第5章(上) 坂下光の病室へ 坂下千智の身辺調査




■第五章 夢原癒津留Side 坂下光の病室へ 坂下千智の身辺調査

  Dec. 21th (Fri)12月21日(金)

  夕辺総合病院9階 特別病棟 PM5:32 ―94:57:18




 千智君がいなくなったのを見計らって、病室に入る。夕辺総合病院9階。そもそも、夕辺総合病院に入ること自体が初めてだったし、ましてや9階など言わずもがな。そして、今私が入ろうとしている病室は、普通の病室の扉よりも大きいような気がした。いや、私が知らないだけで、病室の扉というのはみんなこれぐらいのサイズなんだろうか? 誰か教えてくれ。っと、入る前に扉の横に備え付けられている長方形の札に目をやる。そこには、この病室に入っている患者の名前らしきものが書かれていた。『坂下 光』と。




「坂下千智には妹がいて、病弱である」という噂は聞いていたが、まさか入院しているとまでは知らなかった。その札を見て、病室に入ろうか否か迷いが生じてしまい、足が止まってしまったが、ここまで来てしまったんだ。千智君のことはしっかりと調べておきたい。妹坂下光の病状の如何によっては、坂下千智の「ウィッチ・ハントに進んで勝者になろうとする理由がない」という一言に矛盾が生じるはずだからだ。




 ふぅ、と一息深呼吸をしてから病室へと入る。病室の中は、思った以上に広い空間だった。想像していた病室とまったく違う広さだった。100人乗っても大丈夫なイナバ物置だったら何個敷き詰めることができるだろう、と、どうでもいいことを考えてしまう。実際は、普通の学校の教室がまるまる1つ入るほどの広さだった。そして、壁際には幅150cm、高さも170cmほどあるであろう、赤銅色のスライド式の本棚があった。その本棚が右左の壁際に計4つほどあり、3つの本棚には本が一杯に詰まっていた。なんてことだろう。こりゃ大地震がきたら本屋さん大変だなという典型的な突っ込みを入れてしまいたくなる。なんというか、本棚を作っている木材にはなんとも言えない風格を感じる。まさかマホガニ―でできてるんではあるまいな。燃やしたくなる。




 しかし、本棚以外特に目を惹く点はない。他に目を惹く点があると言えば、それ以外はまったく、何もない殺風景な点と、この病室にはベッドがひとつしかない点か。普通、こういう病室には3、4人ほど入院患者がいるもんだとばかり思っていた。




「…………兄ではありませんね、誰でしょう」

 ヒヤリと背筋を冷やすような、そんな声が聞こえた。一体どこから? それはもちろん、ベッドからだ。癒津留から見て左奥にある白いベッドから、これまた白い掛け布団からぬっくりと頭を出し、顔をこちらに向ける。



「あら、女性でしたか。こんなところに来るなんて。この階には私しか入院患者がいないという旨を兄と、それからその他医師から聞いております。ということはつまり、あなたは間違えてここに来たわけではない。それじゃあ、そうですね。あなたはどうして、こんなところにいるのでしょうか?」

 えらくねちっこい喋り方をする奴だな、と癒津留は内心毒づいた。しかし、外見は悪くない。髪は綺麗に溶かれたストレ―トのロングヘア―で、肩より若干下まで伸びているという具合か。前髪も伸びており、目に若干被っている。目は大きい。しかし、普通の表情が半開きなのか、常に不機嫌に見えなくもない。というかそれは、私という闖入者が病室に入って来たからか。




「……申し訳ない。私、夢原癒津留といいます。……なんだろうな、坂下千智君の、友人です」

「…………」

 目の前のベッドにいる女の子はさらに目を細め、こちらにじっと見つめてくる。射抜かれているように感じる。居心地は決して良くはない。汗が背中を伝いそうだ。




「兄の、友人ですか。……それは失礼しました。私の名前は、坂下光。坂下……は、そのまま、説明しなくてもわかりますね。光は、まぁ、これもそのままの光です。『輝く』と書いてヒカリと読むわけでも、卵子精子の『精子』の『精』と書いてヒカリと読むわけでもありません。太陽光、新興宗教団体『崇教真光』の最後の一文字の光。そのままの光と書いて、坂下光です。どうぞよろしく」

