第四章 深夜の呼び声と烙印、そして目覚めの日 中編

 背中から投げかけられた声に、雨緒ははっとして振り向いた。


 先ほど辺りを見渡したときは居なかったはずの男が、そこに立っていた。コートのように丈の長い上着を羽織り、タートルネックのニットのセーターに、細めにフィットしたジーンズのようなパンツを履いている。

 すべての服が濃淡の差はあれど黒一色なのが特徴的だった。その上、髪も目も、顎の先だけに伸ばしている髭に至るまですべて黒。やせて、背が高く、頬がこけている。年の頃は三十前後からやや下だろう。

 手を上衣のポケットに突っ込んで、やや背を丸めて、全身から抑えきれない倦怠感を漂わせているのに、眼の奥にだけギラギラとした輝きがある。

 くたびれたカラスのようでいて、同時にどことなく不気味な執着を感じさせる男だった。


「悪くない面構えだ。少年、名前はなんという?」


 男は乾いた声で語りかけてくる。


「俺は……あんたから先に名乗るのが礼儀じゃないか?」


 答えかけた雨緒は直前で反対に問い返す。

 直感が、この怪しい男に従うなと言っていたからだ。


「礼儀はその世界によって違う……が、まあ、そうだな。俺の名は……ふ、いや、俺の名などどうでもいい。この剣の名である『エンヘリアル』と呼んでくれ」

「偽名かよ」

「もはや俺は人ではないからな。本当の名前を名乗っても仕方ないだろう? ……結局のところ、名前など記号にすぎないさ」

「じゃあ、俺の名前を聞く意味なんかないじゃないか」


 と雨緒が言うと、エンへリアルと名乗った男は存外その反応が気に入ったようで、破顔して「くくっ」と喉の奥で笑った。


「まあそういうな。これから長い付き合いになるんだ、うまくやっていこうじゃないか、相棒」

「相棒? どういう意味で——」

「とにかく名前を教えてくれよ、出し惜しみすんなって」


 砕けた調子になってそう問いかけてきた男に、雨緒はしぶしぶ自分の名前を答えた。


「志度雨緒——か。なかなか悪くない名前じゃないか」

「褒められても別にうれしくなんかないけどな。そんなことより、これって一体どうなってんだ? あんたが何者か知らないけど、あんたはこれが何なのか知ってるんだろ」


 辺りを——作り物の夜の海岸線を批判的な視線で一瞥して、雨緒は問いかける。


「大したもんじゃない。仮想現実ってやつさ、志度。お前が手にした剣が、お前の脳の電気信号に介入してこれを見せているだけだ。まあ初めてだったら驚くだろうな」

「あの剣が原因だってのはなんとなく分かるけどな」


 今、手のひらで例の黒い剣を握りしめている感触はないが、あれを握った直後にこうなったのだから、その関係性は明らかだ。


「そう、エンヘリアル——それがお前の言う『あの剣』の名称で、今は俺の名になったわけだ。なかなかいい名前だろう? 作ったのは俺じゃないが……名前は俺のアイデアだからな」


 自慢気に言うエンへリアルに雨緒は反論した。


「俺の名前が悪くないとか……あんた、名前なんかどうでもいいんじゃなかったのかよ?」

「む——記号にも大事なものとそうでないものはあるんだよ」


 言い切るエンへリアルの態度はどこか言い訳がましい。


「……まあ、あんたがそれでいいなら別にいいけど……。で、ここは仮想現実だって? じゃあ、ここにいるあんたもその類の作り物なのか?」

「そうだ。俺はただの残留思念だ。ふむ……それなりに進んだ時代の出身のようだな……」


 エンへリアルは目をぎょろつかせて、観察的な視線で雨緒の頭から足元まで眺め直した。それをしながら、口では別のことを言う。


「残留思念というのも厳密には正確ではない。ここにいる俺は、エンヘリアルのチュートリアルプログラムのアバターに俺自身の人格を概念的に再現した存在だ。だが、コピーではなくて完全な唯一のオリジナルとして遺したんだから、残留思念と呼ぶほうが適切だろうな」

「進んだ時代の出身ってどういうこと……って、チュートリアル? ……なんだ、つまり、あんたって、この剣の使い方を教えてくれるキャラってことか?」


 少し分かりにくなった言葉の中で、ゲームでありがちなものを聞き取った雨緒は、拍子抜けしてそう返した。

 楽彦ではないが、異世界にたどり着いて、最初に触れた魔法の武器の使い方を教えてくれる存在の登場、というのはいかにもありきたりに感じた。

 それと同時に、僅かな期待を覚える。

 異世界で、偶然見つけた伝説の武器で最強のヒーローになる、というシチュエーションに憧れない十代の少年などまずいないだろう。

 そう思っていたところに。


「剣の使い方を教える? それは脳に焼き込めばすぐに終わる。俺がわざわざエンヘリアルに自分自身を残留思念として宿らせたのは、そんなつまらん理由じゃないんだよ、相棒」


