第16話:自己犠牲―Fault―

 ニーア・ネルソンが何故この己が内を形容したのが虚空、虚ろなる蒼海なのかは理解していた。空は、生まれた時からニーアを見ていた。海は生まれた時からニーアを映していた。記憶が中途半端になくなっているニーアにとって、空と海は父と母の様なものだった。

 だから、ニーアにとってここは母胎なのだ。心安らぐ場所。現実から目を背ける場所。ここにいれば、ニーアは嫌な現実から逃げられる。

 ニーアは目を瞑る。それでも、ここにいるだけじゃ始まらない。嫌な事はいっぱいあるけど、それでも前よりはいい。ニーアは安らぎの中で覚醒の時を待った。



     ◇◇◇◇



 ニーアはゆっくりと目を開いた。やっと見慣れるようになったと薄い黄色の天井は、ある少女がニーアの顔を覗いていた事によって遮られていた。その少女、カエデはニーアの目覚めに気づき、一目散にニーアの部屋から出ていく。


「パパー! ニーアがおきたー!」


 カエデの甲高い声が耳に入り込む中、ニーアは痛む頭を押さえながら上半身を起き上がらせる。

 外を見るともう真っ暗だった。戦闘をしていたのが昼前だったのだから、ニーアはおよそ半日は気を失っていた事になる。

 ニーアは曖昧な前後の記憶を照合させる。レイン・カザフと名乗る男に負け、踏みつけられたニーアはそこで記憶が途切れている事を理解し気絶した事を察した。同時に、あの男の言葉を思い出しニーアは苦い表情を浮かべた。


「戦う、理由……」


 男の言う通りだった。確かにニーアは自分の意志で動いた。それはいい。でも、理由は確かに一時の感情に任せたものだった。それがあの傭兵にとっては見過ごせないものだったのだろう。

 ニーアは自分が間違っていないと信じてはいるが、それでも確固たる自信が持てない。彼は、そういう意味では空虚であった。


「ニーア、大丈夫か?」

「あ、ヒューマさん……」


 部屋に入ってきたのはヒューマであった。黒のコアスーツではなく、白を基調としたカッターシャツと灰色のジーパンを履いていて、彼の表情にはあの鬼気迫る殺気を感じない。まるで人が違うように感じるが、彼の口調や身に纏う雰囲気は変わらない。ヒューマはそういう人間なんだとニーアはあの戦闘を見てそう感じていた。二つの印象を持つ人間だけど、それでもこの人は一人の人間なんだ、と。

 それに、彼はニーアを心配してくれている。これだけは本当に本当だ。


「大丈夫、です。ちょっと無理しちゃったっぽいだけなんで」

「そうか……無理をさせてすまない。これは俺達の責任だ」

「大丈夫ですって。一度手をかけると、後は躊躇いも薄かったですし」


 それがどんなに異常な事か、ニーアはたぶん理解できていないだろう。いや、理解していたとしても、実体験を得るとその理解さえ歪んでしまい、霞んで感じるのだろう。

 ヒューマはとっくの前にそれを知っているから、尚の事、苦い気持ちを覚える。これでは海賊と同じだ。ニーアに人殺しをさせておいて何が子供達を救うだ。自己矛盾も甚だしい。目の前の少年すら救えていないのに、大義名分だけ語る。

 ヒューマは無表情の中で確かに怒りを感じていた。それは誰に対してでも、ただ自分とこの世界に。


「……お前には、選択肢がある」


 だから、ヒューマはここであえてこう言い放つ。彼の意思を尊重する事もあるが、何より大人として彼が戦わないという選択肢を選んでほしいと、勝手ながらそう思う。

 でも、ニーアの答えはあの戦いの中で決まってしまったのかもしれない。


「僕は戦いますよ。ここで逃げるわけにはいかない。取り戻した人がいる」

「取り戻したい人?」

「マリーっていう昔、鉱山で採掘をしていた時にいた女の子です。せめて、あの子だけでも……」


 ニーアのその話を聞いたヒューマは目を細めた。軽蔑したのではない。彼は強い人間だと思ったのだ。同時に脆い。彼の志はあの戦いで確かに変わった。でもそれが、果たして人間として良い物か……今のヒューマにそれを考える資格はなかった。

 それに、彼のその発言は、不確かであった海賊が子供を働かせている話も確かになった。

 だから、彼を受け入れるしかない。


「ニーア。俺は正直、お前を戦わせたくはなかった。子供が人殺しをするなんて間違っている。……でも、それも結局、綺麗事だ。俺達大人は、お前という子供を犠牲にしてしまう。これでは、海賊の奴らと同じだ」

「それは違いますよ」


 ニーアはヒューマの弱音にハッキリとそう否定した。その表情は何か晴れ晴れしいものであり、そこに迷いはない。


「だって、ヒューマさん達は、僕と同じような子供達を助けようとしているんでしょう? 僕はそれも望んでる。僕はヒューマさん達が海賊と同じだなんて思わない」


 その子供達の中にお前がいるんだと、ヒューマは思わず言いかけるが、今のニーアにはその言葉は届かないだろう。彼は今、自分の事を視野に入れていない。無意識なる自己犠牲。ヒューマはそれにデジャビュを覚える。今ならハッキリ解る、そのデジャビュに今度はヒューマは立ち向かわないとならない。


「ニーア。俺達は今、立ち止まっている。手がかりが今はないからだ。だから、お前の情報を知りたい」

「解りました。今なら、僕はあなたを信用できる。いえ、信用したい」


 ニーアのその言葉にヒューマは頷きを返す。かくして、この夜はニーアの知り得る情報を得るための濃密な時間となった。



     ◇◇◇◇



 ニーアが知り得る情報を得たヒューマは、明日の予定をニーアに告げ彼の部屋から退室した。彼も疲労している身だ。それに明日から忙しくなる。カエデにも早めに寝させて、ヒューマはリビングのテーブルに突っ伏し、項垂れるツバキに相対するように椅子に座った。

 数日間だけであったが明日にはここを去る事となる。別荘みたいな物なので、いずれまたここに来るかもしれないが、明日にはとりあえずさようならだ。そう考えると、この椅子やテーブルも思い出深くなるものだ。


「……どうした?」


 様子がおかしいツバキにヒューマは問いかける。彼女は酒を飲まない人なので、酔いで調子が悪くなったとかそういう事ではないだろう。あるとしたら、彼女の悪い癖である全てを背負い込もうとする精神疲労だろう。


「ヒューマ。ちょっとね」

「言ってみろ。共有ぐらいならできる」

「うん……。作戦の失敗も響いているけど、一番はニーアの事。彼に戦いをやらせてしまった事」


 ツバキはやっている事は確かに外道と言われるかもしれないし、理解されないかもしれないが、それでも芯を持っていて優しさを持っている。残酷な時も確かにあるが、それでも一児の母なのだ。

 ニーアの事はヒューマと同じで悔しくは思っている。だけど彼の力のおかげでどうにかなった事もある現状、悔やむ事を引きずっていても仕方がない。


「ニーアは戦うと言った。俺はあいつの決意と覚悟を尊重する」

「やっぱり……そうなるよね。うん」

「……今のあいつはカナデだ」


 ヒューマはそう懐かしい名前を呼んだので、ツバキは心底意外そうな表情を見せた。彼にとっては現在で一番大切な人がツバキ、もしくはカエデであるならば、過去で一番大切な人はそのカナデという女性であった。

 だがヒューマはその事を話したがらない。彼にとっては苦い思い出でもある。だから、ここでその名前が出てくるのはツバキにとっては想像の外の話だった。


「あいつは今、自分を認識していないんだ。人を殺したからかもしれない。戦場の空気に飲まれたからかもしれない。もしかしたら、あいつの生まれが何かしらあるのかもしれない。とにかく、今のあいつは自分が被害者であると解っていない」


 それは戦場で最も危険な状態だ。自分の命を顧みない人間は結果的に誰よりも死に近い存在だ。死んでは何も意味がないというのに、それが解らない状態なのだ。

 このままではニーアは戦いの中で志半ばで死に絶えてしまうかもしれない。それだけは避けねばならない。


「本当にカナデみたいね。でも、今度は違うわよ」

「あぁ、過ちは繰り返さない。絶対に。今度こそ助ける」


 ヒューマは密かにそう決意した。過去の自分には出来なかった事も今ならできると信じたいから。ニーアがカナデが追った結末に至らないように、ヒューマとツバキは過去に思いを馳せた。

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