第8章植物学者
小さな村を後にしたアイリスとパニーラはルイザのことを胸に秘めながら、薬草探しの旅を続けていた。南に下っていくに従い、生えている植物も少しずつ変わっていった。アイリスはその度に足を止め、採取し、メモをとり、知らない薬草への知識を増やしていった。もちろん、今の時点では効能は分からないが、この中の一つが、ルイザの病の治療に役立つならば、こんな嬉しいことはなかった。どうか万能の薬草がこの中にありますように。アイリスの心は祈りの気持ちでいっぱいだった。
幾つかの丘を越え、涼しげな川辺を渡り、長い長い道を歩きながら、二人は大きな町にたどり着いた。
その町の入り口の辺りに、大きな看板があり、こんな文字がのっていた。
『植物学者ムーラトに御用の方は山の教会アリッサに来たれし』
アイリスの足は一瞬止まった。植物学者ですって。こんなに大きな看板を立ててるなんて、どういうことかしら。
不思議に思ったアイリスは道行く町人に訊いてみた。
「ああ。あの看板ね。ムーラトさんはこの国唯一の植物学者なんだ。他の国々の中でも有名な人でね。植物のことならなんでも知ってるってことで、ムーラトさんを訪ねてあちらこちらの国からたくさん人が訪れるものだから、看板を立てたのさ」
「私でもお会いできるでしょうか」
「ムーラトさんは気さくの人だから子供であろうと大人であろうと誰でも会ってくれると思うよ」
町人は笑顔でそう答えると、その場を立ち去って行った。
「今の聞いたパニーラ?!」
パニーラはこくりと頷いた。
「植物のことならなんでも知ってる人だって。だったら万能の薬草のことだって知ってるかもしれないわね」
「ルイザ、助かる?」
パニーラはアイリスに訊いた。
「そう、助かるかもしれない」
アイリスは明るい顔でそう答えた。植物学者というぐらいなのだから、私よりもいろんな薬草を知っているに違いない。彼女の胸は期待で膨らんだ。
それから二人は町の中央にある山を目指して歩いた。その山のてっぺんに教会アリッサはあるということだったが、結構な急斜面が続き、二人はふうふう息をつきながら、山を登った。そうしてたどり着いた頃には、夕闇が迫ろうとしていた。
教会に着くとアイリスとパニーラは教会の扉を開けた。
中には一人の男が椅子に座り、神に祈りをささげていた。白髪に白いひげに丸い眼鏡をかけた老人だ。節くれだった手を組み、彼はアイリス達が教会の中に入ってきたことに気がづいていなかった。アイリスは十字架の前で熱心に頭をたれている老人に近づいていった。
「あの、すみません」
突然声をかけられ、その老人は驚いたようだった。彼は顔をあげて、アイリスを見た。
「お嬢さん、私に何か用かね」
太いやわらかい声がアイリスとパニーラにかけられた。
「実は人を探しているのですが、ムーラトさんという植物学者の方なのですが」
「それなら、私のことだよ、お嬢さん」
ムーラトはしわだらけの顔をくしゃくしゃにするとにっこり微笑んだ。
「まあ、あなたがムーラトさんですか。私はアイリスと言います。この子はパニーラ」
「妹さんかい?」
「いえ、違います。訳あって一緒に旅をしているんです」
「ほう、そんな小さな子と二人だけでかい」
彼は一瞬怪訝そうに二人を見やった。
「実は私は薬草探しの旅をしているんです」
「なるほど。薬草を求めて旅していると。それで私のところへ来たのだね」
「はい、そうです」
アイリスは緊張した面持ちで答えた。
「そうかい、そうかい。なら、私の部屋へと案内しよう」
ムーラトは薬草と聞くと、顔色を変えた。今までの穏やかな表情とは違って、きびきびとした教授のような態度をとった。
彼は椅子から立ち上がると、十字架の掲げてある、すぐそばの小さな扉を開けて二人を外へと連れ出した。
外に出ると目の前には古びた屋敷があった。
「ここは修道院でもあり、私の屋敷でもあるんだよ。さあ、中へお入り」
ムーラトはそう説明すると、二人を屋敷の中へと招いた。
「ムーラトさん、お食事ができてますよ」
三人が中に入ると、修道士の一人が声をかけてきた。
「またお客さんですか。今日はずいぶんと小さなお客さんですね」
「まあな。食事はこのお客さん達と話をしてからとることにするよ」
