第20話

「あー、疲れた」

 広々とした高御殿(たかごてん)。壁はなく、細々とした建具があちらこちらに設えられている。

 確かに、小鳩が言った通り、帰ってきたら日和の頭ははっきりとした。風邪を引いていたようだが、姉様達がたくさんおいしいものを食べさせてくれたので、すぐに治った。父様には「どーこ行ってたんだぁ? もおぉお! 心配したぞお!」と頬ずりされたが、宴の席だったので他の神達にやんやと囃され、恥ずかしくなった少女は「髭が痛い~」と文句を言って父様から離れた。

 それで。

「……もう、三日くらい経つんですけど」

 帰れない。帰ろうとすると、あちこちから父様が配置したであろう、眼光鋭い衛兵達に止められてしまう。やむなく、御殿の端の方の部屋で、外を眺めた。

(いざとなったら、衛兵なんてまいて逃げられるんだけど……あんまり本気が出ないんだよね~)

「うぅーん。爺(じい)も来ないし」

「あらやだ、日和。衣がくずれちゃってる」

 美しい声音に、日和は振り返った。

「網代(あじろ)姉様~!」

 目元にくっきりとした化粧をほどこした網代が、にこりとして入ってくる。

「姉様、阿智火(あちか)姉様は? いつもは一緒にいるじゃない?」

「内緒。……まぁどうせすぐに分かることだから教えてもいっかな。あの子は、一目惚れした龍神のところに押しかけるから、最近は不在がちでーす」

「わー。いつも網代姉様と並んで、でも網代姉様よりずうっと無口ににこにこしてたのに、すごい行動力があったんだね~。楽器も上手だから、きっといい楽団員になるよ」

「龍神のところの楽団に入ったとか、そういう意味じゃなくてね……?」

 網代はため息をつきかける。

「ま、今日はその話をしに来たのではないのよ。お前、人間の世に遊びに行ったきり戻ってこなかったみたいね?」

「うん。みんな知ってるの?」

「知ってるも何も。父様は元々、お前が戻ってくるのを口実に宴会を開いているんだもの」

「爺が言ってたのって本当だったんだ……」

 網代が、日和ににじり寄った。上背のある網代に見下ろされ、日和は少し怯む。

「で。どうして戻ってこなかったの? 変態に捕まえられてた? お前は優しいっていうかのんびりしているから、閉じこめようとしてくるヤツを返り討ちの半殺しにしそびれたの? 代わりに姉様がやってあげようか?」

