第17章 (下) 富樫弁護士と接触、そして、仕掛け


『記憶操作開始時間は、12月20日 午後12:35から

 記憶操作終了時間は、12月25日 午後5:05

 消去、及び改竄する記憶は以下の通りである。



・妹坂下光は、末期癌ではなく、ただの悪性の風邪である。

 妹坂下光は病弱で、悪性の肺炎であるという表の設定があり、実は悪性内臓炎症性疾患(適当に名付けた名前だが、この病気は存在して死にはしないものの、それなりに重い病気であるという裏設定がある)であるがそれを私(坂下千智)は周りに黙っている、という設定があると坂下千智に思いこませる。



・ウィッチ・ハント関係の行動はすべて忘れる。



・弁護士富樫賢哉は、以前助けてくれて以来、一切会っていない。以上。』





 手石による読み上げが終わった。手石はメモに書かれた意味を考えず、字面だけを見て、淡々と読み上げた。

「……以上、です。えっと、ウェルメさん、できますか?」手石が魔道士に尋ねた。

「えぇ、そこまで細かく指定されると、やりやすいですな。問題はありませんぞ。では、魔法に対するデメリットを説明させていただきましょう」

 デメリット、という言葉にその場が凍る。そう、魔法には然るべきデメリットが与えられる。

「この記憶操作期間、12月20日午後12:35 から 12月25日午後5:05の間、手石一真様の記憶も、一緒に操作させていただきます。操作内容は、ランダム」

「ラ、ランダムッ……!?」

 手石のすっとんきょうな声が部屋に響いた。




「いや、いい。行け、手石。それでいい」千智は即答した。

「ッ…………」

 手石は黙りこんでしまう。まさか、記憶操作によるデメリットが、自分自身への記憶操作だとは思わなかったのだ。



「手石、早くしろ。カウントダウンだ。3、2」

 容赦ない響きを伴った千智の声が響く。悩んでいる暇も、選択肢もなかった。ここまでだ、と手石は自らの運命を悟った。

「それで、お願いします!」手石は老人、魔道士ウェルメに向かってそう言った。

「結構。では、確定魔女手石一真に、記憶操作の術を、授けよう」

 そこには、言葉があるだけだった。何かが光るわけでも無ければ、閃光もない。ただただ、言葉があるだけだった。本当にこいつが確定魔女になったのだろうか、という不安が千智の胸を過ったが、そんなことを考えても仕方ないだろう。ウェルメはしばらくして、霧のようになって、緩やかに消えた。




「そうそう、そういえば確定魔女には、ウィッチ・ハント参加者とそれ以外の人間を区別することができるらしい。本当かい?」

 腕を解放され、床に這いつくばっている手石に千智は尋ねた。

「は、はい。その通りです。いや、まだ多分、という領域を出ませんが、おそらく。魔女になる前となった後で、あなたの見え方が変わりました」

「へぇ、どんなふうに?」

「若干赤味がかかったっていうんでしょうか……。ちょっと変な感じに見えます」

「なんだそれ。なんか日常生活に悪影響を及ぼしそうだな」

 笑いながら千智は言った。



「いえ、でも、実際にそんな悪影響は及ぼさないと思いますよ。でも、ウィッチ・ハントの参加者が誰だかはたしかにわかりやす、へい」

 自信があるのだろう、それが声に表れている。

「よし、わかった。ここに双眼鏡がある。双眼鏡のスペックの標準値なんざ知らんが、それなりに良いスペックなもののはずだ。少なくとも、ここから美山大橋から下りてくる人が見えるはずだ」

 宮沢ビル南側の窓から遠くに美山大橋が見える。そこからはたくさんの制服を纏った人々が降りてくる。橋の向こうの美山市こと、胡央村。胡央村に住んでいる人たちは胡央村のことを「橋のこちら側」と言っているらしいが、まぁ、市月町に住んでいる千智にとっては、基本的には胡央村のことを「橋のあちら側」、「橋の向こう側」と呼ぶ。今自分がいる場所はその他文脈によって呼び方は変わるがそれはさておき。



