第2話



 翌朝日曜日。静哉は普段通り七時半に目を覚ますと、自室のある二階から階段を下りる。

 もちろん朝食を作るのは友希なのだが、昨日の今日で少し不安があったのだ。

 幸い静哉の懸念は杞憂だった。友希の中で日課になりつつある料理を難なくこなすと、二人で揃って食べて身支度を整える。

 そして昨日友希に言われた通りの時間になると家を出た。

 家から街まで二、三キロのひたすら下る道のりは友希には過酷な障害だ。特に帰りは疲れているにも関わらず、無情にも下った坂道を上らなくてはならない。

 本来ならバスがあればいいのだが、通学時に使っているバスは静哉たちのように地元の辺境地域に住む生徒のための、高校にしては珍しいスクールバスのため平日のみの運行になっていて、残念ながら私用には使えない。

 家を出てから、友希のペースに合わせながらゆっくりと――とはいえ下りはまだ速いが――五十分程かけて街へと下りた。

 途中の坂道は、コンクリートで整備されているが、両側が木々に囲まれているだけの殺風景な景色が広がっている。傾斜が緩くなり平地になるに連れて少しずつ人が増え始め、さらに進んで建物が増えてくると、そこは人で溢れていて本格的に賑わっていた。

 街に入ってすぐのところにある市場からは店主の客を呼ぶ声が響く。デパートのような巨大百貨店こそないが食事処や家電売り場を始め、玩具店や理容店など専門の店が建ち並ぶ。

「んー、疲れたーー!」

 人通りの少なくなった公園まで来て、ベンチの一つに座ったところで友希は目一杯伸びをして額に滲んだ汗を拭った。

 この公園は街の近くということもあり大人数で遊べるよう、ブランコも多く、大きめのジャングルジムや砂場が敷地を最大限利用しようと設置されている。

 友希は疲れたと言っているが、友希の表情と声音にはまだまだ余裕がある。もしかしたら久しぶりに街まで来たことに浮かれているのかもしれない。楽しそうにする妹を見ていると微笑ましく思える。

「おにい、最初どこ行く?」

「うーん、それは……」

 ――それは友希に任せるよ。

 彼の言葉はこう続くはずだった。しかし、言葉はそこで途切れた。

 いきなり心臓を鷲掴みにされたような痛みと苦しみが静哉を襲ったのだ。

 直後、静哉の視界が刹那の間暗転し、次の瞬間、彼は何もない場所に立っていた。

「えっ……」

 いや、何もないという表現は適切ではない。周囲の景色はさっきまでと同じで、立っている場所は街の公園に変わりはない。だが決定的にさっきまでと違うところ、それは静哉以外の人が誰一人としていないのだ。

 今いる公園がいくら人通りが少ないとは言え、遠くには多くの人々が行き交うのが見えて賑やかな声ものここに届いていた。それどころか、今まで隣に座っていた友希の姿もない。

 静哉は動悸が早くなるのを感じた。何もない虚無感が孤独感になり、それが恐怖へと変わっていく。さらに突如として人がいなくなった現象に対しての恐怖が相まって彼の脈動をより早くする。

