第一章 奈良から京都、そして異世界へ 後編
突然、ヒステリックなブレーキ音が響いた。
停止する車体と、慣性の法則で強く引っ張られる体。同時に、暗転する視界。
白昼のバスを照らしているはずの陽光を遮ったものは何なのか。
何が起きたか全くわからないままに沸き起こった悲鳴と怒号が車内を包んだ。
続いてやってきたのは爆発音だった。それも、耳に届くだけでなく、腹の奥底まで撃ち抜かれるほどの衝撃を伴う破裂音に、先に訪れていた暗闇の中、意識が激しく揺さぶられる。
それに続いたのが熱気と煙。ここまでくると、いたずらに混乱していた雨緒の脳裏にも事故の二文字が大きく浮かぶ。
それも、自分の考えの及ばないぐらいにやばい状態のようだ。
迂闊に吸い込んでしまった煙に咳き込みながら、まずは晶か祭理の無事を確かめようと——。
ところが、次の瞬間。
「……え……?」
突然訪れた夜のような闇に包まれていたはずの辺りが、一転して光あふれる空間に変わっていた。
「何が、どうなって……外?」
それだけではなく、明らかにそこはバスの車内ではなくなっていた。
まばゆいほどの光の中、目を瞬かせながら視線を下に落とすと、金属でできていた床はいつの間にか芝生のような、やや深い草に覆われた大地に変わっている。
明るさに目が慣れるのも待てず、辺りを見やると、そこが開けた草原であることに気づく。
近くには小高い丘と、少し離れたところに常緑樹の森が見え、さらに遠方には山が見える。
それは、どこの田舎ならこんななんだろうと思わせる、すこぶる平和そうな光景で、まるで白昼夢でも見ているかのようだった。
だが、これが夢ではなさそうなことに雨緒は気づいていた。足元から秋にしては強い陽光に照らされた草花から立ち上る草いきれと、それに伴って漂う土と植物の強い匂いをしっかりと感じていたからだ。
それに……すぐそばに、立ちすくんだまま目を大きく開いている祭理と、腰の引けた体勢で祭理の袖を掴んだまま、きょときょとと周囲を見ている晶がいる。
「ねぇ、ここ……どこなの? さっきの、事故、だった……よね?」
言葉を重ねるほどに自信を失っていくような晶の問いかけには、誰も答えられない。
「夢……じゃないよな」
そうではないと感じていながらも、口に出して確認せずにはいられなかった。
「三人で揃って夢でも見てるんですかねえ〜」
……あるいはそうかもしれないとさえ思う。
修学旅行でバスに乗っていたら事故に巻き込まれて、次の瞬間には草原のまっただ中に同級生と一緒に立っているのだから、これが夢でないならば一体なんだというのだろう。
「バスから降りてないのになぁ……」
つぶやき、しゃがみこんだ晶が、地面に落ちていた小石を拾い上げた。
触って確かめたくなる気持ちは、雨緒にもあったが、訳の分からない状況になんとなく躊躇いも覚える。余計なことをすると、今より悪いことになるのではないかという不安だ。
それで、かわりに見上げた空は、向こうと同じ晴天だった。
——向こうと同じ、っていうのは、ここを違う場所だと思っているってことだよな。
雨緒は自分のその思考にぎくりとする。
「……おーい」
その時、くぐもった声がどこからともなく聞こえてきた。
「あら、今なにか聞こえせんでした?」
「ああ聞こえた。誰かいるのか?」
周囲をもう一度見渡す雨緒よりも少し早く、目ざとい晶が音の発生源を見つける。
「あそこだよ。ほらあの、黄色い花が咲いてる草むらの……」
「誰か……ああもう何がなんだか……誰か助けてよぅ」
晶の声を遮ったその嘆きは、さっきよりも遥かに明瞭だった。
「この声……楽彦さんじゃないですか?」
「そうみたいだな。おおい、俺だ! 雨緒だよ」