 坂下千智は橋のあちら側こと、胡央村にある公立F高校に通っている。もう少ししたら下校時間だ。部活に勤しむ学生はまだ下校しないが、F高校はあまり部活に熱心ではない。F高校に通う生徒3分の1ほどは帰宅部だ。その3分の1ほどの学生の多くは胡央村に住んでいるわけではない。つまりはこの大橋を通るわけだ。

「もうしばらくしたら、F高校から下校する生徒がどんどん来る。その生徒をお前に監視してもらいたいんだ。その双眼鏡を使って、ね」




 坂下千智はこのゲームの人員分布を考えていた。定点Aを中心とした半径10km以内に参加者は8人存在する。そして、その8人は日常生活上においてその地域から移動しない者を選出した、と書かれていた。よほどのことがないかぎり地域から外に動かない人物。それは当然だ。たった10日間しかないデス・ゲームの最中に遠くへの出張なんてされたらゲームバランスの崩壊どころの騒ぎではない。その上で、さらに願い事を胸に秘めた人物がこのゲームに参加している。『人を殺してでも叶えたいほどの強い願いを胸に抱え込んだ人物』が、このゲームに参加しているのではないか。そう思った理由のひとつに、自分自身がそうだったからだ。妹を助けるためだったら、他の人の命なんて、割とどうでもいい。そもそも、このウィッチ・ハントというゲームを開催するにあたって、ゲーム参加者はそういう願いを持った人種である方が適切なのではないかと思ったのだ。しかし、そういう人が半径10km以内に何人もいるとは思えない。現実的に何人いるか、なんてことはわからないが、8人中8人全員が「人を殺してまで」と思うものだろうか。自分は思っている。例え人を殺してでも、妹を救いたいと。



 ……いや、どうだろうか。やはり人を殺す、という思考に至るには、大きく、厚い壁が一枚あるのではないかと考えられる。倫理、道徳、公序、篤行……。人が本来持っているであろう心が、人殺しに至る壁を厚くする……。人の願いなんてのはその人それぞれによって変わるだろう。しかし、どんなに強く叶えたい願いがあったところで、それは果たして、『人を殺して』までも叶えたい願いだろうか。それに、別にウィッチ・ハントに勝利しなくとも、命を取られるわけではない。もし命をかけてまで欲しいものを持っていない人が参加してしまっても、いきなり確定魔女にならない限り、無視を決め込めばウィッチ・ハントの火の粉が降りかからない可能性は高い。万が一、自分の生活圏内に確定魔女がいて、魔女に自分の姿を見られ、魔女の自衛によって殺されてしまう……、なんて悲劇になる……という可能性も存在し得るがまぁそれはさておき。



 今自分が把握しているウィッチ・ハントの参加者は3名。まず自分こと坂下千智に、会対三也と、手石一真のホ―ムレスコンビ。残りは4名、そして、その残りの4名は魔女ではなく、人間であることは確定している。魔女が誰であるか、自分自身だけが知っており、他の参加者5名はそれを知らない。誰が今、このウィッチ・ハントというゲームで有利な立場にあるか? それは火を見るより明らかだ。しかし、ここで油断をしてはいけない。常に前を向いて、上だけを見て生きる。それが自分、坂下千智だ。この生き方をしてきたから、今もこうして、生きていられる。自信があるし、むしろそれは確信だった。自分が信じる宗教の、教典だった。驕りをなくせ、油断は敵だ、欲しがりません勝つまでは…………。



 残り4名の〝空き〟がある。ウィッチ・ハント参加者の空席。自分には、参加者を見分ける目がない。しかし、隣にその目がある。1人か、2人は多分、ウィッチ・ハントに参加する意志のない奴はいるだろう。もしかしたらそれ以上いる可能性もあるがあまり希望的観測過ぎるのも良くはない。最大の目標は、ウィッチ・ハントの参加者全員の把握、少なくとも、1人、2人ほどでもいいからウィッチ・ハントの参加者を把握しておくこと……。



 さらに、もうひとつ頭に留めておくべきことがある。ホ―ムレスから参加者が2人いた、という点だ。ウィッチ・ハントの定点Aから半径10kmの場所で行われる。そして、10日間、その10km以内から出ない人物……。ホ―ムレスが選ばれた。つまり、ウィッチ・ハントの事務局から、ホ―ムレスの連中はおいそれと移動しない連中だと思われたのだろう。千智からすると、あちらこちらに拠点を移すホ―ムレスもいるような気がしたがそんなこと考えても仕方ない。