 たった、一文字、小学二年生で習う常用漢字を説明するのに句読点含め100文字以上かかる奴なんて初めて見た、聞いた。さすが千智の妹、よくわからないが、規格外だ。決して褒め言葉などではないが。




「ありがとうございます、えっと、光さん」

 相手はまず間違いなく年下なのに、なぜか言葉は敬語のようになってしまう。完全にこちらが相手の威圧感に負けている。情けないようだが仕方ない。時には素直に負けを認めることも人生においては大事だ。

「えっと、私の癒津留という漢字は――」

「いや、あなたの名前の漢字やら由来やらにはまったく興味がありません。そこは省いて結構です」

 ばっさりと丁寧にお断りをされた。京都でぶぶづけ(お茶漬け)を出されるような暗に仄めかすのではなく、あっさりがっさりばっさりと一刀両断にされてしまった。言葉に詰まってしまう。





「私が知りたいのは」

 そこで間を置き、

「先ほども、この一連の会話の冒頭でも言いましたように、あなたがなぜこんなところにいるのか、ということです。あなたが兄の知り合いであることはわかりました。知り合いであるのか友人であるのか、それとも一般的には公にできないような、例に出すならば、家庭内の深刻な状況を二人の間だけ持ち出して、それらをどう解決するのか話し合いができるような、いわゆる親友的な仲であるのか、そもそも男女の友人関係に『親友』たるものが存在し得るのか、そういった人間の生物学における至上命題的な疑問はありますがそれは今ここではさておき、はてさてもしくは恋愛関係にある仲なのか、それとも兄が勝手にあなたを恋慕っているのか、あなたが兄を恋慕っているのか、そんなものは飛び越えて、実はもう情事の後なのか、将来の関係を見据えた仲なのか……、そんなことは私にとってはどうでもいいことです。先ほど、私のところに兄が来ました。つまり、あなたが兄の代わりに私の世話、お見舞いを委託していないことはわかっております。兄のお見舞いは1週間に2、3日、1日来たら、私の要請が無い限り1日以上間を空けます。それが私と兄の黙契のようなものになっておりますから。つまりあなたは、イレギュラ―な存在。あなたの来訪に、兄が関わっていることはほとんどあり得ない。まぁ、もしかしたら兄があなたを私のもとに寄越して、これが将来の相手だと紹介している可能性も、まぁ、無きにしも非ずかもしれませんが、ほとんどあり得ないでしょう。それで? あなたはなぜ、こんなところに? あぁ、他の患者と間違えた、なんて寒い言い訳はやめてくださいね。私、ある程度の言葉の真贋の見分けは、つきますので。兄と一緒です」






「……ちょ、ちょっと待ってください、お願いしましゅ……」

 いきなり色んなことをそれこそまさに大雨が降った翌日の川の勢いのようにドバババと言われてしまったら、整理が追いつかない。英語のリスニングをやっているわけじゃないんだぞ、こんちくしょう。とりあえず、なんて答えればいいんだ。

「……こう言っちゃあれかもしれないんだけど、あなたに会いに来た、んです」

「は? 何言ってるんですか殺しますよ?」

 こ、怖すぎる。こんなことを真顔で言われた日には泣いてしまいそうだ。しかし、ここではメゲない。メゲてはいけない。





「おっと、失礼しました。殺すまでは言い過ぎました。死ね、までにしといた方が良かったかもしれません。それに、それがどうやらまったくの嘘ではなさそうなことも、なんとなくわかりました。しかし、それがすべて、100%真実ではない。ですよね? 癒津留氏?」

 その口調は、極めて、そして、冷酷に断定口調だった。いえ、違いますとは言えない雰囲気をその言葉は作りだしていた。この子は、光という子は、それが100%真実ではないことを、識っている。