「違うよ。変態じゃなくて六葉だし、半殺しも何も、私、別に大変なこともさせられてないし閉じこめられてもなかったよ?」

 日和は思わず非難の口調になった。

 どうして皆、同じようなことを言うのだろう。

「阿智火姉様だって、自分の意志で龍神のところへ行ったんでしょう? じゃ、私だって自分で六葉のところにいても、おかしくないよ」

「だってお前が人間なんかと一緒にいるのが、不可思議なんだもの。お前は社の前で猫だの小鳥だのと喋ってるだけで、あんまり人の子に興味がなかったでしょう」

「なくはないよ? でも、話をすることもなかっただけで……」

「その、木っ端微塵だか何だか分からない子の、何がいいの」

 悪意を感じる呼び間違いだ。日和はちょっと苦笑いする。

「六葉だよ。だって、必要だって言われたもの」

「私だってお前が必要よ!」

「だって姉様達は、何か違うもの。家族だもの」

「家族ねえ……六葉とやらの何がいいのかしらねえ」

 日和に抱きついてから、網代は数度ため息をつく。

「うーん。そういえば阿智火なんだけど……言うつもりはなかったんだけど……さっき裏口で出会ったのよ。実は、今は帰ってきているの。久々に一曲、聞いてやってくれる?」

「うん、いいよ! 阿智火姉様の楽曲って、すごく綺麗で、気持ちがいいよね」

 網代に促され、日和は建具の脇を通って、隣の部屋に行く。室内にいた女が声をあげた。

「あらあら! 久しぶりの顔ねぇ」

「姉様~!」

 柔らかな栗色の髪の女が、にこにこと日和を出迎えた。鮮やかな衣の袖はいい匂いで、日和は相手の変わりない姿にほっとした。

「姉様元気?」

「よかった、日和、元気そうねぇ」

「阿智火姉様も……あれ?」

 日和は阿智火に抱きついてから、阿智火以外にも、誰かがいることに気がついた。

 見知らぬ相手だ。

 子どもっぽく姉にしがみついていたのを見られて、恥ずかしくなる。

「あの……初めまして」

 挨拶すると、ゆったりと座っていた女が、こちらを見て婉然と笑む。

「こちらこそ。可愛いらしい姫君にお会いできて光栄です」

 囁きだけで返事をされた。

「えっと、声が出ないの? 風邪ですか?」

「えぇ、まぁ」

「私も引いてたんですけど、いっぱい食べて寝たらすぐ治りましたよ! ゆっくりしていってくださいね」

「……お前は誰にでもそうなのか」

 相手がぼそりと何か呟いたが、よく聞こえなかった。

「何? あっ、そういえばお名前を聞いてなかった。私は阿智日留間神(あちひるまのかみ)と尾乃栄江売根女神(おのさかえのうねめのかみ)の娘、日和と言います」

「先程、姉様方からおうかがいしております。私のことはどうか、世の花とでも」

 網代が、手酌で飲んでいた酒を吹き出した。

「網代姉様、大丈夫? むせたの?」

「いいから、こっち見ないでいいから」

 しっしっと追い払われた。阿智火も頷いている。怪訝に思いながらも、日和は世の花と名乗った女に視線を戻した。

「えっと……貴方は、花さんですか?」

「……それでよいです」

 花は少し居住まいを改めた。

「このたびは曲を進呈いたしたく」

「あっ、はい。お願いします」

 流しの楽人なのだろうか。そうであれば、阿智火と一緒にいたのも分かる。阿智火も楽人で、とても上手なのだ。彼女の連れなら、きっと上手いに違いない。

(私がしょぼくれてたから、姉様達が呼んでくれたのかな?)

 楽曲で気分転換になれば、と、姉達は気をつかったのかもしれない。

 花が琴をつま弾く。

 春の曲だ。明るくてぽかぽかした日向みたいな音。それでいて、まだ少し凍えていた川が溶けだすような曲。

 流れるような楽曲に、網代も阿智火も目を閉じた。

「あぁ悔しいわ……楽器も上手だなんて」

「阿智火姉様、どうしたの?」

「気にしなくてよいのよ」

「そうそう、私達が個人的に板挟みで悶えてるだけで」

「板挟みって何?」

 また、網代と阿智火から追い払うような仕草をされた。ちょっと傷つく。

 一曲終えた花は、頭を垂れる。

「ありがとうございます、落ち込んでたのがちょっと楽になりました」

「落ち込んでおられるのですか? 私でよければ、お話だけでもお聞きしましょうか」

 親身な口調に、日和は思わず、ぽつりと漏らした。

「私、帰らないといけないんです」

「帰る?」

「事情があって、ちょっと人にお願いされて行ってた、場所があって。でも、私、役に立つわけでもないし、別にいらないみたいな気もして。最近もやもやしてて。爺は、私が神の本分を忘れて神落ちしかけてるから気持ちが変なんだ、って言ってて、じゃあ、こっちへ戻ってきたら治るかなって思ったんだけど……」

「まだ、もやもやする、と」

 日和は頷いた。花が静かに見つめてくるので、つい話しやすく思えてくる。

「何でだろ。私ばっかり悩んでて、六葉は何ともないんだろうなぁ」

「……その方は、お知り合いですか」

「六葉? えっと……何ていうか、悪い人じゃないんですけど、私のこと神だと思ってなくって。でも、すごく真面目で、ちゃんとしてて。仕事が好きなのかな?」

「……ほう」

(何だろ、花さんがうつむいてる)

 神だと思っていない、という下りがまずかったのだろうか。日和は慌てて手を振り回した。

「あっあの、六葉は悪い人じゃないです! 私のこと必要って言ってくれた人は初めてだし、姉様達みたいに機織りとかゴミ拾いとか教えてくれるわけじゃなくて、私も何かあったときに自分のできそうなことをすればいいっていう感じの、雰囲気で」

