第1話

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「空って近くに見えるのに遠いんだよなぁ」

 山の中の少し目の前の開けた高台で、三波静哉みなみせいやは大の字になって夏の陽が傾き出した大空を仰ぎながらポツリと呟いた。

 足元にはここから一望できる街の様子が小さく映り、せっせと働く人々は小さすぎてほとんど見えない。

「…………どしたの? 天文学者にでもなったつもり?」

「曇って名前が決まってるけど、場所や見る人によって見える形って違うしなぁ」

「…………」

「なのに見えてるものは……ってうわっ!」

 いきなり視界いっぱいに顔が現れたことに静哉は驚きを隠せずに大声を出した。

 一つ下の高校一年生だがまだあどけなさが残り、人形のように品のいい整った顔立ちなのに頬をぷくりと膨らませて、拗ねたような目を向けてくる妹に静哉はすぐに落ち着きを取り戻す。

 起き上がって妹を向けば、肩下まで伸ばした黒髪が少々乱れ、潤んだ漆黒の目が儚く見える。

「どうしたんだ、友希ゆき?」

「むー、どうしたんだじゃないよぅ! さっきから声をかけてるのに無視しちゃってさー」

 再び妹の友希が頬をぷいっと膨らませるが、それはそれで愛おしく思えてしまう。

「悪い悪い。聞こえなかった」

「そんなわけないよー。私、結構大きな声で声かけてたんだよ?」

「ほんとだって。ボケーっとしてたらつい集中してしまってさ」

「むー」

 むくれてしまった友希を見て兄はつい頬を緩めて笑った。

「それよりさ、友希何か用か?」

「用って程じゃないけどさ……。おにいが中々帰ってこないから」

「お? 心配してくれてたのか?」

 ちょっとからかってやると友希は顔を紅潮させてしどろもどろになる。全く、こういう反応を見せてくれたらからかいがいがあるってものだ。

「おにいっていなくなった時は大体ここにいるから」

「いい場所だろ? 風が気持ちいいし、ちょっとだけど空も近くに感じる。街の方とは違って不要な雑音も入らない。ここにいたら自分だけの世界に浸りこめるんだ」

 そう言って静哉は再び街の方を向いて両眼を閉じた。

 すると、僅かに体を揺する穏やかな微風が山を吹き抜けて消えていく。

「うん。確かにいい場所だけど……。一声ぐらいかけてくれたっていいじゃん……」

 後半は独り言のように呟いたのだったが、しっかりと静哉の耳にまで届いた。

「もしかして、心配してくれたのか?」

「おにいのバカ」

 二度目のこのセリフを言うと、今度は黒髪をたなびかせてそっぽを向く友希の反応からして、そろそろやめておいた方が良さそうだと判断した静哉は「悪い悪い」と謝ってから妹に歩み寄った。

「そろそろ帰ろっか」

「……うん」

 静哉の提案に妹は素直に従って、彼にギリギリ聞こえる声量で返事をすると、兄は妹の肩に手を回して、穏やかな風が吹き込む山の中を家に向かって歩き出した。



 山から出て少し坂を下ったところに茶色っぽい外装に、黒い屋根の家が一軒だけぽつんと建っている。これが静哉と友希の兄妹が住む家だ。

 ここは街から離れた山の麓にある高台で、出かけるには不便だが、自然は豊かだし、静かだし、電気や水道にガスも全て通っているので生活する上で困ったことは何一つない。

 二人は家に入るとリビングに直行しソファに腰を下ろした。そして何気なくテレビを点ける。

 画面の中では若い新人と思しき女性アナウンサーが原稿を読んでいる。


『次のニュースです。今朝未明、都内の病院に入院中だった三十代の男性が、感染症によって亡くなりました。病院関係者によりますと、男性が亡くなる直前に、幻覚や幻聴の症状があり、心臓発作が起こったとのことです。なお、感染当初から幻覚や幻聴と言った症状は僅かながらあったと言われています。同様の症状は世界各国で確認されており、国内でも千件以上の報告がされています。今回の件も最近猛威を振るっている《幻想病》によるものだと思われています。現在、《幻想病》による死者は世界各国で数十万人にも……』