彼は修道士に微笑むと、二人を引き連れて、自分の部屋と向かった。
屋敷の内部の天井は高く、よく声が反響した。修道士が何人もいるようだったが、誰も彼も静かにしているせいか、三人の足音だけが響いていた。
幾つもの廊下を渡り、二人は一番奥まった部屋へと案内された。部屋の扉を開けると、山積みの本と瓶に詰められた草や花、天井から垂れさがっているつる草などが目に入って来た。部屋の中は草の匂いで充満していた。
アイリスは植物の標本の多さに圧倒されていた。さすがは国で唯一の植物学者のことはあると彼女は思ったが、その一方で、自分が今まで多くの薬草を求め歩いてきたことは、いったいなんだったのかと思わずにはいられなかった。自分が探し歩かなくても、ここに全ての植物が集結しているのではないかと思うと、なんだあといった気持ちも溢れてきていた。
ムーラトは部屋の中央に置いてあるソファに二人を座らせた。彼もまた向かい側のソファに座ると、二人に話をふった。
「それで何の薬草を探しているんだね。さあ、話してごらん」
そこでアイリスは自分がなぜ薬草を探すようになったかについてと、旅の途中で会ったルイザの話をした。
「私は万能の薬草を探しているんです。そして今はルイザを助けたいと思っているんです。両親や兄のように彼女を死なせるわけにはいかないんです。それでムーラトさんにお聞きしたいんです。ムーラトさんは万能の薬草について知っていますか」
アイリスの言葉にムーラトはぴくりと眉を上げた。彼は難しい表情をして熟考していた。しばらくすると彼はこう言った。
「私はたくさんの植物を集めてきた。もちろん薬草もだ。だがしかし、万能の薬草にあったことは一度もない」
それを聞いたアイリスは肩を落とした。こんなにも博学の人でも万能の薬草はないというのだ。それではいったい私は何をしてきたのだろうか。彼女は泣きたい気持ちをかみしめながらもムーラトに訊いた。
「それではルイザは死ぬしかないのでしょうか」
「医者はなんの病気か分からないと言ったね」
「はい」
アイリスは目をしばたたきながら、返事をした。
「医者が分からないのに薬を処方するわけにもいかないのだが、君の作った咳止めの薬草は効いたみたいだね。少しずつ試していくしかないね。何が効いて、何が効かないのか薬草を使っていくしかないね」
「でもその前にルイザが死んでしまったら…」
アイリスの脳裏に見たこともない両親や兄の姿がふと浮かんだ。
「それは神様の意思なんだよ。私が教会に住んでいるのも薬草ではどうしようもない患者のために祈るためなんだ」
彼は悲しげに呟いた。
「どんなに探しても万能の薬草などないんだよ。あるのは一部分はあるところで効き、もう片方では他の薬草が効きとそういったものを調合して使ってもらうしかないんだよ」
「そんな! 私が今まで探し求めてきたものはなんだったのでしょうか。両親や兄のように疫病で命を落とさないように、どんな病気も治すことができる薬草を求める旅は無意味だったのでしょうか」
アイリスは怒ったような口調で目の前のテーブルをどんと叩いた。ムーラトはそれを冷静に見つめていた。隣に座っているパニーラは心配そうな顔をした。
「無駄ではないでしょう。あなたは旅をしてくる間にいろんな人達と会ったようだし、小さな村では見られなかったものも目にしたでしょう」
「でも私は観光の旅ではないのです」
ムーラトは真剣な眼差しのアイリスをじっと見た。それから頭を振りながらこう答えた。
「万能の薬は私は持ってはいないが、伝承ではよく聞かれるんだ。それを君に話していいいものどうか正直迷っているよ」
「なぜですか」
彼女の目はぱっと輝いた。
「それは危険をともなうものだし、なぞなぞのような伝承なんだよ」
「聞かせてください。お願いします」
ムーラトはあごに手をやりながら、難しそうな顔をした。しかしアイリスの必死の思いを感じたのか、その手をほどくと眉間にしわを寄せながら話し始めた。
