第10話
*
「私が勝つに決まってますわ!」
ふふんと笑って、小萩は沢を下っていく。
社周辺の山の中で、いくつか霊気の流れのよい場所を押さえておき、そこから効果的に鎮めの術を使う予定だった。あの子狸には、とうてい無理な方法である。
「――あら?」
上機嫌だった小萩は、途中で異変を察して足を止めた。
急に、水の色が変わっていた。
沢が赤い。
小萩は巫女だが、元々、陰陽師の家系である。いくつかの札を取り出して、身構えた。巫女舞は場の形成に時間がかかる。いざというときは、陰陽師の術のほうが早いものだ。
甘いような苦いような、薬と甘みの混ざった匂いが、沢から流れてくる。
「おや……申し訳ございませんねぇ、薬を調合しておりまして」
沢の側。緋色の衣を肩にかけて、長い睫毛越しに、誰かがこちらを見返った。
「……お前、」
一瞬、女と見間違えた。だが、しなだれるような柔らかさもすべて演出で、当人は男だった。
「小萩様。仏に仕えると言って家を出た、貴方の兄上はお元気ですか?」
「私より、お前の方が知っているのではなくて? お前も、官庁勤めでしょう。加西」
小萩は声を鋭くする。
小萩の兄は、帝に仕えている。仏の慈悲として術を使い、ふざけた態度のくせに、参謀殿と謡われるほど優秀なので、始末に負えない。だが、そんな彼でも、自分にとっては兄であり、不気味な術には手を出さないことは確かだった。
今、目の前にいる輩とは――悪食で有名な加西とは、まるで違う。
「まぁ、それもそうですが」
警戒されても構うそぶりもなく、加西は肩をすくめた。
小菊は加西に気を取られていたことに思いいたった。そうだ、そんなことより、彼はいったい何を洗っているのか?
水は透明で、赤い色はゆらゆらと、夕暮れの幕がかかっているように流れていく。
見極めようとしたが、下草も濃く、薄暗くて、判然としなかった。
「して、小萩様。なぜこのような場所においでなのでございましょう?」
加西の、鮮やかすぎる赤の唇が、ゆうらりと半月型にゆがめられる。
ぞっとして、小萩は己の片袖を握りしめた。
「お前に用などなくてよ」
「それは存じております。小萩様と逢い引きの予定などございませんでしたもので」
(まずい……近づきすぎですわ)
小萩は退路を確認する。沢は登る方が時間がかかりそうだ。加西が沢に手を浸したまま、くすくすと笑い声をあげる。
「そう警戒なさらずとも、取って食いやいたしません。力の少なき者を食っても、何の得にもなりませんし」
(この、美しくて可愛らしくて、霊気の強い私を掴まえて「力の少なき者」呼ばわりとは!)
