第17話
*
(何あれ何あれ!)
物の怪だろうか。分からないがとにかく驚いた。普段、神とはいえわりと人の形に近い親戚ばかり見ていたから、人の形の一部分だけが動いているのは、怖かった。
恐怖が追いついてきそうで、どんどん怖くなる。何に追われているのでもないのに、日和は全速力で走る。通りすがりに男女が衣を吹き上げられて「きゃっ」と可愛らしい悲鳴をあげて転倒したが、そんなものは見えていなかった。
「何だ」「何があった」「どうも、どこかの式神か何かが暴れている」「誰だ」
ざわざわと不穏な騒ぎが広がっていくが、全速力で駆け回る日和には、何一つ聞こえなかった。
「いたか!」「そっちだ!」「何とすばしこい」「捕まえろ!」「何とかしろ!」
「はあ、はあ……」
走り疲れて、どこだか分からない、建物の中で倒れ込む。
「ここ、どこ……」
走れば走るほど、頭だけとか足だけとか、トカゲの胴体だけとか、怪しげな木の板(人間の形にくり貫かれている)がいっぱい積んであるとか、変なところに出くわしてしまった。ここは、化け物屋敷だった。
いい加減に、帰りたい。
橘の下に戻るより、家に帰りたい。六葉に会いたい。
「うえっ」
泣き出しかけたが、近くに気配を感じて、日和はのそのそと起きあがった。
(また、髪の毛だけがずるずる巻いてあるやつだったらどうしよう……)
物の怪ではなく怪しい道具らしき物体について思い返すと、吐き気がしてきた。あれには毛根がついていた。生きている人間からむしったのだろうか……。
(うっ、これ以上思い出しちゃだめ)
小鳩は人間の世など下品で醜いと言うけれど、確かに気持ちの悪いものがたくさんあった。
(六葉~帰りたいよ~)
「あのっ……」
いざとなればまた走って逃げよう。
そう決めて、道を聞こうと思って、気配のする方へ踏み出した。
「あ」
(失敗した、かも)
すごくまずいところに出た気がする。
周囲の御簾も、心なしか飾りが多い。円陣が組まれていて、数人、険しい顔つきの男達が座っている。全員、話をぴたりとやめており、そして、誰一人、こちらを見ようとしなかった。
「失礼」
一人、中肉中背の男が立ち上がる。壮年だが、静かで、やけに重心が低い。武器らしきものもないのに、日和はとっさに、殺される、と怯んでしまった。
日和は御簾からはみ出して、じりじりと後ずさる。
男がそのまま廊下へ出てきて、髭に隠れていた口が、某(なにがし)かを謡いきった。同時に、御簾の向こうの気配が消える。
「しばし、他の者の目を絶ちました。ゆえにどうか恐れられませぬよう」
「え……?」
どこか慇懃で威圧的ではあるが――それでも、こちらに危害を加えるつもりはなさそうだ。距離を保って、こちらが話すのをじっと待ってくれている。
「……私、あの、迷って」
「さよう、先程から足の速い者が迷い込んだと、屋敷の者が騒いでおりました。その様子では、分からぬとはいえ屋敷の者が失礼をしたに相違ございませんな。許してくださいませ」
壮年の男が、目を伏せ、膝を突く。
「やめてくださいっ!」
(貴方が誰なのかも知らないのにっ)
日和は慌てるが、男は平静に、鷹のような目でこちらを射抜いた。
「いえ……そもそも、私どもは貴方がたの前に立てぬことの方が多いのです。ご存じのはず。日の神の末の子」
「知っ……」
「息子がいたらぬ者で、ご不便をかけさせておりましょう……」
「息子って……え? 六葉の、お父さんなの……?」
謝罪されているようだが、ならばどうして、こんなに、逃げ出したい気持ちになるのだろう。相手の口上ばかりが丁寧なだけで、実際には威圧感が強すぎるせいだろうか。
「名乗ることを許してくださいますか。私の名は一ノ瀬四具波(いちのせしぐは)。不肖の息子は、貴方にとって不都合がございませんか。不自由な思いをさせているのではありませんか。どうか私めに何なりと申しつけてくださいませ」
(私、そこまでされるいわれがない)
日の神の娘とはいえ、自身にできることは少ない。もてはやされるような者ではない。だが、六葉の父親にとっては違うらしい。
日和が、日の神と、繋がっているからだろうか。
(そうだ。私じゃない……神っていうだけで、この人は私の後ろに、他の神のことを見てるんだ)
日和は、ぐっと手に力を込めた。こわばりかけた口を、必死に動かす。
「あのっ、六葉はとてもよくしてくれてます。私、ご飯も寝床も困ってないし、怖いこともありませんから平気です」
だから、この屋敷に移ってくることなどしない。
(伝われ~)
怖かったが睨み返していると、相手がふっと気を和らげた。
「都は物騒です。加西といい、神さえ害する者がいる始末。息子の元では危険もありましょう。いつでも、気が変わられたらこちらの屋敷においでください。私めにできることであれば、手を尽くさせていただきますゆえ」
(加西、って、ヤモリ事件のときの人?)