 問題はその先だ。ホ―ムレスが選ばれた。実際に、ホ―ムレスが2人、このゲームに参加していた。では、俺は? 千智はアタリをつける。公立F高校の学生。大学はここからかなり離れた場そに私立がひとつ、さらに離れた場所になれば国立大学がある。が、どう考えても10kmどころの距離ではない。もし大学生が近辺に住んでいたとしてもそれはおそらく参加者ではないだろう。なぜなら、その大学生は学校に通うために半径10kmのサ―クルから出なければならないからだ。大学生は参加者ではない、完全に断定することは出来ないが、その線はかなり薄いと考えても構わないだろう。大学生をマ―クするよりかは、公立F高校の生徒をマ―クした方が、効率は断然良い。そして、今は下校時間。多くの生徒が自転車、または徒歩で家を目指して帰る。橋の向こう胡央村からこちらにバスは出ていない。スク―ルバスもなければ、その他運航しているバスもない。つまりは公立F高校から下校する生徒の一部を完全に見ることができるわけだ。




 宮沢ビルから見ることのできるポイントは、美山大橋の端っこ部分だ。橋が始まる手前ほど。そこだけでも見えていれば、美山大橋を通る人々、公立F高校に通う生徒たちを把握することができる。ここから橋を見るのは、最高の策だ。公立F高校の生徒たちにほぼ完全に網をかけることができた。




「いいか、もしかしたら参加者は自転車に乗っている可能性もある。もしゲーム参加者が自転車に乗っていたら、素早く自転車の色、車種などを伝えろ」

 手石から少し離れた位置から千智もまた、同じ双眼鏡を用いて美山大橋を見つめる。

「わ、わかりました…………!」

 手柄を挙げればまだ自分が生き残れるチャンスがあると思っているのだろう、従順な態度を見せる手石。それに対し、何も応えず、双眼鏡で美山大橋を見続ける千智。

 少しずつ、少しずつ公立F高校の制服を着た生徒の割合が増えてきた……。

 千智の右手には、カウンタ―が握られていた。カチ、カチ、カチと。金属の音が、廃屋に響く。




 20分後。それは突然訪れた。

「い、いました! ゲーム参加者です!」

 突然手石が大声を上げるもんだから千智は肩をビクリと震わせてしまった。

「徒歩か、チャリか、どっちだ?」

 双眼鏡でたった今目に入った真っ黒の自転車を見ながら声を投げた。自転車に乗っている野郎の顔は覚えた。今、その自転車以外、美山大橋から下ってくる奴はいない……!

「チャ、チャリじゃありません! 徒歩です!」

「ん、わかった。特徴を教えろ」

 心の中で舌打ちをする。「チャ」の一言で意識が完全に自転車に向きかけていたからだ。なぜわざわざ否定を入れるのだろうかこいつは。最初から徒歩です、と言えば二度手間ではないというのに。




「えっと、眼鏡をかけています! そ、それと、耳に赤色のイヤホンをさしています!」

 眼鏡に、耳には赤色のイヤホン……。双眼鏡を動かし、すぐにそいつを見つける。

「ネクタイの色は青……、青と黒の中間あたりの色をしているか?」

「はい、そうです! そんな色のネクタイをしています!」

 間違いない。今俺が見ているそいつがウィッチ・ハント参加者だ。

 今そいつはただただ前を向いて歩いている。すまし顔だ。瞳は切れ長。細い。

 どこかで見覚えのある顔だった。知的そうな顔立ちだ。しかし、残念ながら千智と話が合いそうにないように思えた。もちろん、実際に喋ってみたら印象は変わるかもしれないが。