「で、何でここに来ているのか、訳は教えてもらえるんでしょうか? 別に教えてくれなくても構いませんが、その場合、あぁ、これは教えてくれなかった場合ということですが、あなたがここに来訪したことは兄に告げ口させてもらいます。あなたの行動は、非常に気になるものがありますので」

「ッ…………」

 なんとか顔が歪むのは我慢できたはずだ。しかし、あと一歩のところで顔が歪みそうになった。それほどまでに、この子の今の一言は重く、鋭かった。

「もし、あなたに……正直にここに来た訳を話せば、お兄さんに私のことは伝えないでくれる……?」

 探るような一言を光に投げかけた。それに対し、光は片眉を吊りあげて、

「まぁ、内容によるでしょうね。ですがまぁ、よほどのことが無い限り、兄には何も言わないと約束しましょう。私も、兄に借りはありますが、秘密事が何ひとつないってわけでもないですし、今さら兄に対する秘密事がひとつやふたつ増えようが誰も私を恨みゃしやせんよ」

 自嘲的な笑いを顔に浮かべ、こちらの様子を伺っている。ここまで言われてしまったら私も腹を括らねばならない。別に疾しいことをしているわけじゃないんだ。いや、すごい疾しいことをしているわけだけど、この子相手なら、ある程度納得してもらえるかもしれない。






「あなたには非常に言いにくいことなんだけど……私は今、あなたのお兄さん、坂下千智君のことを調べています。お兄さんには……秘密で」

「…………」

 光はまた一拍の間を置いて、

「いいでしょう、その理由については尋ねないことにします。今後の展開によっては尋ねるかもしれませんが、今、基本的には、その理由について尋ねない事にします。その理由を尋ねることは野暮な気もするし、私が理解できる範疇外にあることかもしれませんから」

「……ありがとうございます。あなたのその、寛容な理解力に」

「で? 何ゆえ、私の兄を調べるところから、私を調べることになっているんです?」

「千智君のことを周りから聞いている内に、千智君には両親はおらず、妹がいることがわかってきました。病弱な妹がいる、ということを。だから私は、実際に妹がいるのかどうか、この目で確かめたくて、会いに来ました」





「ストップ。癒津留氏、残念ながらそれは通りませんよ。あなたの目を見なくてもそれが嘘であることはわかる。いや、まったくの嘘でないこともわかる。癒津留氏、8割の嘘に2割の事実を乗せて話をあたかも事実のように見せかける新興宗教的な手法はバカな底辺共には効くかもしれませんが、私には通用しません。兄にだっては軽く看破されてしまうでしょうよ。せめて、4割の嘘、6割の事実ほどにしないと、私の目は欺けません」

 これまたばっさりと、断定の上に断定の口調で斬られてしまった。

「ちょ、ちょっと待ってください。私は、嘘は言っていません。本当に、あなたに会いに来たんです」

「本当に会いに来ただけ、ですか?」

「えっ…………」

 その言葉に二の句を継ぐことができず、困ってしまう。会いに来ただけ、私は、この子に会いに来ただけじゃ、ないのか…………?





「あなたは私に会いに来たわけではない。いや、もちろん、会いに来るというのも目的のひとつだった。それはわかります。しかし、その先にもうひとつ目的があった」

「…………」

 その鋭利な刃物で斬られるような一言に、言葉を失ってしまう。なんだ? 一体、なんなんだ?




「まぁ、具体的なことはさすがの私にもわかりませんが、別にいいじゃないですか、そんな怖い顔をしなくても。私に会いに来て、私と、私の兄の過去について聞きに来たんじゃありませんか?」

