第10話

「私が勝つに決まってますわ!」

 ふふんと笑って、小萩は沢を下っていく。

 社周辺の山の中で、いくつか霊気の流れのよい場所を押さえておき、そこから効果的に鎮めの術を使う予定だった。あの子狸には、とうてい無理な方法である。

「――あら?」

 上機嫌だった小萩は、途中で異変を察して足を止めた。

 急に、水の色が変わっていた。

 沢が赤い。

 小萩は巫女だが、元々、陰陽師の家系である。いくつかの札を取り出して、身構えた。巫女舞は場の形成に時間がかかる。いざというときは、陰陽師の術のほうが早いものだ。

 甘いような苦いような、薬と甘みの混ざった匂いが、沢から流れてくる。

「おや……申し訳ございませんねぇ、薬を調合しておりまして」

 沢の側。緋色の衣を肩にかけて、長い睫毛越しに、誰かがこちらを見返った。

「……お前、」

 一瞬、女と見間違えた。だが、しなだれるような柔らかさもすべて演出で、当人は男だった。

「小萩様。仏に仕えると言って家を出た、貴方の兄上はお元気ですか?」

「私より、お前の方が知っているのではなくて? お前も、官庁勤めでしょう。加西」

 小萩は声を鋭くする。

 小萩の兄は、帝に仕えている。仏の慈悲として術を使い、ふざけた態度のくせに、参謀殿と謡われるほど優秀なので、始末に負えない。だが、そんな彼でも、自分にとっては兄であり、不気味な術には手を出さないことは確かだった。

 今、目の前にいる輩とは――悪食で有名な加西とは、まるで違う。

「まぁ、それもそうですが」

 警戒されても構うそぶりもなく、加西は肩をすくめた。

 小菊は加西に気を取られていたことに思いいたった。そうだ、そんなことより、彼はいったい何を洗っているのか?

 水は透明で、赤い色はゆらゆらと、夕暮れの幕がかかっているように流れていく。

 見極めようとしたが、下草も濃く、薄暗くて、判然としなかった。

「して、小萩様。なぜこのような場所においでなのでございましょう?」

 加西の、鮮やかすぎる赤の唇が、ゆうらりと半月型にゆがめられる。

 ぞっとして、小萩は己の片袖を握りしめた。

「お前に用などなくてよ」

「それは存じております。小萩様と逢い引きの予定などございませんでしたもので」

(まずい……近づきすぎですわ)

 小萩は退路を確認する。沢は登る方が時間がかかりそうだ。加西が沢に手を浸したまま、くすくすと笑い声をあげる。

「そう警戒なさらずとも、取って食いやいたしません。力の少なき者を食っても、何の得にもなりませんし」

(この、美しくて可愛らしくて、霊気の強い私を掴まえて「力の少なき者」呼ばわりとは!)

 腹を立てたが、下手に口に出してもいられない。隙を探る。

「先程、一ノ瀬様がおられたようですが」

「だったら、何?」

「小萩様はお美しい。なぜ、思いの相手が答えぬのでしょうね」

「そんなの、お前にはいっさい関係がなくてよ!」

「それはそうですが。一ノ瀬様は目が曇っておられるのかもしれません。物の怪に騙されているのかも」

「……六葉様を侮辱するのは、この私が許さない」

「おや、まぁ!」

 加西が、ばしゃんと水面を叩く。鮮やかな緋色が飛び散った。

「小萩様はそれほど真面目であるのに、意中の相手は冷たいまま。さぞかし心折れましょう。少し私が手をお貸ししましょうか? 人の心が素直になる薬がございましてねぇ……」