腹を立てたが、下手に口に出してもいられない。隙を探る。
「先程、一ノ瀬様がおられたようですが」
「だったら、何?」
「小萩様はお美しい。なぜ、思いの相手が答えぬのでしょうね」
「そんなの、お前にはいっさい関係がなくてよ!」
「それはそうですが。一ノ瀬様は目が曇っておられるのかもしれません。物の怪に騙されているのかも」
「……六葉様を侮辱するのは、この私が許さない」
「おや、まぁ!」
加西が、ばしゃんと水面を叩く。鮮やかな緋色が飛び散った。
「小萩様はそれほど真面目であるのに、意中の相手は冷たいまま。さぞかし心折れましょう。少し私が手をお貸ししましょうか? 人の心が素直になる薬がございましてねぇ……」
「! 一瞬でもぐらつきかけた自分が許せないですわ」
憤慨しながら、小萩は近くの藪へ飛び込む。加西が微笑んだまま、即座に呪符を放ったからだ。
「お前などにいいようにされてたまるものですか!」
藪を抜けて下流へ逃れるつもりだった。だが、
「あっ!」
沢が近いため、足下が崩れやすい。左足が、崩れた土くれに引っかかる。拍子に呪符を取り落とした。これでは攻撃も防御もできなくなる――。
「くっ」
人魂のようなものが飛びかかってくる。小萩は袖で必死に追い払った。
小萩は続けて、地帯の守護の神の名を叫んだが、救いがあったかどうかを確かめる前に、意識を失った。
*
「こんにちはー」
日和は、神舞用の神殿の裏手に声をかける。辺りには、人間どころか神の姿もなかったけれど、先程小萩が下の社で舞っていたせいか元々なのか、清浄な気が満ちていた。
今ここには、日和一人しかいなかった。
六葉は、神殿を見るや、忘れ物だと言って引き返してしまった。日和は待っていろと言われたので、一人で「調査」するつもりでいた。
「誰か、いませんかー?」
「ほ? 何じゃ」
誰もいなかったはずなのに、急に老人が現れた。頭が、日和の背丈の半分くらいの位置にある。真っ白な髭に、顔の半分以上を覆われていた。
酒臭いと思ったら、中身の入った杯を持っていた。
「あの、さっき人が舞ってたけど。聞いてました?」
日和は思わず呆れた声を出してしまった。
「聞いておったぞ! 何じゃ、お前日の神の娘か。ちょっと眩しいぞ。光量絞れ」
「あ、すみません……えっと、私そういうこと言われたこと、あんまりないんですけど。そんなに眩しいの?」
「さっきまで暗闇お触り大会だったのじゃ。目がまだこっちに慣れぬ」
ろくでもない宴会をしていたようだ。日和はとりあえず話を進めることにした。
「この辺りに、大嵐が起きるって聞いて来たんですけど、ご存じですか」
「ご存じも何も」
まさかお前か、と疑いの眼差しを向けていると、
「上の社の、風神であろう」
髭を撫でながら、老人が答えた。
「若い巫女の裳裾がめくれるのは構わんが、出たばかりの花芽まで皆吹き飛ぶから、この時期はやめてくれと言うのだがなぁ。あやつは心情不安定でならんわ」
「何があったんですか?」
前半を全力で無視して聞く。つまらなさそうな顔をして、老人は言葉を続けた。
「それがのう……何というか、言いづらいのじゃが」
手招きされる。ちょっと顔を寄せると、まだ遠い、とさらに手招きされる。
「?」
首を傾げたところで、ごす、と鈍い音が響いた。
「あまり調子に乗らないでいただきたい」
「年寄りに向かって! いや……神に向かって手をあげるとは! 人間の風上にもおけぬ!」
老人が頭を押さえて叫ぶ。
「手をあげたわけではありません。さ、どうぞ。献上の品です」
現れた六葉が平然と、老人の頭の上にあるものを指し示す。盆に載せられているのは、酒と杯。運んでいるのは、にこにこした若者だった。
「どうも! この辺りに神様がおられると言うので、持ってきました!」
まったく悪気なく、若者は、盆を神の頭に押しつけている。
「この人、見えてないんだ……?」
「見えていない」
思わず呟いた少女に、六葉がきっぱりと返答する。
「六葉は、ここにいる神は見えるの?」
「見える。髭のある老人で、先刻からお前にへばりつく機会をうかがっていた様子だったな」
「え? でも父様の知り合いみたいだよ?」
「親戚の叔父であっても、女好きならべたべたすることもあるだろう」
「そうなのかな? あっでもそうかも。家だとそのつど父様が目つぶししてたからな~」