「えっと…………」

 言われて初めて気付く。それが、もしかしたら私の望みだったのかもれないと、そう思って。




「そして、私は別に、私と私の兄についての過去を話すのは、やぶさかではありません。ここまで来たあなたになら、ね。もちろん、あなたが話してもらいたいなら、ですが」

 ここで、一瞬の間があった。言葉を発しなければいけないのはもちろん、私。




「……わかりました……。聞かせてください」

「……いいでしょう。しかし、私が過去のことについて話したことは、兄には黙っておいてください。それが唯一の条件です」

 私はそれに対し、即座に頷いた。もちろんだ。呑める条件にはしっかりと即答する。すると……。




「トガシ…………」

 坂下光がそんな一言をポツリと言った。聞き慣れないワ―ドで、私が聞き取れたワ―ドが果たして本当に彼女の真意が汲み取れたものであるかどうかは怪しかった。




「トガシ ケンヤと言いました。漢字では……こう書きます」

 いつの間に手元に用意していたのか、彼女の手元にはiPadが乗せられていた。そして、メモ帳らしきところに「富樫 賢哉」と書かれている。

「えっと……この富樫さん? が、どうかしたんですか?」

 突然の新キャラクタ―の襲来に眉をひそめてしまう。このタイミングで新キャラ? 誰? 何者?




「まぁこれは、別にあなたに教えなくてもいいことになるのかもしれないけれど、ちょうどいい機会ですので、教えておきましょう。率直に言って、兄のこと、好きなんでしょう?」

 鋭い一言に癒津留は言葉を失ってしまう。

 おのれ小娘、というか、千智君の妹ならば私より年下ってことになるんだよな、こいつ?




「富樫賢哉というのは、弁護士の名前です。東京の青山に事務所を構えているそうですが、本当かどうかは知りません。東京弁護士会か、第一東京弁護士会か、第二東京弁護士会か、そういったところにきちんと正規の手続きに乗っ取った登録をしているのかどうかも知りません。実際に私が調べたことはありませんし、興味もありませんから。まぁ、もらった名刺には弁護士と書かれておりました。東京の青山にある事務所の所長という肩書きも添えて。だから多分、弁護士だとは思います。事務所を見たことはありませんが。そしてその弁護士と、私。私よりは、兄、ですが、繋がりを持っています。ちょっと道端で通り過ぎただけ、とかではない繋がりです。そのことを一応、あなたにも知っておいてもらった方がいいような気がして」

 そう言い終えると、坂下光は唇の端だけで笑みの形を作った。

 不敵な笑みを光が作る一方で、癒津留は会話の流れの終着点がわからず、首をかしげてしまう。それから口を開いた。




「えっと、すみません。私からひとつ、今の言葉の意味に関連して質問してもよろしいですか?」

「えぇ、もちろん。構いません」

 余裕ある優雅な笑みを保ったまま、光が言った。




「その、富樫弁護士と言う人……まぁ自称なのかどうかはわかりませんが、富樫弁護士という人が存在して、千智君と知り合いなのはわかりました。でも、それがなんだっていうんですか? 私にはあまり関係が無いような気がするんですが」

 思うところを簡潔に言葉にして、光に告げた。そう、つまりはそういうこと。まったくもってそういうことだ。富樫という弁護士が実際にいるとして、それが何だっていうんだ。



「えぇ、まぁ、たしかに。あなたの仰りたいことは、よくわかります。しかし、あなたが兄を真に理解するためには、兄の今まで過ごしてきた人生の伝記にはこの弁護士が記されている、この弁護士と兄千智が繋がっているということを知らなくてはならない」

「どうやら、私はその弁護士が一体どういう人で、どういう経緯で坂下兄妹と関わるようになったのか、それを聞かなくちゃいけないみたいですね……」

 私はうんざりしている、ということをポ―ズで前面に主張しながらそう言った。



「その通りです。そのひとつひとつの積み重ねが、理解に繋がります。えっと、まぁ、多分」

「そこは絶対、と保証してくれないんですね……」

 うんざりの次はげんなりだ。さてさて、次はどんよりかな? あ、それは天気か。




「まぁ、何をどうすれば『絶対』になるのか、私にもよくわかりませんから。それはしょうがありません。さて、では次に何を話しましょう? 富樫弁護士は果たしてどういう人なのか? それとも、私たち兄妹と富樫弁護士はどういう出会いをしたのか?」