「私達、ゴミ拾いとか教えた覚えはないんだけど」

「網代、網代。もしかしてだけれど」

 日和の近くで、外野が囁きあっている。

「貝殻拾いのことかもしれなくてよ……」

「えっ。紅葉狩りで葉っぱを拾ったりするやつも?」

「そうかも」

「姉様達!」

 日和は思わず赤くなった。

「どうせ、どうせ私はそういうの、分かりません!」

 花が少し身を起こして、笑い気味に口を開いた。

「まぁ、人それぞれですから。貴方が高位の女神の趣味を真似て、その面白さが分からなくても、他の趣味があればよいではありませんか」

「えっ、微妙にばかにされてる……?」

「いいえ。こうしたものは、可愛らしいとお感じでは?」

 花が小さな紙包みを取り出した。姉達が素早く、「毒かしら!」と割って入る。

「姉様ったら。毒って、私に盛ってどうなるの?」

「どう、って」

「私が死んだところで……誰か得するの?」

 しばし姉達が考えている。冷静になったらしい。

「しないわね……でも、いくら、神や人のいざこざに関係がなさそうな末子とはいえ……貴方に何かあったらと思うと、私達は心配なのよ?」

「うん。ありがと」

 紙包みの中身を見せてもらうと、小型の干菓子だった。琴や鈴、鞠、青紅葉など。

「わ。可愛い」

「差し上げますよ」

「えっでも、貰う理由がないよ」

「貴方に元気のない理由を、教えていただきましたから」

「? それが、何なの?」

 花が微笑む。目元は、かぶっている薄衣(うすぎぬ)のせいではっきりとは見えない。けれど、どこか、懐かしい。

「何だか、花さんは知り合いに似てます」

「そうですか。でしたら、貴方の知り合いに代わって私が申し上げます」

「……何ですか?」

 ひた、と、視線がかち合う。

 びっくりするほどまっすぐで、何だか落ち着かない、けれど、腑に落ちる感じもする、眼差しだった。

「知り合いの方は、当初、貴方のことを必要でいたのでしょう? でしたら、まだきっと必要ですよ。本人から、お役ごめんを言われたことはないのでしょう」

「うん、だけど……」

「貴方は多少、底が抜けて明るいところがある。それゆえにか、かえって闇を恐れる。その知人が行くのであれば……闇の中であっても、ついていくのでしょうか?」

「うん……そうかも。この前、仙人にも会ったよ。自分一人だったらあんなことなかったし。六葉がいれば、大丈夫かなって思うから。面白かったかも……」

 姉達が「ま!」と睨んでいる。

 花が口元をほころばせる。

「でしたら、その方も、闇の中で連れがいて心強うございましょう。ちなみに、その方のことは、好きですか?」

「うん! でも六葉はどうなのかな」

「大丈夫ですよ。人は鏡のようなもの。好意と信頼を無碍(むげ)にする者などおりません」

 日和は違和を感じて振り返った。姉達が後ろから、衣を引っ張ったり髪をつついたりしてくるのだ。

「もう! 姉様達は落ち着いてくださいったら!」

「だって! 何なの? こんなにちびっこで可愛かった子が、何なの? もっとかっこいい、ちゃんとした神の彼氏くらい、いくらでも姉様達が見つけてあげるのよ? どうして人間なんかにかまけるのよ」

「彼氏とかよく分かんないけど……彼氏より、今は、お仕事です!」

 言い切ってやった。日和は清々しい気持ちで、笑みを浮かべる。

「……お仕事ね……」

 心なしか、花の笑みも萎れた気がする。

「あれっ? 私、何か間違えたんですか?」

「いえ……」

 花が気を取り直して、新たな楽曲を二、三曲弾いてくれた。

「花さん花さん。ありがとう、何だか元気が出てきたみたい」

「そうですか。知り合いの方も、貴方の戻りを心配して待っておられますよ」

「うん、ありがとう……ほんとに待ってるかなぁ……何だお前誰だって言われないかな」

「大丈夫」

 花が、琴越しに手を伸ばす。姉達が慌てて飛び出そうとするが、花の手が届く方が早かった。

「失礼。花びらが」

 少女の額に、宴会でばらまかれていた花弁がついて、残っていたらしい。

「あっ、ありがとうございます……」

(? 何だろ。今。胸がどきどきしたけど)

 首を傾げる日和の後ろで、姉達は地団太を踏んでいた。

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