「雨緒くん? ああ、よかった……なんか草とか枝とか花に囲まれちゃってて……動けないんだけど、どうなってんのこれ? さっきの事故で、どっかの垣根にでも飛ばされちゃったのかな? いてっ……髪が抜けたぁ」
雨緒の同級生の一人で、修学旅行での同じ班のメンバーでもある。
清水寺では音羽の滝に並ぶ関係で離れてしまっていたが、バスに乗り込んでからは一緒だったので、この状況に巻き込まれてしまったのは当然と言えるのだが……。
そもそも、この状況というものが何なのか、雨緒にも理解できていない今、彼がいるのは驚きでもあり、納得でもあるという状態だった。
「楽彦も無事? だったんだな」
途中で語尾を尻上がりにさせながら、ふと、バスに乗車していた他の乗客はいないな……と気づく雨緒。
知り合いだけがここにいるのは不自然に思えたが、一方で、単に一番そばにいて固まっていた四人だけが、このなんだか分からない状況に巻き込まれたのかもしれない、とも思う。
「なんだここ、すり鉢みたいになってんな」
いろんなことを頭に過ぎらせながら、ツツジのような形の黄色い花が咲いている茂みに近づいた雨緒は、改めてその場を観察してから、そう口にした。
すり鉢というのは言葉通りの意味で、生い茂った草木に隠されて見えなかった地面が、平坦でなくやや窪んでいる。
もっとも、実際に近いのはすり鉢ではなくグラタン皿だったのだが、地面の色と藪の作り出す影が似通った色になっていたこともあり、そこまでは雨緒に見て取れていないのである。
とりあえずわかったことは、なんでか原因は不明だが、そのくぼみにずっぽりと仰向けの楽彦がハマっていることである。
「あっ、雨緒くん、ここだよぉ」
「おう見えてる……けど、どうしたもんかな、これ」
「引っ張ってあげたらどうかな……って、枝がビシビシあたって痛そうだよねえ」
「あっ、楠木さんに垂枝さんも。みんな居たんだね、よかった。……これさあ、さっき起き上がろうとしたらひどい目にあったんだよ、髪の毛絡んじゃって……禿げてないといいな」
「どうしてこんなところにはまったんでしょうね〜? まるでほふく前進している兵士さんみたいじゃないですか……仰向けですけど」
「こんなのどかな垣根に埋もれている兵士は役に立たなさそうだな……あ、いや、悪い……ん? ——それだ!」
⭐︎
数分後、仰向けからうつ伏せになって、まさにほふく前進で藪の下からなんとか這い出した楽彦が一息ついていた。
「いっぱい葉っぱついてますよ。あーあ、制服のシャツも泥だらけですね〜」
「まあ脱出できてよかったじゃん? 見捨てていくのは気がとがめるしねー……なーんて」
祭理と晶が口々に発した、楽彦を元気づけようとする(?)メッセージに、彼は育ちのよさそうな柔和な顔を歪めて、
「清水寺ではめちゃくちゃ横入りされるし、バスは事故るし、なんだかよくわからないところの藪にはまってもうさんざん……」
そこでいったん言葉を止めて。
「え? ……ここどこ? どう見ても京都じゃないよね……?」
「おう、それが問題なんだよなあ」
雨緒は同意のため息をついた。
「さっきも言いかけてたんだが……ここがどこなのか、なんでこうなったのか思い当たることはあるか?」
その質問は、楽彦だけではなく、晶や祭理にも向けて発したものだったが、当然誰も答えられず……。
「異世界だ!!」
楽彦が、突然、らしくない叫び声を上げた。
先ほど、助けを求めた声よりもよっぽど大きい。最初っからこうやってればもっと早く気づいたのに、と雨緒たちがついつい思ってしまうほどである。
それと同時に、雨緒は楽彦の言葉を理解して、まさかそんなことが……と思った。そして、
「イセカイ? イセカイって何? もしかして、アセカイとかウセカイとかあるの?」
続く晶の言葉に一同が疑問符を頭の上に浮かべた。
亜世界に兎世界があるかどうか——?