 と言って、光は口を噤んだ。顔にはやはり、笑顔を浮かべて。

 もしやこいつ、この状況が楽しいのか? と癒津留は思った。




「じゃあ……そうですね、出会いも興味がないこともないけど……、先に富樫弁護士がどういう人が教えてもらっていいですか?」

「いいでしょう。そうですね、富樫弁護士というのは、まぁ先ほども言いましたが、東京の青山で事務所を開いている弁護士です。自称、ですが。少なくとも、仕事に対しては人並以上の、気をつけなければ異常の領域に入ってしまいかねない、そんな男でした。しかし、私たちの依頼には非常に的確に応えてくれました。相応の、いや、相応以上の金を払いはしましたが、その結果、今ここでこうしていられているのですから、まぁ安いものです」




「……なんとなくわかったような気がします。じゃ、えっと、坂下兄妹と富樫弁護士はなぜ出会ったんです?」

「なぜ出会ったのか。その質問に答えるのは非常に難しい。おこがましいかもしれませんが、あなたの質問を勝手に変えさせていただきます。なぜ出会ったのか、ではなく、私たち兄妹と富樫弁護士がどのような関係で結ばれているのか、という話をしたいと思います。

 私と兄は、昔、監禁されていました。いや、誘拐されていました」




「えっと…………? は……?」

 突然のワ―ドの飛び出しに耳を疑わずにはいられない。おい、誰だ。ちゃんと飛びだし注意の標識を立てておかないからこういう出会い頭の衝突事故が起きるんだぞ。




「監禁です。私と兄は、誘拐されて、ある場所に監禁されていたんです」

 誘拐、それに、監禁。どれもミステリ小説ではよく見る単語だ。あ、あと、時々テレビのニュ―スなんかで。しかし、それを現実の人間から、生身の人間から聞く機会というのはなかなかどうして、あまりない1本120円のジュース売るようなノリで話されても困るが。




「その犯人が、まさか、富樫弁護士だったと? あなたをさらった犯人が?」

「いえいえ、まさか。そんな、私たちを監禁した人と未だに繋がりを持つなんてなかなかありえません。どんなハ―ドMでもそれは少し難しい注文と言わざるを得ない。むしろ逆です。富樫弁護士は私たちをその監禁から解き放ってくれた、命の恩人です」

「続けてやはり妙なことをお聞きしたいのですがそれはよろしいのでしょうか?」

「えぇ、もちろん」

「その、あなたをさらった犯人はどうなったんでしょうか? それとどうやって富樫弁護士はあなたがたを救ったのでしょうか?」

「ひとつひとつ順番に質問に答えたいと思います。まずは、私たち兄妹をさらった犯人から。犯人は死にました。交通事故に巻き込まれて、ね。バカなもんです。もう少しリスクの低い人生を送っていれば、ほんの少し地味なれど、大分マシな生活を送れたというのに…………」

 と言うと光は鼻で笑った。愚かな小市民を見下す女王のように。




「そして、問題の富樫弁護士は、私たちをさらった犯人の知り合いだったようです。友人、とまではいかないまでも、何かと相談を持ちかけられてはそれに応えるような関係にはあったそうです。まぁ、詳しくは知りませんがおそらくはビジネス上の間柄だったんでしょうね。その知り合いたる犯人が交通事故で死亡したため、富樫はその犯人の周辺を探った結果、私たちを偶然見つけたのです。監禁されている私たちを、ね」

 光はそれらを笑顔で語っているが瞳はまったく笑っていなかった。凍った笑顔で、淡々と事実だけを述べていた。だからそれは多分、笑顔ではないのだ。




「もちろん、まったくの無償で私たちを助けてくれたわけではありません。多少の交渉が必要ではありました。しかし、私は交渉の詳細な内容を知っているわけではありません。兄から聞いた伝聞の内容だけを知っています。具体的に言うと、交渉の結果の部分はしっかりと知っております。それが、これ。まぁ、今は入院中の身ですが、入院する前は兄と一緒に暮らしておりました」

 それで、光の説明は終わったようだ。俯いて、手の指を一本一本点検し始めた。その様子はなんだか、何かを待っているようにも見えた。おそらく、私の質問を待っているのでは、と癒津留は感じた。

「えっと、質問……はしても?」自信無さげに光に尋ねる。

「もちろん。それを待っています」やはり指を点検しながら、こちらを見ずに即答だ。

「じゃあ、そうですね……。結局、その富樫さんをについて、今ここで説明したことに一体どんな意味があったんでしょうか? たしか、兄、えぇと、千智君のことを真に理解するためだ、とかなんとか言っていた気がしますが」

 千智君、というところで少し詰まってしまったのは不覚だった……!




「えぇ、その通り。まぁ半分は兄の過去を知ってもらいたかった、というのが一点、それにもう一点は、この過去があり、今がある。そして、さらには未来へと続いているということです」

「はぁ」何言ってんだこの子。




「先ほども言ったとは思いますが、その富樫という弁護士は非常に仕事熱心です。私は弁護士という職業が具体的に何をする人々なのか、それらのことは実はよく知らないのですが、私たちの依頼には熱心に対応してくださいました。おそらく、他の弁護士に頼んでいたらもっと解決に時間がかかるか、はたまた、とてつもなく時間をかけた挙句に失敗するような類の依頼です。




 まぁ、何が言いたいのかと言うとですね、富樫という弁護士は非常に腕が立つ弁護士である、ということです。そして、その弁護士が今もなお、兄と繋がりを持っている。それをあなたに知ってもらいたかった。そしておそらく彼は、なんでもやるであろう、なんでもできるであろう男である、ということを」



 長いとも短いともとれない、なんとも微妙な間が流れた。癒津留としてはできれば相手が喋るのを待っていたかったが、この一連の会話の流れからして多分、次の発言権という名のサ―ブ権はこちらが持っていて、私がサ―ブを打たないとゲームが始まらないんだろうなというたしかな予感を脳が掠めたので、仕方なくこちらから発言することにした。



「ありがとうございました。では、このことを頭に留めておけば良いのでしょうか?」

「頭に留めておくのはもちろんのこと、もうひとつ、あなたに言いたいことがあります」

「なんでしょう?」不意を突かれた形になり、自然と身体が強張ってしまう。

「今まで私が話してきたのは富樫弁護士のことです。仕事に熱心である、それも、異常なほど、ということを話しましたが、それはまぁ、今ここでは、さておきます。問題は、兄です。兄、坂下千智のことです。兄の千智は非常に合理的な人間です。非常に合理的で、そしてときどき、感情的になる。そしてそれが、たまに逆転する。感情的に行った行動が実は少しだけ合理的であった、なんてことがあります。そしてそれが、おそらく本人が狙った上での行動である、という場合もあったりします」




「すみません、言っている意味がまったくわかりません」

 唖然とした表情を浮かべながら率直に癒津留は光に言った。

「たしかに兄、千智は基本的には合理的な人間ですが、彼の行動を簡単に、追えると思ってはいけません。彼の行動の多くは合理的ですが、かと言って、彼の行動すべてにおいて、合理性を伴っているとは限りません。ですからまぁ、彼の行動を追うときは気を付けろってことです。これから兄のことを調査するなら、そういった観点も必要だということです。人間は、機械ではありませんから。少しばかり、ね」

 と言うと、彼女はまた黙り、手の指一本一本を点検し始めた。爪の形を入念にチェックしている。今日の爪は楕円形だなぁ、とかやっているのだろうか。




「……こんなことを聞くのは恥ずかしいんですが……」

「ん?」

「わ、私なんかが千智君と付き合ってもいいんですか? あ、あ、あ、あと、も、もし、私と千智君が付き合うことになったら……! ひ、光さんは、その、応援してくれます×●△!?」



「えぇと、語尾方面は何言ってるのかわからなかったけど、とりあえず質問に答えますね。まず、あなたと兄が付き合うかどうかは私ではなく兄が決めます。私としては、兄がどのような女性と付き合うのかは非常に興味がありますが、基本的には誰でも構いません。しかしまぁ、兄はあのように格好いい男の人、というよりは、可愛い女の子、ク―ルな女性、にも見ることができますから、あなたのような正真正銘女の子が兄と付き合ってくれるとなると、安心しますね、なんとなく」