 5秒その男の顔を見つめた。頭に刻みつける。ネクタイの色は、瑠璃色。いや、サファイア・ブル―が正式名称だったか? まぁ面倒くさいのでここでは便宜上、瑠璃色としておこう。瑠璃色のネクタイは公立F高校の第3学年生であることを表している。つまり、今の自分の先輩となる。この男の詳細については明日じっくりと調べよう。あの男の面はもう完璧に覚えた。おそらく、自分が今日の夜誰かに殺されない限り、この記憶は持続するだろう。さて、気持ちを切り替えて、今の男のことは忘れよう。問題の男は建て物の陰に隠れて見えなくなった。4階ほど貸しビルの陰に隠れてしまったのだ。



「ありがとうございます。男の姿は確認できました。次に、また外を覗き続けてください。先ほどと同じ要領で、じっと外を見続けてください。見つけたらまた同じように声をかけてください。私も外を見続けていますので。あ、あと、これは水分です。ただの水分ですが、お飲みください」


 その後、3時間ほど監視活動は続いた。双眼鏡を離して目を休ませながらも、視線はずっと、大橋が始まるところに向けられていた。しかし、先ほどの男以外に、ウィッチ・ハントの参加者は現れなかった。

「今日の調査はこれで打ち切りだ」

 静かに千智が手石に向けて言った。



「明日もやるんですかい?」少々重い口調だった。できれば明日はやりたくないらしい。

「いや……そうだな……、調査はこれまでとしよう」

 と言った。最初からここからの監視調査は1日だけにしようと決めていた。

 3時間、最初は帰宅部の調査だったが、時間が経つにつれて、体育系の部活に所属している連中、文化系の部活に所属している連中も監視することができた。しかし、やはりウィッチ・ハントの参加者と確認できたのは切れ長瞳の野郎ひとりだけだった。千智はカウンタ―に目を落とす。学校の生徒をできる限りカウントしていた。そこには、139とある。公立F高校の生徒はたしか全部で158人だったはずだ。そして、公立F高校の生徒である自分は、今ここにいる。つまり残りの18人は橋の向こうの美山市、つまり胡央村に住みながら高校に通う人物になる。もしかしたら、今日は学校を休んでいる生徒かもしれない。現実問題、自分はこうして調査のために学校を休んでいるのだ。他の参加者が学校を休んでいる可能性だってあるかもしれない。



 明日は学校へ行き、この欠けた18人の顔写真と名前をリストアップしよう。

 千智は自らの考えを頭の中でまとめた。今これから自分がしなければいけないことを、そして、改めて、覚悟を固めること、そして、決意を。

「では、ここでお別れだ。お互い、これからウィッチ・ハントで頑張ろうじゃないか」



 千智が手石に向かってそう言った。まるでスポ―ツマンの宣誓のように。

「へ、へい……わかりやした……。お疲れ様です……」

「最後に申し訳ないが、ちょっと眠ってもらう。その後は自由行動だ。好きにすればいい。とりあえず、今すぐここでお前を殺すことはしない」

 その一言で少し顔を曇らせた手石だったが、結局は大して抵抗もせずに眠った。事前に富樫から用意してもらっていたクロロフォルムを嗅がせたのだ。眠ったことを確認し、千智は手石の手足にはめていた手錠を解く。そして、宮沢ビル4階にあるトイレへと手石を運んだ。



 洋式トイレがある個室へ彼を運び入れ、トイレタンクに手錠の鎖を回してからもう一度手錠を嵌め直した。足にも同じことをした。かなり辛いポ―ズではあろうが、3,4日間だのことだ。我慢してもらうしかない。手石の口にガムテープをしっかりとつける。耳には、少し大きめの耳栓をつけた。

 この男がホ―ムレス生活をはじめて、今何日経っているかなんて知らないが、おそらく満足な食事は摂っていないだろう。これからこの男は、地獄の苦しみに苛まれることになる。確定魔女としての役割を果たさないことによるデス・ペナルティが先か、それとも、栄養失調による餓死で死ぬのが先か……。