「おにいってば!」

 妹の怒鳴るような声が突然聞こえて、はっとした瞬間に静哉の視界は元の場所に戻っていた。

 怪訝そうに顔を覗き込んでくる妹の姿を、自分の双眼がはっきりと捉えると静哉は少し落ち着いた。

「どうしたの、おにい? 急に呼んでも返事しなくなるしさー」

 一体あれは何だったのだろうか。気付けば冷や汗をかいて肩で息をしている。

「……何でもない」

 あからさますぎる嘘に友希は怪訝な目で見てくるが、こういう時の女の勘という謎の能力は本当に勘弁願いたい。

 そんな願いが伝わったのか、友希は特にそれ以上詮索してくることはなかった。

「それで、どこから行くの?」

 若干いつもより声音が低かったような気もしなくもないがそこは気づかなかったことにしておく。 

 何度か深呼吸をしてまだ整わない呼吸を落ち着けてから改めて答える。

「それは友希に任せるよ。ここに来たいって言い出したのは友希だからな」

「分かった。ふふ、じゃあねー?」

 悪戯気な笑みを浮かべて友希は立ち上がると、そそくさと公園から出ていこうとする。

「おい、どこに行くつもりだよ!」

 静哉は少し嫌な予感を脳裏に過ぎらせながら慌てて妹の背中を追いかけた。

 近辺で一番賑わう街というわけもあって、休日の街はどこに行っても人だかりができていた。

 友希は自分の状態を懸念してはぐれないようにとさりげなく友希の方から手を繋いてきた。そんな二人は人だまりの間を縫うようにして奥に進んでいく。

 そのまま商店街のような通りに入り、また少し進むと今度は友希が裏路地に入り込んだ。

 黙って友希の行くがままにちょっと危なげな路地を抜けると、ある店舗が待ち受けていた。

「ここか?」

「そだよ」

 人通りこそ少ないが、また広めの道に出たことから恐らくここは裏通りだろう。

 見た感じこの街のそこら辺にある店とさほど変わらない。店の前の看板には大きく『vestiti』とローマ字て単語が書かれている。

「べす、てぃてぃ? 何の店?」

「それは入ってからのお楽しみだよ」

 それだけ言って店内へと入る友希を追って静哉も少々不満げではあったものの入店した。

 店内はまず何種類もの布地が展示してあり、そのどれもに値札がついて商品であることが窺える。

 しかし、そこで妹は足を止めることなくさらに奥へと進んでいく。

 すると、店の様子が一気に変わった。様々な種類の布生地だらけだった店内は、ある場所を境に急に飾り立てた洋服へと変化したのだ。

 店内の至る所に服が陳列され、カジュアルなものから華美なもの、スーツやドレスといったパーティーの時に着るようなもの、普通の普段着などオールジャンルの服が売っている。

 さっきの布生地を売っていた場所といい、この服のエリアといい、店の場所が裏通りにあるにも関わらず客は点在していてそこまで経営難には陥ってなさそうだ。

 静哉が周囲に意識を向けていると、いつの間にか友希の姿がなくなっていた。

「あれ……」

 妹の名前を呼ぼうとしたとき、すぐ傍にあった試着室の中から友希の声がした。

「おにい、見て!」

 試着室扉を開ける音に反応して振り向いた先にいたのは間違いなく友希だ。が、

「お、お前何してんだよ……」

「へへーん、どう? 似合ってる?」

 露出度高めでしかもフリルまでついたピンク色のビキニが目に入った瞬間に思わず目を逸らしてしまう。さらにその場で回転してフリルをふわりと浮かせるというオプション付きで。

 いくら兄妹だと言っても、健全な男子には目の毒だ。

 目を離したのは僅かな時間だったはずだ。なのにその間にどこからかビキニを引っ張り出して試着する速さは手馴れているとしか思えない。

「ちょっとおにい!? せっかくあたしがビキニ着てるんだからちゃんと見てよね」

「うっ……」

 言われた通り視線を友希に戻そうとしたが、だめだ。隠すとこだけ隠して後は露出する派手な水着を着て、得意げな笑顔を振り撒きながらポージングする妹を見た途端に気まずさだの、周囲の目を気にした恥ずかしさだの、様々な感情が入り乱れて視線を外さずにはいれなくなる。

 しかも、黒髪や白く華奢や肌にピンクがよく映えて似合っているからこそ尚更に、だ。

「あ、あぁ……似合ってる、とてもな」

「そ? やった! じゃあ次はこれを」

「ちょっと待て! まだ着るつもりなのか!?」

 乗り気で今度は水色に白の水玉模様の入ったビキニをどこからともなく取り出したところで、静哉はうんざりした表情を浮かべた。

 もうこれ以上は彼の方が耐えられない。

「えー、いいじゃん。夏といえばやっぱり海かプールでしょ! どうせここまで来たんだし、試着だけならタダなんだしさー」

「どうせ着たって泳げないだろ。だって……」

 言いかけたところで静哉はあっと口をつぐむ。

 今日は友希を楽しませるという目的もあるのだ。だから静哉の中で、友希が昨日倒れたことや、病弱なことに関する話題はタブーだと決めていたのだ。

 しかし、彼の思わず口走りかけた言葉はそれに反するようなことだった。もしこれで友希の気分が落ち込めば、遠い距離を歩いて街まで来た意味がなくなってしまう。

 もっとも、街に来たいと言い出したのは友希の方で、恐らく帰る頃にはぐったりと疲れきっていることだろうが。

 とは言え少々不安になったが、友希はそんなこと気にせず、

「ええー、おにいは私の水着姿見たくないのー?」

「いや、そういう問題じゃ……」

 静哉が返答に困っていると、友希はふふっと笑みを漏らした。

「ごめんね、おにい。ちょっとからかってみただけだよ」

「…………へ?」

「ちょっと待ってね。着替えてくる」

 ちゃんとした説明もないまま友希が再び試着室に入り待つこと一分弱。今度こそ着てきたジーンズにTシャツというラフな私服姿になって出てきた妹は試着していたビキニを返した。

 正直、静哉はまだ理解が追いつかず、頭が回っていないが、とりあえず店を後にする妹を追う。

「あれ、ここでは何も買わなくてよかったのか?」

 手ぶらで出てきた妹に素朴な疑問を投げかける。

「うん、ここはただおにいをからかいたかっただけだし」

 その返答につい苦虫を噛み潰したような表情をしたが、心底楽しそうな友希を見たらこれはこれでいいかと思ってしまう。

 そんなこんなで二人は楽しげに話しながら通ってきた危なげな裏路地ではなく、ちゃん人通りのある道を使ってメインストリートへと戻ってきた。

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