「多いよね、最近」

 一緒にニュースを見ていた友希がうんざりとして呟いた。

「《幻想病》、か。この辺では全く聞かないけどな」

 ――《幻想病》。

 幻覚や幻聴を聴くという特徴から付いた名前らしい。このニュースが流れ出したのはほんのつい最近、具体的には一ヶ月ほど前からだ。そのために対処法や治療法と言ったものはまだ発見されてなく、感染してしまった場合、高確率で死亡に至っている。

 この病気は明らかに異常だ。いくら流行しても世界的に数十万人もの死者が出るはずがない。それも、僅か一ヶ月で。感染源が何か、感染力がどうなのかなど、詳細すら発見されてない現状、《幻想病》は全世界の人々から恐れられている。

「さ、そろそろ夕飯の支度するね。おにい、何か食べたいものある?」

 ニュースのせいで重くなりかけた雰囲気を振り払うかのように友希は明るい声で訊きながら立ち上がった。

「うーん、じゃあ、ハンバーグで」

「はーい。楽しみにしててね」

 笑顔を振りまきながら友希はリビングの奥にあるキッチンへと消えていった。

 正面を向き直ればテレビの画面ではもう別の番組へと変わり、夕方のアニメが放送し始めている。

「んーーーー」

 大きく伸びをしてソファに倒れ込むと直にキッチンから手際よく包丁を捌いて何かを切る音が聞こえてくる。それから間を置かずしてハンバーグのいい匂いがリビングにまで漂い始めた。

 匂いにつられて静哉が空腹を意識しかけていると、彼はふと重要なことを思い出す。

 その直後、キッチンの方から何かが落ちるような大きな音が耳に届いた。

「友希!?」

 慌てて立ち上がり、キッチンに駆け込むとそこには床に崩れ落ちている妹の姿があった。

「おい、大丈夫か!?」

 静哉が表情を引き締めて緊張感のある声音で叫ぶと、友希は手をついて震えながらも力を振り絞ってゆっくりと起き上がる。

「うん……大丈……夫…………」

 たったそれだけの動作なのに、友希の額には汗が滲んでおり、顔色は青白く表情も深刻なものになっている。誰がどう見ても大丈夫なわけがない。

「そんなはずないだろ! ただでさえお前は俺を探しに来るのに少し無理をしてるんだから」

「……それは、おにいのことは放っておけ……ってこと?」

「いや、そういうわけじゃないけど……」

「とにかく、家事は私がやるからおにいは待ってて」

 友希は静哉の言葉を無視して言い切ると、フライパンに乗っている焼きかけのハンバーグをひっくり返した。その立ち姿は意地を張って強がっているようにしか見えないが、恐らく何を言っても妹は耳を傾けないだろう。

 友希は、生まれつき体が病弱なのだ。世間一般では何ともないただの風邪でも、友希は入院を余儀なくされるほど抵抗力や免疫力が弱く、傾斜の緩い小さな山を少し登っただけでさっきのように貧血を起こして倒れてしまうことがあるほど運動能力に乏しい。

 なのに友希はそんな皮肉な運命を憎みはしなかった。むしろ自分に刃を向けた運命を受け入れ、彼女は彼女なりに与えられた人生を楽しんでいる。

 心配げな眼差しを送り続けていた静哉だったが、しばらくしても再び倒れてしまうことはなく、普段の慣れた手つきで手際よくハンバーグと同時にサラダやスープを作っていく妹に僅かながら安堵して彼は踵を返した。

 それからしばらくして、静哉がソファの上で横になりながら呆然とテレビを見ていると、キッチンから皿を持った妹が顔を出した。

「おにい、できたよー」

 表情にはいつもの笑顔も浮かんでおり、きっと倒れたことも大丈夫なのだろう。――強がっているだけかもしれないが。

「おう。分かった」

 静哉がテーブルに座って待っている間に友希はせかせかと動いて二人分の夕食を卓上に並べた。

 どうやら今晩の献立はハンバーグにふかし芋、オニオンスープ、温サラダの四品のようだ。特段豪勢というわけではないが、このぐらい普通な方がどこか落ち着く。それに、友希の料理は量より質だ。

「いただきます」

 二人揃って手を合わせて唱和すると、早速静哉はメインのハンバーグに箸を伸ばす。

 口に入れた途端、口一杯に広がる肉汁と肉の柔らかさが絶妙だ。これなら半端な店で食べるよりよっぽどいい。

「うん、美味しい!」

「そう? よかった~。今回はいつもより牛乳をちょっとだけ多く入れたんだ」

 そこからは会話をすることすら忘れてひたすら静哉は夕食を平らげた。そんな姿を友希は満足げな笑みを浮かべなからゆっくり食べ進めた。

 二人ともが食べ終わると、片付けは静哉も手伝うと申し出たのだが、やはり「私がやる!」と聞かなかったので仕方なくまたソファに陣取る。

 キッチンから水を流す音と共に、妹の上機嫌な鼻歌を耳にしながら休んでいると、テレビでは再び《幻想病》のニュースをしていた。見るからに、食事前に見た内容と同じ件だろう。

 しかし、これだけ騒がれているのに、静哉たちの近くでは全くそんな兆候はない。だからどうしても今騒がれている内容はどこか遠い世界のことに思えてしまう。

 いや、実際に現状では遠い世界のことなのだ。世界的に騒がれていたとしても、必ずいつかは治療法や治療薬、予防法が開発され、事態は落ち着いていずれ話題は薄れていくに違いない。

「ねぇ、おにい」

 静哉が思い耽っていると、いつの間にか片付けを終えた友希が背後から声をかけてきた。

 完全に気を抜いていた彼は反射的に身を強ばらせる。

「? どしたの、おにい?」

 妹の顔を見て謎の安心感を抱いて大きく息を吐く。そんな兄を友希は怪訝そうな目で見た。

「あ、い、いや、何でもない。友希こそどうかしたのか?」

「えっとね、明日街の方に行きたいんだけど、いいかな?」

「……いいよ。分かった。」

 二人の住む家は小さな山の麓にぽつんと建っており、買い物などへは一々街へと下りなければならない。親がいる時は車に乗って一緒に連れて行ってもらってたのだが、十年前の事故で両親を失ってからは歩いていくしかない。友希が頑なに家事だけは自分でしようとするのも、両親が亡くなってからのことだ。

 両親を亡くした時、静哉と友希は小学一年生と幼稚園児。二人は偶然通りかかった優しい中年の男性に拾われ、そこで中学まで通っていた。だが、静哉が高校に入学すると同時に、取り壊さずに残していた家に戻り二人で生活を始めたのだ

 お金については心配ない。両親が遺していたお金が数年間は生活できるだけの額が貯蓄されていて、しかも叔父と慕っていた男性から毎月仕送りされてくる。

 友希が家事を自分がすると聞かなくなったのは二人きりで生活を始めたと同時だった。

 当然、買い物も家事だと言って自分で行こうとするのだが、これだけはさすがに一人でさせるわけには行かないので、静哉も一緒ならと、条件付きで認めている。だから時々、こうして友希から街へ誘われることがあるのだ。

 ちなみにだが、二人の通う高校へはバスが出ているため問題はない。

「やった! じゃあ明日は九時だよ」

 満面の笑みを浮かべてドタバタと走って二階へと走っていく友希の足取りは軽く、足音だけで妹の機嫌がいいことが読み取れる。

 正直な所、友希は約一時間前に倒れたばかりなために一日は休養を取って欲しいが、妹の弾けるような笑顔を見せられては自分の判断は間違ってなかったように思えてきてしまう。

「ま、いっか」

 開き直って逆にすっきりした様子で呟いた静哉の声色には諦念も混じっていた。

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