 少し失笑しながら光が答えた。しかし、決して嘲笑しているわけではない。微笑ましさと呆れが交互にやってきているような失笑だった。




「厚かましいようで申し訳ないのですが、もうひとつだけ! もうひとつだけ質問しても良いでしょか?」

「どうぞ」

「その、光さんは、お兄さんのこと、好きだったり……しちゃいます……か?」

 語尾はやはり消え入りそうになった。発言を終える最後の一瞬まで、「こんなこと尋ねていいのかなアタシ」と考えていたが、結局全部喋ってしまった。

 そして、何とも言えない微妙な空気が病室一帯を包み込んだ。癒津留は何も言わない、光もまた、やはり指の爪を見ているだけで何も言わない。

 カップラ―メンを作り、でき上がるほどの時間が経っただろうか。いや、実際には1分半しか経っていない。カップラ―メンの麺は固ゆでだ。それほどの時間が経った頃、光が口を開いた。




「私と兄は兄妹です。残念ながら、義理の兄妹とかそういったものでは一切ありません」

 声色は完全に白けている。

「で、でも、それでもやはり、好き好き同士になっちゃう兄妹って、いると思うんですよ!」

 やめておけばいいのに、突き進めるところまで突き進んでしまう。

「まぁ、日本は広いです。なかにはそう言った人もいるでしょうね」

 『うんざり』。そんな言葉が似合う声色だ。棘はないが、鋭利さもない。だらけきったゴムよろしく。




「そ、それに、あなたたちは…………!」

「?」光は疑問の表情を浮かべた。

「誘拐されて、監禁されています」

「…………は?」




「だからつまりその、あ―、なんて言えばいいんだ……」

 言いたいことはまとまっているはずなのに、喉元で渋滞を起こしてしまうトラブルに癒津留は見舞われた。道路公団仕事サボってないでなんとかしろ。

「つまり、吊り橋効果のようなもので、異常な環境に置かれた私たちの間に、普通ではない感情、この場合で言うと、血のつながった実の兄妹同士でありながら恋愛感情が芽生えたのではないかという疑問、と言いたいのでしょう?」

「う、うぐっ…………」

 相手が自分の思っていることを先回りして言ってくれた。単純に考えれば、手間が省けたが考えることができるので、本来は喜ぶべきことだ。しかし、残念ながら、そういった気分になれなかった。むしろへこむ。




 そんなこちらの心境を読みとったのか読みとってないのか、そんなこと知ったこっちゃないが、光さんはひとつ大きめな溜息をついた。

「誠に残念ながら、いや、幸運と言うべきなのかもしれませんが、……あなたは、今まで自分がしてきたオナニ―の回数を覚えていますか? 今まで、生きてきた中で、です」




「すみません、今までのあなたの発言の内容は意味がわからなくてもスル―できましたが、今のあなたの発言はさすがにスル―できません、ていうか、意味がわかりません」

「……私にとって、兄とは、生きるのに必要だった人です。そういう関係、といえばわかりますか?」

 その言葉、意味の捉え方によってはやはり兄を想っている、ということになるのか。




「つまりは、恋慕っている、と……?」

「申し訳ありませんが、これ以上言葉の説明をするつもりはありません。説明が複雑で面倒くさいというのもあるし、説明をしたとしても、あなたが納得できるかどうかはわからないからです。だったら、説明しない方がいい。あなたの解釈にお任せします」

 それ以後、彼女は口を噤んでしまった。私は一体どうすればいいんだ。

 そして、そろそろおいとま時かな、とも思う。




「じゃあ……、そろそろ帰りたいと思います。アレコレ聞いて、すみませんでした」

「最後にふたつほど、言わせてもらってもいい?」

「え? えっと、ええと、はい」

 まさか彼女が何か発言するとは思わず、回答の言葉がドモってしまう。

「ひとつ目は兄のことです。兄は、完璧なまでの演技人えんぎびとです。簡単に表に本音を出すことはありません。もし、そうですね、彼が本音を表を出すことがあれば、それは、何か狙いがあるということです。とてつもなく疲れているときか、何かとてつもない狙いがあるときか。そのどちらかです。