男は視線を外し、立ち上がって丁寧な辞去の礼を取る。再び某(なにがし)か唱えると、先程の御簾の向こうへ吸い込まれた。あまり追いつめても哀れだからな、と呟きが聞こえたような気がして、命拾いしたのかなと日和は思った。
「でも、どうせなら六葉のいるところまで案内してくれたらよかったのにな……」
あの男は怖い人だったが、当座の困りごとくらい解決してくれたら、見直せたかもしれなかった。
ひとまず、日和は御簾とは逆の方へ向かって歩き始めた。
歩くうち、炊事場の側を通り抜ける。六葉の家で見るような、陰の薄い女や男らがいて、豪勢な食べ物を食器に盛り合わせて、半分透けながら運んでいく。
「あの」
冷たい板床を踏んで、日和は、柱の側にたたずむ者に声をかけた。
「ここの、ひとですか?」
相手は気づかない。うつろな目で、土色の肌で、表面がぶよぶよと波打っている。その手足はのっそりと平たく垂れ下がり、一応人間めいた衣を着せられているが、ほとんどが破れ、体が露出していた。
「あの!」
大きめの声で話しかけると、ようやく相手が振り返った。のったりと、こちらを見やる。
「お前は……?」
「あの、六葉を知りませんか」
「六……」
途端に、相手がぶるりと身震いする。
「ア、」
「この、家の、にんげん」
横から、別の者が口を挟んだ。全身に鱗があり、目は布で巻かれている。
不思議な、香木のような匂いがする。でもむせかえるほど煙たく、臭くもある。近づきづらくて、日和の足が一歩引いた。
「じゅつしゃ」
「術者は、式神の、あるじだ」
それぞれ、はっきりとそう言った。
「貴方達は、式神なの? 物の怪だよね」
「そう」「そうだ」
「仕事を頼まれてるの?」
「やりたくも、ない、つまらない、おぞましいことを、人間は、考えつく。お前も、まだ、ここへ来て、日が浅ければ。隙を見て、逃げ出すが、いい……」
「おれたちは、逃げられない。だが、ここの、六のつく息子は、あまり、人を、呪い殺さないと、聞く」
「泣いてすがれば、離して、くれるかも、しれん」
「そんなに、怖いことをさせられてるの……?」
(呪い殺す、って?)
想像しようとして、相手の震えが移ってきてやめる。
「お前は、逃げろ」
物の怪は、眼光鋭く、そう言った。
「でも、私は六葉を探してて……」
「お前だけでも、逃げ、」
物の怪達が、急に口をつぐんだ。視線をさまよわせ、のろのろとひざまずく。
彼らの視線を辿って見れば、足音もなく、近くに、別の人影が立っていた。
「そなた、何を話しておる」
上から投げおろすような、強い物言い。
六葉と似たような衣のくせ、上から緋色の衣をかぶっている――それは男のなりではあるが、明らかに女性だった。
(すごく、綺麗、だけど)
何だろう。少女は自分の腕を、それぞれ逆の手で掴んで押さえ込んだ。
(怖、い)
威圧感が凄まじかった。自然と足が折れてしまう。清浄なものではなくて、もっと、もっと、まがまがしくて。異様だった。
(このひと、人間、だよね?)
それほど、暗くて重たい気配だった。先程の、六葉の父親とはまた別物だ。
物の怪か、それとも――落ちた神か。人の世にいすぎて、本分を忘れて錯乱する神がいる。そのぐらい、女の気は暗かった。
(これ……でも、違う、たぶん、人間だ)
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