一体何を言っているんだ、と雨緒が考えているところに、祭理がぽんと手を打つ。
「あいうえおのイじゃなくて〜。異なるって意味の『異』世界ですよ〜、もぉ〜晶ちゃんったら〜」
「ああ……それね、その異世界……ふーん、で、その異なる世界ってつまりどういうことなの?」
——結局分かってないじゃないか!
と、晶以外の意見が一致したあとで、気を取り直した楽彦が説明を始める。
「つまりね、日本とか地球とか、そういう意味でのこれまでの世界とはまったく違う、別の世界ってこと。ほら、物語であるでしょ、ナルニアとか中つ国とか、アレクラスト大陸やロードス島のあるフォーセリアとか、アレフガルドとかハイラルとか、黄泉の国とかヨトゥンヘイムとか、ソーサリアとかエオルゼアとかタムリエルとか、七つの月がしろしめす大地だとか不思議が当然フェアリーランドとか」
「いわゆる、ロープレゲームの世界とかだよな」
正直半分も分からなかったのだが、雨緒はうなずいてみせた。
「ファンタジーだけじゃなくて、ウェイストランドとか、スターゲイトの向こう側とかも異世界に入るんですかね〜」
「うーん……よくわからないけど、なんとなくわかったっぽい」
「そういう異世界を人が訪問するってジャンルの物語は昔から人気があるんだよね、欧州だとダンテの神曲とかあるし、日本にも浦島太郎の話とか、どっちも古典の範疇に入るだろうし、いやそもそも日本だったらイザナギ・イザナミの……」
「仮にここがそういう異世界の一つだとして——」
長口舌に入った楽彦を雨緒が遮った。
楽彦は今のクラスになってから知り合った仲で、よく本を読んでおり、ゲームや漫画・アニメに詳しいし、学校の成績もかなり良い方なのだが、興味のあることを話しだしたら止まらない傾向があった。
「分からないのは、どうして俺達がいまここにいるか、だ」
「最近の異世界訪問ものだと定番は転生ネタだけど……」
急にトーンダウンして言いよどむ楽彦の意図を察して、言いづらい一言をかわりに引き取る雨緒。
「まさか——俺たちは一度死んだのか?」
ひゅっ、と息を飲んだのが誰だったのかは分からない。
ただ——そのときの気持ちはみんな同じだっただろう。
「そんなはず——ありません」
しばらくして最初に口を開いたのは、いつだって落ち着いている祭理だった。
「確かに、急ブレーキの音がして……とつぜん真っ暗になったときはびっくりしましたけど……その後の爆発音で事故だってそうも思いましたけど〜。……痛くもなんともなかったですし、本当に一瞬でここにいたわけで……死んだりするようなことがあったとはとても〜」
「うんうん、そうだよね。ボクもびっくりしてとりあえず椅子と祭理の服を掴んだけど……それだけで、びっくりしているうちに気がついたら青空の下だったし」
晶の同意に続いた楽彦はしかし、少し照れたように二人とは違ったことを言った。
「僕はバスが急に止まったときに頭を打ったみたいで、瞼の裏に火花が散って……次はあの藪の中だったんだよね。なにか話し声が聞こえてきて……それで意識がはっきりしてきたんだけど」
「うーん、だよなあ。俺もうっかり吸い込んだ煙の煙ったさには参ったけど……」
——。
当然のように同意が得られると思っていた雨緒は、唐突に場に落ちた沈黙に瞼をしばたかせる。
「煙なんて……なかった、よね?」
晶の一言を笑い飛ばそうとして。
「はい……記憶にありません〜」
「ごめん、さっきも言ったけど、多分気絶してたからさ……」
困った顔の残る二人と視線が絡みあう。
「おかしいな……確かにあれは煙と……え? じゃあ何か、最後に感じたなんか火でもついたのかっていう熱気も? 感じなかったって?」
慌てて言い募る雨緒の言葉に返ってきたのは三者三葉の表情。
どことなく心配そうな祭理と、本気で不思議がっている晶と、申し訳なさ気の楽彦と……そして沈黙だった。
「……まじで?」
あげくの果て、雨緒が口に昇らせることができたのは、そんな一言だけだった。
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