 千智は、物をまったく食べないことによって引きされる飢えの苦しみを良く知っていた。まったく何も飲むこともできず、食べることもできない苦しみを、誰よりもとは言わないが、人並以上に知っているつもりだった。何も食べないと、身体自身が「物を食べたい」という信号を発する。この信号が時間が経つにつれて、段々と強くなる。その信号が、身体を攻撃するのだ。内から。その信号の痛みをこの男は知っているだろうか。ホ―ムレスを長く続けている人間であるならば、もしかしたら既に知っているかもしれない。おそらく、これは千智の想像ではあるが、ホ―ムレスのベテランと言われる人間(何年ホ―ムレスをやればベテランと呼ばれるのか、そんなことはまったく知らないが)は、その信号との戦い方を知っているのではないか、と思っている。ちなみに千智は知らない。信号との戦い方の前に、金を稼ぐ術を得たからだ。それは、生きるためだった。もしこの男が、飢えとの戦い方を知っていたら、1週間以上生き続けてしまうかもしれない。だからこそ、耳と目を塞いだ。



 これで彼は、聴覚と視覚を奪われた。完全に感覚を奪ったわけではない。完全に感覚を遮断するためにはアイソレ―ション・タンクと呼ばれる装置が必要になるが、今ここにそんなものはない。ここはただの廃ビルだ。廃ビルにアイソレ―ション・タンクは存在しないというのは、善人しか存在しない物語並に見つけるのは難しいだろう。長時間感覚を奪われるというのは、非常に苦痛なことだ。それを千智は知っている。感覚を奪われることによる精神的苦痛がどれほどか、こればかりは感じたものでなければわからない。『飢え』と、『感覚一部遮断』。この男が、もし飢えとの戦い方を知っていようとも、〝感覚がなくなる〟こととの戦い方を知っているとは到底思えない。もし〝感覚がなくなる〟こととの戦い方を知っている者が存在するとすれば、それは多分宇宙飛行士だけだろう。



 彼の意識が再び目覚めたとき、目覚めた世界に光が無ければ、音も無い。手も足も動かせない。果たして、自分が今いる場所が宮沢ビルのトイレだと気付くのにどれぐらいかかるだろう? しばらくの混乱の後、おそらく彼は音を出そうとするだろう。床を、壁を叩いて。しかし、思ったより音は出せない。視覚及び聴覚を奪われた上に、縛られていると力の使い方をうまく制御できないだろうし、下手に力を入れすぎてしまうと、おそらく彼の拳は折れてしまうだろう。そしてさらに、すべてがうまい具合に行き、いい音が出せたとしてもここは廃ビルだ。気付く人はいないし、もし気付いてもお化けと間違われるのがオチだ。それに……。そのお化けに興味を持ち、お化けの正体に興味を持ったとしても、ここに辿り着くことはできない。ここに至るためにはいくつかの鍵付きドアを破ってこなければならないからだ。その数6つ。果たしてそんな物好きがいるだろうか? 廃ビルとは言え、別に子供たちの間でホラ―スポットになっているわけでもない、シャッター商店街のひとつ建物に。そう、ここは、シャッター商店街の、なれの果て。誰からも忘れられて、この世界で果たす役割は無くなり、静かに死ぬことしかできない、浜辺で作られた砂の城なのだ。この世界で、役割を終えた黒い棺…………。



 すべてのやるべきことを終えた後、最後にもう一度、千智は手石の姿を見る。トイレの壁に頭をもたれかけて、意識を失っている。その男に対して、千智は申し訳ないとか、同情するとかそういった借りの感情は持っていない。むしろ感謝してもらいたいほどだ。これでもまだ、マシな死に方だ。




 手石一真にはもう、どこにも帰る場所はなかった。

 手石一真の元妻、手石夕実は新しい男を見つけ、同じ屋根の下での生活を始めていた。しかし、再婚をしているわけではない。これは、元夫への義理立てとかそういうわけではなく、金のためだった。再婚をしてしまうと、元夫手石一真からもらえるはずの養育費12万円が減額してしまう可能性があるからだった。つまり……、かつての妻・手石夕実にとって、ホステスの女性のために5000万円を貢いで社会から抹消された夫は、もはや自分に金を支払うための機械にしか過ぎないというわけだった。例え彼が魔女の座を手に入れ、2億円を手に入れていたとしても、それで愛が買えたかどうかは、非常に微妙な話である……。


 やり残したことはもうないことを確認して、宮沢ビル4階のトイレから外に出る。ドアをきちんとしめる。そして、戸締りをしっかりと確認して、千智は宮沢ビルをあとにした。

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