「遠い昔火を吹くドラゴンがいた。ドラゴンは高い山の頂きに棲んでいた。恐ろしい存在だったがそこに住んでいたドラゴンは心やさしいドラゴンだった。ある日村の人々がドラゴンを見つけ、とらえてしまった。その中の一人の青年がかわいそうに思い、ドラゴンを放った。怒ったドラゴンは火を吹いた。その時青年はひどい火傷を負った。誰が見ても彼は助からないと思った。その時、ドラゴンが一本の薬草を青年の元へと届けた。村人達は薬草を煎じて青年に飲ませた。するとたちまちのうちに火傷は治り、彼は一命をとりとめた。その時の薬草は大事にされ村人達によって育てられた。そしてその薬草はたちどころにいろんな病を治し万能の薬草と呼ばれるようになった」
彼が話し終ると、アイリスは目を丸くした。
「ドラゴンですか?」
「そう、ドラゴンだ。しかしそれはあくまで伝承であって、本物のドラゴンかもわからない。私としてはドラゴンは火山のことを言うのではないかと思う。火山の爆発で誰かが瀕死の状態に陥り、その最中薬草をみつけたのかもしれない。君に話すと火山に行きかねないと思って言うのをためらっていたのだよ。」
「でも村人達はその薬草を育てたんですよね」
「しかしそれもあくまでも伝承の話だ。どこまでが真実でどこまでが嘘か分からないよ」
ムーラトは首を振って答えた。
「それでも私は探す価値はあると思います」
「今まで私が収集してきた膨大の植物を見ても、君はそれでも探すというのかい」
「だって私はそのために旅をしてきたのですから。万能の薬草があるのかないのかはっきりさせたいと思います。ムーラトさんだって、ないとは言い切れないでしょ」
「まあ、確かにそうだな。ひょっとしたらあるかもしれない。世界は可能性に満ちている」
「私ははっきりするまで探すつもりです」
アイリスの意思は固かった。それを不思議そうな目でパニーラは見上げた。
「あまりお嬢さんにはお勧めできる旅ではないのだが、あなたがそういうのならしかたない。しかし万能の薬草がなかったとしてもがっかりしてはいけないよ。きっとあなたはこの旅で成長しているのだから」
そう言われて彼女はきゅっと唇をかみしめた。そう、私はいろんなものを見て歩いてきた。薬草もそうだけどいろんな人に出会えた。そしてルイザ。今も病気で苦しんでいる。助けてあげなければならない。もし本当にあるなら万能の薬草で治してあげたい。
アイリスはソファから立ち上がるとすぐにでも出かけようと準備をした。それをムーラトが慌てて止めた。
「夜道は危険だ。今日はここに泊って行きなさい」
「でも」
いても立ってもいられない気持ちで彼女はいっぱいだった。
「そんな小さな女の子もいるんだ。あなただけじゃないことを考えないといけないよ」
そう諭され、アイリスは肩を落とした。パニーラはじっとアイリスを見た。
「とにかく食事だ。食堂へ行こう」
三人はムーラトの部屋を出ると、また長い廊下を渡って、大きな食堂へと入っていった。
食事は質素なものだったが、二人のお腹は十分に満たされた。ムーラトは陽気に笑って、おもしろい話を二人にふってれくた。
パニーラはきゃっきゃっと笑っていたが、アイリスの頭の中はドラゴンのことでいっぱいだった。
食事が終ると二人は部屋をあてがわれ、寝る準備をした。その時パニーラが言った。
「ドラゴンを探すの」
その声はどことなく大人びていた。
「分からないわ。でもドラゴンの意味することを探すことになると思う」
「薬草は探すの?」
「もちろん、薬草は今まで通り探すわ。でも頭の隅にドラゴンのことも考えないといけない」
「アイリス、大変」
「そう、大変なの」
そこで初めてアイリスは難しい顔をといて、にっこり笑った。
「さあ、明日は早いわ。早く寝ましょう」
「うん」
こうして二人は眠りについた。
次の日二人は朝早くに起きると、食堂に行き、食事をとり、ムーラトに挨拶をした。
「本当にドラゴンの薬草を探すのかい」
「ええ、その気持ちは変わりません」
「もし、もしだが、薬草が見つからず、お友達の病状がよくないようなら、私の薬草が役に立つかもしれない。その時は遠慮なく、また訪ねてきなさい」
「はい、ありがとうございます」
アイリスは感謝とともにお辞儀をした。
それから二人は身支度を整えると、ムーラトの屋敷を後にした。
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