「目つぶし……」
「何を想像したのか分かんないけど、日の神だから、辺りが真っ白になるだけだよ。一時的に」
はいはいと適当にいなされてしまった。六葉がどこまで日和の弁を信じたのかは分からない。
一方、老人は、こんな安酒と無礼者など許すまじ、とぶつぶつ唱えていた。だが、若者にきらきらした目で誉めたたえられて酒を注がれ、渋々、飲み始める。意外と旨い酒だったらしく、すぐに機嫌を直した。
「風神はな~、最近髪が減ってきたことを気に病んでいたのだ」
「髪?」
「昔はふっかふかのふっさふさで、女神達が「おっきな山犬みたーい」「かんわいー!」などと撫で回すくらいだった。それが……毛量が減って、今ではすっかり普通のおっさんじゃ。女神達も、撫でるところがなくなったので近寄らなくなってしまったのだ」
裏声を駆使して、老人が事情を説明した。
「びっくりするほど、どうしようもない理由だね!」
日和の叫びに、六葉も頷く。老人は重い息を吐き出した。
「当人にとっては深刻じゃ。わしも髭が減ったらもてなくて泣くかもしれぬ」
六葉がぽつりと呟いた。
「髪のない僧侶でも、もてる者はもてます」
「持てる者の話など聞きたくないわ!」
微妙に話が噛み合っていない気もする。
涙酒になる老人に、声も聞こえぬらしい若者が、喜々として追加の酒を注いでいる。
「ねえ、これ、どういうふうに見えてるの?」
若者に聞いてみると、
「杯がひとりでに浮かび上がって、酒が干されております!」
不思議なことが起きているはずなのだが、幸い、若者は相手を神だと信じており、物の怪の仕業とは思っていなかった。
六葉が思案げに腕を組んだ。
「髪か……」
「お前達もそうだろう。髪を結って、髻に棒をさして冠を止めるから、髪がないと困ろう」
「まぁ、そのときは坊主にでもします。それに、最近の冠は、紐で結わえるものもありますから、問題ないでしょう」
六葉に極めて冷静な返答をされ、つまらんのうと老人は言い、それきりまともな返事をしなくなった。
「やむをえん。その辺で聞き込みするか」
腕組みをほどいて、六葉は思案顔のまま大振りな松に向かった。松の枝の先に、小鳥がとまっている。
「すまないが、少し話をしたいのです」
「あらあら、ひとの子。不思議なにおいがする」
ころころと銀鈴を転がすような声がした。小鳥が首を傾げている。
「わっ、あれ、一歩間違うと大変だよ? 話しかけて大丈夫?」
あの小鳥、物の怪扱いしたら怒られそうだが、限りなく物の怪に近く、強い妖の力と匂いが漂っている。
「おそらく神名帳(じんめいちょう)に名なく、限りなく物の怪に近い……とはいえ土地をさまよう者だ、話くらいはできるだろう」
旅人は話し好き。という意見でもって、六葉は、小鳥――と日和は初め思ったが、よく見ると顔が人間で嘴がついていて、髪に鳥の羽毛が混ざっている――の、女妖に話しかける。
小鳥の話によれば、上の社の方で、大嵐がたびたび起こるということだった。男の野太い声がおいおい泣くのも聞こえる、という。
それが起き始めた原因については、小鳥は知らない様子だった。
「行く前に、風の方角など知りたかったんだがな」
「ねぇ六葉。髪の毛が増える方法って、あるのかな?」
「さぁ……それを調べるよりは、当人が髪にこだわらなくなる方が早いかもしれない」
「そっかな~」
「よほど髪への執着が収まらないようであれば、典薬寮にも頼んでみるか」
「ふっかふかだったのって、触ってみたかったかも」
「そうか?」
話していると、ころころと兎が転がってきた。兎は少女の足にぶつかって、上を向いたままきょとんとする。少女は兎を拾い上げた。
「六葉、兎が落ちてるよ!」
兎が我に返って身をよじり、少女の手から逃げていった。
「落ちているんじゃない」
「え?」
六葉が、ため息混じりに見上げる方角に、異常事態が起きていた。
石段の上から、次々に鳥や獣が吹き飛ばされてくる。
「大嵐とやらに巻き込まれたものだろうな」
「うわ~すごい勢い。私達近づけるんですか?」
六葉は引き返し、酒盛りしていた老人神に嵐の起こる時期など確認し直して、ようやく、石段を登り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます