第一章 奈良から京都、そして異世界へ 前編

 金閣寺。平等院鳳凰堂。清水寺。


 手近な高校生を捕まえて、これらの建物があるところを知っているかと聞けば、すぐに答えが返ってくるだろう。

 有名な清水の舞台を下から見上げて、「やっぱこれ落ちても死なないよなあ……」などと、馬鹿なことをつぶやいてしまった志度雨緒しどあまおも、先の質問にあまり悩まずに「京都」と答える類の、平均的な高校生の一人だった。

 

「飛び降りるのは止めないけど、写真は撮らせてよね」


 物騒な台詞に、雨緒が後ろを振り向くと、よく見知った二人組が並んで立っていた。その片割れ、背の低い方がにやにや笑っている。

 修学旅行に来てもいつもと変わらない減らず口に、雨緒もいつもの調子で返す。


「とかいって絶対撮り損ねるだろ、お前……昨日の飯の時も、奈良公園の鹿がうまく撮れなかったって言ってたじゃねえか」

「そ、それはボクが野生の鹿の俊敏さを甘くみていただけで……」


 ぷうと頬を膨らませながらそう主張する彼女の名前は楠木晶くすきあきらという。

 この旅行前に髪を少し明るくしようとして、気づいたら金髪になっていた雨緒には、日頃の悪友連中ですらあまり近づいてこない。

 せっかくの修学旅行で、教師に悪目立ちしたくない気持ちはすごくわかるので、文句は何も言えない。

 ところが、高校生になっても自分のことを「ボク」と呼び、自由闊達に振る舞う彼女にとっては、そんなことはたいしたことではないようで、いまみたいに平然と話しかけてくる。

 彼女が気のいいやつだからとも言えるし、基本的に深く考えて行動しないやつだからとも言えるだろう。


 先ほどの取って付けた言い訳もそう。


 奈良公園の鹿は飼われているわけではないので、確かに野生動物なのだが……人慣れしている彼らを写真に収めるのはそう難しくない。ただし鹿せんべいを持っていると逆に難しいことがある(わんさか集まりすぎて)。


「ふふ……鹿、可愛かったですよね〜。もしゃもしゃって感じで鹿せんべい食べてて」


 晶の隣の、もう一人の女子生徒が昨日の様子を思い出して、ふんわりとした笑顔を浮かべた。彼女の名前は垂枝祭理たれえだまつり。晶と祭理は、雨緒と同じ高校に通っている。


 晶はボーイッシュというか、子供のまま年齢だけ増えて高校生になった、とでもいうべきタイプの女子で、短い髪にくるくる変わる表情が、勝手気ままな野良猫を彷彿とさせる。

 物怖じしない性格で、時折、妙にふてぶてしいところがあるのも野良猫に似ているところだ。まだまだ子供らしさを残した女子高校生と言える。体型的にも。


 祭理は、そんな晶とは対照的に、おっとりとしていて、柔らかな雰囲気を持った、今時やや珍しいほどに女子らしい女子だ。少なくとも外見から受ける印象は。

 長く延ばしている黒髪と女性らしく成長した体つきが余計にそう思わせるのかもしれない。実のところ、性格は極めてマイペースで、ただ単にぼんやりしているようでありつつ、普通の女子生徒が驚くようなことがあっても、平然としているという腹の据わった一面もある。


 典型的なエピソードはこれだ。


 中学のとき、授業中に突然黒いアイツが出現したことがあったらしい。

 名前を呼ぶのですらはばかられるという意味ではどこぞの悪い魔法使いとよく似ている黒いアレだ。

 で、出現した黒いアイツに教室内が騒然とする中、祭理はいつの間にかロッカーから取り出していた箒で冷静に一撃してのけたのである。

 ポイントは、ゴキ……を冷静にやっつけたことではなく、叩いたあとに「あれ〜。まだ動いてますね〜?」と言いつつ躊躇せずに二撃目、三撃目を食らわせたところにある。


 なにそれこわい。

 その年は、クラス一の悪ガキでさえ、彼女の言うことには素直に従ったとかなんとか。


 ……ちなみにこの話を雨緒に教えてくれたのは晶だった。

 祭理に聞いてみたら「そんなこともありましたっけ〜」と言っていたので、誇張が入ってるのではと雨緒は疑っている。

 雨緒が高校二年になった今、あれから三年近く経っているけれど、結局、真実はわからないままだ。


 ともあれ、そんな彼女たち二人は、今年のクラスこそ雨緒とは違うが、中学に入って以来、かれこれ五年の付き合いなので、雨緒にとって気安く話せる数少ない女子生徒でもあった。


「可愛かった……か? 鹿せんべいを買ったとたんにわさわさ近寄ってくる辺り、あいつら人間を召使いか何かと勘違いしてると思うんだが」

「あの子たち、神様の使いだから、きっと人間より偉いんじゃないんですかね〜」


 春日大社の神使は鹿で、その春日大社は奈良公園の周辺にある。

 なので、神様の使いだというのは正しいのだが……。


「人間って万物の霊長じゃなかったっけ……」


 餌を持った人間に対するがっつき具合から、どうにも神様の使いという印象を持てない雨緒はもごもごと口ごもる。


 ちなみに、人が万物の霊長である、というのは中国で最古の歴史書として伝えられている書経の一節である「惟人萬物之靈」に由来していて、特段根拠がある話でもない。

 よって、祭理と雨緒のどちらが正しいとも言えないのであるが——閑話休題。


「——どうでもいいか」


 書経で孔子が云々、などという知識はまったくない雨緒は、単に話題のつまらなさを理由に適当に締めくくる。


「そうですね〜。あの子たちを飼うと面白いかもしれませんね〜。リードとかつけて散歩するとか〜」


 話を聞いていたのか聞いてなかったのか、祭理がほわほわとそんなことを言う。


「やめとけって、あいつらの……いやそのなんだ」


 雨緒が、思いついた一言をぐっと喉の奥に押しとどめる。


「あ〜そうか、コロコロしてて拾いにくそうですもんねえ」 

「って言うなよ!」


 ……何が悲しくて、京都くんだりまで来て、鹿の排泄物の話をしなければならないのだろう。

 雨緒がやるせないため息をつきかけたとき。


「いやー……さっぱりわっかんないなー、どうしよ、これ……」


 近くにいた晶が、珍しく困った様子の声を出す。

 見ればそこには、所在なさげに棒付きのキャンディーをくるくる回している晶と、その倍ぐらいは背丈のありそうなむくつけき大男が向かい合っていた。

 男は、日本人ではなさそうだった。

 濃い小麦色の肌に、だぼっと弛んだ腰履きのズボンに、ずいぶんと丈の長いパーカーを羽織って、野球帽をかぶっているという典型的なヒップホップ系の出で立ち。

 観光客で、何がしか困っているのだろう。大きな上半身を縮めて、晶に向かって切実そうな表情で何かを訴えているのだが。


「わかる?」

「お前、俺の英語の成績知ってるだろ……そもそも英語かどうかも分からんレベルだぞ……」


 自慢にならないことを口にした雨緒だった。

 早口なせいか、訛りのせいか、あるいは単純な英語力の不足のせいか、晶も雨緒も相手が言っていることの理解すらおぼつかない。


「この人、いったいどうしたんだ?」

「いや、困ってそうだったからさー」

「ほう……それで話しかけたのか、お前……」


 せめて、自分が助けられる相手なのかどうかは事前に見極めていただきたい。


「で、どうすんだよ……」

「どうしようかー……」


 あきらめて立ち去ってくれるといいのだが、むしろ助けが増えたとばかりに、さらに話しかけてくる黒人男性に雨緒ができることと言えば、日本人らしく曖昧な笑顔を返すことだけだった。

 迷惑そうな顔でもして見せたほうがよっぽどお互いのためであるのだが……。


 と、そこに、見覚えのない制服の男子が割って入った。


 ぺらぺらぺらぺーら。

 オゥ! ぺらぺらぺらぺーら。

 アー……ぺらぺらぺら。ぺらぺらぺらぺーら。

 イェア、サンクス!


 新しくやってきた他校の男子と、雨緒と晶の認識ではだいたい上記のようなやりとりが交わされ——つまり、全くわからなかった——満足した様子の外国人が去って行った。

 これに喜んだのは晶。


「いやあ、助かったぁ〜。ありがとうね。あ、そだ、お礼にこの飴あげるよん」


 そのまま残っていた男子生徒に向かって、謝意とともに羽織っていたカーディガンのポケットから飴を取り出して、手渡そうとする。

 こいつ、ほんとに物怖じしないよなあ……と思いつつ、雨緒も礼を言おうと一歩進み出ると、男子生徒がこちらを振り向いた。


「——特に手間ではなかった。気にするな」


 そいつの容姿に、雨緒は目をしばたたいた。

 特段目立つところのない、普通のブレザータイプの制服を着ている彼は、アイドルか俳優が本業だと言われても違和感なく納得するほどの——いや、それ以上の美形だったのだ。

 そういう趣味は全くないつもりの雨緒も一瞬言葉に詰まる。


「そ……そうか。まあ、とにかく助かったぜ。サンキュな」


 少し間を開けて、ようやくそう返したときには、その男子生徒はすでにその場を立ち去ろうとしていた。

 と。彼と同じ学校の生徒らしい少女——これまたかなりの美少女で、くすんだ赤い髪と抜けるような白い肌が印象的だった——が、その美形の男子にこう言っているのが聞こえてきた。


「レイジって、英語もできたんだね。ねえ、今度、英語で話してみない?」


 それになんと答えたのか、レイジと呼ばれた男子の短い返答の内容は、こちらまでは聞こえてこない。


「格好いい人でしたねえ〜」


 雨緒と晶が外国人と対峙していたときには近くに寄ってこなかった祭理が、いつの間にか近くに来ていて、とぼけた声で感心したようにいう。


「ああいう絶世のイケメンってリアルにいるんだなー。しかも彼女さんもあんな美人で英語も話せるとか、どこのマンガのキャラかって感じだし。それに比べてこっちのインチキ金髪ときたら……」


 後から現れた少女が「彼女さん」かどうかは晶の推測だろうが、雨緒にもまあ納得できる美男美女のカップルだった。が、そこはどうでもいい。


「お前な……インチキ金髪ってなんだよ、人が気にしてることを。ちょっとそれ俺にもよこせ、さっきの報酬だ」


 晶の、包み紙を剥ごうとしていたキャンディーを奪いとって、口に入れる。

 自分は特に役には立っていなかったが、精神的慰謝料というやつでこれぐらいの報酬はあってもいいだろう。


「あっ。なんだよもう……今日の分は、あとちょっとしかないんだかんな……」


 といいつつ、さらにポケットから新しいものを取り出す晶。

 いったい何本持ち歩いてるんだ……?

 晶が無類の甘いもの好きで、よく飴とかチョコレートを食べているのは知っているが、まさか修学旅行にまでこんなに持ち込むとは思わなかった。

 ちなみに祭理の方は顔に似合わず辛い物が好物である。


 まったく、こんなに食い気があるのになんでこんなに小さいままなんだろうか。

 ちょうど手を置きたくなる高さにある頭を眺めて、雨緒がそう考えていると。


「——さっきの彼女さんみたいなの、雨緒の好みのタイプじゃない?」


 唐突に、晶が上目遣いでそんなことを聞いてきた。

 さっきの女の子とは、最後にイケメン男子に声をかけた女子のことだろう。確かに、彼女は美少女ではあったが、タイプかといわれると悩むところである。

 特に無表情気味なところは人間味が少ないというかなんというか。


「まあどっかのちびっ子よりはな……」

「ちびっ子いうな」

「そうね〜。晶ちゃんも小さくて可愛いわ〜」


 祭理がフォローなのかとどめなのかよく分からない発言をして、晶がぷくぅっと頬を膨らませる。

 ……実のところ、雨緒の目からは二人も十分に魅力的に見えているのだが。そんなことは今さら言いづらいものである。


   ★


 修学旅行の二日目は、自由行動が予定に組み込まれていた。

 観光地の京都ならではの、一日定額のバスを使って移動を開始した雨緒たちは、同じバスにさっきの二人が乗り合わせていることに気がついた。

 バスの前方に陣取った雨緒たちに対して、彼らは後部の座席に並んで腰掛けている。

 窓際の女の子のほうは窓の外を眺めており、男のほうは携帯を操作していたので、こっちには気づいていないようだった。

 彼らの存在に気づいているのかいないのか、晶が祭理に今後の予定を聞く。


「で、ボクたち、どこに行くんだっけ?」

「二条城ですよ〜。途中で乗り換えないといけませんから、そのつもりでいてくださいね〜」

「ニジョージョーって何が面白いの?」

「それは……うふふ。行ってみてのお楽しみにしとくといいですね〜」

「なるほど、それもそだねー」


 祭理による晶の扱いは実に手馴れたものだ。


「ちょろいやつ……」


 二人のやりとりから目を離して、バスの進行方向に視線を向けようとした雨緒の視界の端に、奇妙なものが見えた……気がした。

 かなりの速度でバスを追い越して行った何か——。

 急いで視線を巡らすも、見えたはずのそれは見当たらない。


「雨緒、どーかした?」


 きょろきょろする雨緒の様子に気づいたらしく、晶がぱちくりと瞬きをして首をかしげる。


「いや……見間違いっぽい」

「そういえば、京都といえば舞妓さんですよね?」

「アー、ゲイシャガール、ボクミタイデス、トテモ」


 唐突に片言になった晶へのツッコミをスルーして、雨緒は直前に目に映ったものを思い浮かべる。流石にありえないと思いながらも。


 それは、鳥だった。が、ただの鳥ではない。


 異常なのはそのサイズで、距離感の掴みにくい秋晴れの青空に飛翔する姿からの推定で、このバスと同じぐらい、もしかするとそれ以上の大きさだったような気もした。

 少なくとも雨緒がこれまでに見た鳥の中では最大のサイズだったのは間違いない。

 けれど、そんな巨大な鳥は日本どころかこの世界のどこにもいないはずだから、多分、ただの見間違いで、かなりそばを飛んでいた鳥の距離感を間違えたか、あるいは、考えにくいけれど、近くを飛行していた飛行機だった、とか……そういう何かだろうと思う。

 もしくはそのどちらでもなく、見えたような気がしたけど何もなかったのかもしれない。


 ——この世界ののだと、そんなことは露知らず。


 次にバスを襲った衝撃に、雨緒は今見た何かのことを頭から追い出すのだった。

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