「! 一瞬でもぐらつきかけた自分が許せないですわ」

 憤慨しながら、小萩は近くの藪へ飛び込む。加西が微笑んだまま、即座に呪符を放ったからだ。

「お前などにいいようにされてたまるものですか!」

 藪を抜けて下流へ逃れるつもりだった。だが、

「あっ!」

 沢が近いため、足下が崩れやすい。左足が、崩れた土くれに引っかかる。拍子に呪符を取り落とした。これでは攻撃も防御もできなくなる――。

「くっ」

 人魂のようなものが飛びかかってくる。小萩は袖で必死に追い払った。

 小萩は続けて、地帯の守護の神の名を叫んだが、救いがあったかどうかを確かめる前に、意識を失った。

「こんにちはー」

 日和は、神舞用の神殿の裏手に声をかける。辺りには、人間どころか神の姿もなかったけれど、先程小萩が下の社で舞っていたせいか元々なのか、清浄な気が満ちていた。

 今ここには、日和一人しかいなかった。

 六葉は、神殿を見るや、忘れ物だと言って引き返してしまった。日和は待っていろと言われたので、一人で「調査」するつもりでいた。

「誰か、いませんかー?」

「ほ? 何じゃ」

 誰もいなかったはずなのに、急に老人が現れた。頭が、日和の背丈の半分くらいの位置にある。真っ白な髭に、顔の半分以上を覆われていた。

 酒臭いと思ったら、中身の入った杯を持っていた。

「あの、さっき人が舞ってたけど。聞いてました?」

 日和は思わず呆れた声を出してしまった。

「聞いておったぞ! 何じゃ、お前日の神の娘か。ちょっと眩しいぞ。光量絞れ」

「あ、すみません……えっと、私そういうこと言われたこと、あんまりないんですけど。そんなに眩しいの?」

「さっきまで暗闇お触り大会だったのじゃ。目がまだこっちに慣れぬ」

 ろくでもない宴会をしていたようだ。日和はとりあえず話を進めることにした。

「この辺りに、大嵐が起きるって聞いて来たんですけど、ご存じですか」

「ご存じも何も」

 まさかお前か、と疑いの眼差しを向けていると、

「上の社の、風神であろう」

 髭を撫でながら、老人が答えた。

「若い巫女の裳裾がめくれるのは構わんが、出たばかりの花芽まで皆吹き飛ぶから、この時期はやめてくれと言うのだがなぁ。あやつは心情不安定でならんわ」

「何があったんですか?」

 前半を全力で無視して聞く。つまらなさそうな顔をして、老人は言葉を続けた。

「それがのう……何というか、言いづらいのじゃが」

 手招きされる。ちょっと顔を寄せると、まだ遠い、とさらに手招きされる。

「?」

 首を傾げたところで、ごす、と鈍い音が響いた。

「あまり調子に乗らないでいただきたい」

「年寄りに向かって! いや……神に向かって手をあげるとは! 人間の風上にもおけぬ!」

 老人が頭を押さえて叫ぶ。

「手をあげたわけではありません。さ、どうぞ。献上の品です」

 現れた六葉が平然と、老人の頭の上にあるものを指し示す。盆に載せられているのは、酒と杯。運んでいるのは、にこにこした若者だった。

「どうも! この辺りに神様がおられると言うので、持ってきました!」

 まったく悪気なく、若者は、盆を神の頭に押しつけている。

「この人、見えてないんだ……?」

「見えていない」

 思わず呟いた少女に、六葉がきっぱりと返答する。

「六葉は、ここにいる神は見えるの?」

「見える。髭のある老人で、先刻からお前にへばりつく機会をうかがっていた様子だったな」

「え? でも父様の知り合いみたいだよ?」

「親戚の叔父であっても、女好きならべたべたすることもあるだろう」

「そうなのかな? あっでもそうかも。家だとそのつど父様が目つぶししてたからな~」

「目つぶし……」

「何を想像したのか分かんないけど、日の神だから、辺りが真っ白になるだけだよ。一時的に」

 はいはいと適当にいなされてしまった。六葉がどこまで日和の弁を信じたのかは分からない。

 一方、老人は、こんな安酒と無礼者など許すまじ、とぶつぶつ唱えていた。だが、若者にきらきらした目で誉めたたえられて酒を注がれ、渋々、飲み始める。意外と旨い酒だったらしく、すぐに機嫌を直した。

「風神はな~、最近髪が減ってきたことを気に病んでいたのだ」

「髪?」

「昔はふっかふかのふっさふさで、女神達が「おっきな山犬みたーい」「かんわいー!」などと撫で回すくらいだった。それが……毛量が減って、今ではすっかり普通のおっさんじゃ。女神達も、撫でるところがなくなったので近寄らなくなってしまったのだ」

 裏声を駆使して、老人が事情を説明した。

「びっくりするほど、どうしようもない理由だね!」

 日和の叫びに、六葉も頷く。老人は重い息を吐き出した。

「当人にとっては深刻じゃ。わしも髭が減ったらもてなくて泣くかもしれぬ」

 六葉がぽつりと呟いた。

「髪のない僧侶でも、もてる者はもてます」

「持てる者の話など聞きたくないわ!」

 微妙に話が噛み合っていない気もする。

 涙酒になる老人に、声も聞こえぬらしい若者が、喜々として追加の酒を注いでいる。

「ねえ、これ、どういうふうに見えてるの?」

 若者に聞いてみると、

「杯がひとりでに浮かび上がって、酒が干されております!」

 不思議なことが起きているはずなのだが、幸い、若者は相手を神だと信じており、物の怪の仕業とは思っていなかった。

 六葉が思案げに腕を組んだ。

「髪か……」

「お前達もそうだろう。髪を結って、髻に棒をさして冠を止めるから、髪がないと困ろう」

「まぁ、そのときは坊主にでもします。それに、最近の冠は、紐で結わえるものもありますから、問題ないでしょう」

 六葉に極めて冷静な返答をされ、つまらんのうと老人は言い、それきりまともな返事をしなくなった。

「やむをえん。その辺で聞き込みするか」

 腕組みをほどいて、六葉は思案顔のまま大振りな松に向かった。松の枝の先に、小鳥がとまっている。

「すまないが、少し話をしたいのです」

「あらあら、ひとの子。不思議なにおいがする」

 ころころと銀鈴を転がすような声がした。小鳥が首を傾げている。

「わっ、あれ、一歩間違うと大変だよ? 話しかけて大丈夫?」

 あの小鳥、物の怪扱いしたら怒られそうだが、限りなく物の怪に近く、強い妖の力と匂いが漂っている。

「おそらく神名帳(じんめいちょう)に名なく、限りなく物の怪に近い……とはいえ土地をさまよう者だ、話くらいはできるだろう」

 旅人は話し好き。という意見でもって、六葉は、小鳥――と日和は初め思ったが、よく見ると顔が人間で嘴がついていて、髪に鳥の羽毛が混ざっている――の、女妖に話しかける。

 小鳥の話によれば、上の社の方で、大嵐がたびたび起こるということだった。男の野太い声がおいおい泣くのも聞こえる、という。

 それが起き始めた原因については、小鳥は知らない様子だった。

「行く前に、風の方角など知りたかったんだがな」

「ねぇ六葉。髪の毛が増える方法って、あるのかな?」

「さぁ……それを調べるよりは、当人が髪にこだわらなくなる方が早いかもしれない」

「そっかな~」

「よほど髪への執着が収まらないようであれば、典薬寮にも頼んでみるか」

「ふっかふかだったのって、触ってみたかったかも」

「そうか?」

 話していると、ころころと兎が転がってきた。兎は少女の足にぶつかって、上を向いたままきょとんとする。少女は兎を拾い上げた。

「六葉、兎が落ちてるよ!」

 兎が我に返って身をよじり、少女の手から逃げていった。

「落ちているんじゃない」

「え?」

 六葉が、ため息混じりに見上げる方角に、異常事態が起きていた。

 石段の上から、次々に鳥や獣が吹き飛ばされてくる。

「大嵐とやらに巻き込まれたものだろうな」

「うわ~すごい勢い。私達近づけるんですか?」

 六葉は引き返し、酒盛りしていた老人神に嵐の起こる時期など確認し直して、ようやく、石段を登り始めた。

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