 そして、ふたつ目。あなたは今日、運良くこの病室に入って来れましたが、多分来週あたりから、ここに簡単には入れなくなると思います。入れなくなる、というよりか、突然あなたに来られると私が迷惑する、というのが本当のところですが」

「えっ、それって、つまり……?」

「えぇ。もう一度あなたとお話したいわ。私には、兄と病院関係者以外、話せる人間がいないから……」




「お兄さんに頼まないんですか? 千智君なら、なんていうかその、なんとかしてくれそうだけど」

「これ以上兄に不必要なお願いをして負担をかけるわけにはいきません。というかもう、私にはこれ以上、兄に何かを頼む資格はない人間です」

 ここで即座に何かフォロ―を入れるべきだったのかもしれない。数瞬の後、そう思った。しかし、時間というものはびっくりするほど残酷なもので、数瞬というのは本当にすぐに過ぎ去ってしまう。即座に入れられないフォロ―を遅れて入れたところで、ただただ相手を惨めにさせてしまうだけだ。だから何も言わなかった。残念ながら、坂下兄妹の間には、外部の人間にはどうすることもできない半透明の仕切りのようなものがあるようだ。しかしまぁ、そういった類の話はたいてい時間が解決してくれる。時は金なり。時と金は同等であるかもしれないが、時にできないことを金では解決することができる。金にできないことを時で解決することもできる、なんて場合がある。この場合は後者かな。多分。




「まぁ、そういうわけがありまして、もし私があなたに会いたいとき、話がしたくなったときに連絡を差し上げたいのですが、あなた、携帯電話をお持ちで?」

「えっと、はい。持ってますけど……」

 携帯電話と聞くと、今自分が参加しているウィッチ・ハントを連想してしまい、陰鬱になる。やれやれ、嫌なゲームに参加したものだ。

「電話番号とメールアドレスをよろしかったら教えてもらえる?」

「え、えぇ、いいですよ! いいですとも!」

 よくわからないテンションになりながらそう言った。千智君の妹とメールのやり取りをするってどんなんだろう。




 その後、癒津留はメールアドレスと電話番号を光に教えた。名前と誕生日を組み合わせた簡素なものなので、いちいち携帯電話を使わなくとも言うことができる。やはりメールアドレスというものは何度も変えるものではないな。その方が忘れないし、愛着も湧く。光のメールアドレスと電話番号は、「あとでこちらから連絡しますので、それを登録してください」と言われたので連絡を待つことにした。できれば今教えてもらいたかったのだが、まぁ、どちらでも構わないだろう。

「あらかじめ言っておきたいんだけど……」

「はい?」

「私は基本的にメールでの会話やら、携帯電話の会話は好みません」

 今のやり取りを全面否定しにかかってきた。




「えっと……?」

 反応に困る。どうする。どう反応するのが正解なんだ今の場合。

「かと言って、携帯電話が情報伝達ツ―ルとして優れているのは周知の事実です。さすがの私も、そこを否定するつもりはありません」

 『さすがの私も、そこを否定するつもりはありません』というのがお好みのフレ―ズなのだろうか。そんなことを思った。

「しかし、緊急時にしろ、緊急時でないにしろ、純粋な連絡以外のための無駄な長電話のようなものはあまり好きではありません。それ以外にも携帯電話が嫌いな理由はありますがそれは今はいいでしょう。




 ですから、何が言いたいのかと言うと、あなたがもし私に連絡をしたとしても、私はすぐあなたにメールを返すことができないかもしれません。それでもあまり心配しないように。私が怒っているとか、そういうわけでは一切ありません。ただただ、私が元々、生来の性格上、あまり携帯電話を見ないだけですから。幸い、ここは病院で、私は入院中。携帯電話のメールに仕事の連絡は入ってきませんし、友人もあまりいませんしね」

 と言った。

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