配してくれたのだ。手術室に入ることもできなくはないですが、と富樫は提案してくれたがそれはさすがに辞退した。

 供覧室からは手術室を見下ろす形になる。手術台に横たわっている光は眠っている。モニタが二台あり、光をアップで真上から映している。中心は光のお腹だった。

「しかし……どうして千智さんは、妹さんの手術を見たいなどと言い出したのですか? あまり良い趣味とは言えませんがねぇ……」

 ニヤニヤ顔で富樫は千智に尋ねた。別に心の底からニヤニヤしているわけではない。これが富樫の基本表情なのだ。



「好きな試合の結果を、スポ―ツニュ―スで知るのは嫌ですから、では回答になりませんかね」

 と言ったっきり、千智は黙ってしまった。富樫はそれを聞いて、やはりニヤニヤ顔で「なるほど」とひとり頷いた。


 しばらくして、青い手術着を来た人たちがずらずらと手術室に入って来た。数は……6人だった。



「どこで得た知識か正確に覚えてませんが、こういう人たちのユニフォ―ムというのは白衣とばかり思ってましたね。なんで青いでしょう」

 千智は富樫に尋ねた。

「さぁ……私にはなんとも……。おそらく、白いご飯を美味しく食べるため、じゃないですかね」

 ……意味がわからなかったので、その発言をスル―し、供覧室のモニタに集中する。



 執刀医と思われる手術着姿のひとりが、何かを手渡される。メスだ、ということが千智にはわかった。

 光の白いお腹にメスが刺さる。決して気分爽快になるような光景ではなかったができるだけ目を逸らさないようにする。腹がぱっくり割れ、皮膚がベロリとなった。そして、普段は決して見ることのできない、皮膚の断面図がモニタに映し出された。紅色に時々白い線が通っている。しばらく肉は食えないだろうな、などと能天気なことを千智が考えている間も手術は進む。



 他の手術医が皮膚を広げ、腹の中の視野、いわゆる手術野が広がるようにする。

 すると、段々と臓器が見えるようになってくる。はてさて、こういう時に一番最初に見える臓器は一体なんだろう? 人間の体についての知識をまったく持ち合わせていない千智は、隣に座っている富樫に尋ねようとした。そのとき。




「あっ…………」

 と、間抜けな声を千智は出してしまった。

 肝臓が、モニタに映された。肝臓は、黒と赤がうまい具合に混ざり合ったかのような色だった。大体は、千智の思った通りの色だった。しかし、千智の思った通りの色ではない色が、その肝臓にはあった。


 パ―ル・ホワイト。いや、卯花色? とりあえず身近な色の名前を挙げるならば、灰色の円がポコッポコッと肝臓のあちらこちらにはあった。肝臓の黒系と、その灰色の円のコントラストは千智に決して良い印象は与えなかった。千智の中に、あるひとつの疑念が生まれつつあった。

 千智は改めて富樫を見遣る。富樫の顔色も、今まで見たことがないほど蒼白になっていた。口は半開きになっている。「なんで…………」と口から言葉が漏れ出たのを千智は聞き逃さなかった。




「富樫さん、あの白いのってもしかして…………」

「癌だ……。癌が、転移している……」

 癌が転移。その言葉に、千智の魂は奈落の底に突き落とされそうになった。しかし、まだ突き落とされてはいない。ここで踏ん張れば、まだ帰ることができるかもしれない。




「し、しかし……まだ死ぬわけではない、でしょう……?」

 『死』という言葉がこれほどまでに近くなったことはなかった。死神はもうすでに、もうすぐ後ろに迫っている。シュ―ベルトが作曲した「魔王」に出てくる悪魔が、子供を連れ去ろうとしている瞬間のように。



「…………残念ながら、それは……厳しいのではないかと……。いや、今は化学療法が進歩していますから、半年、もしかしたらもう少し生きられるかもしれませんが……」

 その力ない富樫の言葉を聞いて、千智は脱力する。きちんと姿勢を保って座り続けることができたのは奇跡だった。そして、改めてここで自分の無力さを思い知った。



 いや、無力ならまだいく分マシだ。無力であれば、どんな努力をしようと無駄だったからだ。しかし、自分は無力ではない。いくらでもこの癌をどうにかすることはできたはずだ。両親の死後、忙しいからと妹の世話から逃げ、一時の甘い安穏さを手に入れ、そこで満足してしまった。これは俺の責任だ……。そう思った。千智はここで、自分の圧倒的愚かさを認識した。何もできない自分に対し、これ以上ないほどに軽蔑したのだった。

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