「……その、相棒ってのはなんなんだ。悪いけど俺にはあんたの言うとおりにしてやる理由なんてないぜ」

「俺の話を聞けば、そうも言ってられんさ」


 ニヤリと笑ったエンへリアルに、雨緒はいったん口をつぐむ。


「……どういうことだ?」

「——元の世界に戻る方法を知りたくないか?」

「……それは……」


 知りたい。

 そう口にしかけて——瞬間、雨緒の頭が高速に回転した。かわりにこう言う。


「知りたいか知りたくないかでいえば、知りたいけど、戻れないと困るかどうかはまだわかんないな。生活は保証してもらえるらしいから、元の世界よりもここのほうが住み心地がいいかもしれないし……」


 できうる限りの無関心さを装って、そう言った。


 ——これは交渉だ。


 確かに元の世界には戻りたい。だが、がっついて、足元を見られるとこいつの言いなりだ。うまくやって、自分に都合のいい情報なり提案なりを引き出さないと……。


「くくっ」


 だが、その虚勢は見透かされた。


「利口なふりをして見せても、さっき俺が『帰る方法がある』と言ったときの表情はなかったことにはならないぜ」

「……ちくしょう」


 舌打ちをする雨緒に、エンへリアルの口調はなだめるようなものになった。


「まあ気にするなって。お前は自分の世界に戻りたいんだし、俺はその方法を知っているが、代わりにお前にやってほしいことがある。何しろこんな体だからな。……こんな体というか体はないわけだが。……とにかく、利害は一致するんだ。うまくやろうぜ、相棒」

「で、でも……あんたが、元の世界に戻る方法を知っているってのが本当のことだとは限らないだろ」


 なんとか抵抗の糸口をつかもうと、そう主張して、気づいた。


「! そうだよ。もしあんたが元の世界に戻る方法を知っているのなら、ここにこうしているのが変じゃないか。元の世界への帰り方を教えてやる? 自分にも出来なかったことじゃないのか?」


 その指摘は妥当だと思えた。

 仮に元の世界に戻る方法を知っているのなら、この世界にわざわざ剣に自分を閉じ込めて残す必要もないだろう。それより、元の世界に戻ったほうがいい。そのはずだ。 


「ナイストライ。だが……まさにそれこそが問題でな。俺はここに意図して残ったわけじゃない。真実はもう少しくそったれだ」


 そこで、男は、残留思念であるなら必要ないであろう息継ぎをして、それから言った。


「お前に頼みたいことは、とてもシンブルだ。元の世界に帰ろうとした俺を殺した奴らがこの世界に遺した遺産——この世界にはびこる魔法を、消せ」


 静かに燃え盛る激情に目の奥を燃やして、エンへリアルと名乗った男は続ける。


「この世界は魔法に呪われている。魔法と呼ばれる代物は、奴ら——英雄と呼ばれることになった世界旅行者たちが、世界一つを玩具にして思うがままに汚し尽くした、最低最悪のクソなんだよ」


   ★


 そして……雨緒が目を覚まして最初に見たものは天井だった。

 見慣れた自室のそれではなく、アカデミーが事務所として使っている建物の、石材でできた蛍光灯のない天井を見て、雨緒は疑問に思う。


「地下室……じゃなかったっけ?」


 首を動かして室内の様子を見ようとすると、元の世界の修学旅行で新幹線のシートに長くいたときのように、体がきしんだ。


「あいててて……」


 昨日の夜、三人で眠った部屋よりも狭くて、仮に一人でも生活する部屋としては不十分なぐらいに狭い室内には、他に誰もいない。雨緒はベッドの上で横になっていた。あれから、部屋に戻った記憶はないので、誰かが運んでくれたのだろうと思う。

 身を起こそうとして、右手に違和感を感じる。

 動いた結果、毛布のようにかけられていた生成りの布が、体から滑りおちていた。そこから覗いていたのは例の黒剣。


「握ったままだったのか……」


 刀身には布が巻きつけられて紐で縛られていた。

 どれほどの切れ味なのかは分からないが、むき出しのままだったら怪我をしていたかもしれない。だが……。

 手から力を抜くと、剣はあっさりと寝台の上に乗って、転がることなく止まる。


「だよなあ」


 なんということもなく、手から離れた剣を見ながら、自分をベッドに運んだ誰かは、なぜこの剣を手から取り上げなかったのだろうかと思う。

 疑問を感じながら、寝台を降りようとして、床に足を落として体重をかけたら、なぜだか力が抜けて膝がかくんと折れた。


「うおっと」


 焦って近くにあったテーブルに手をついたが、その花瓶の置かれたテーブルは、一本足のバランスが悪い代物だったために、かけた重量に合わせてぐらりと傾く。

 なんとかバランスを取ろうとするが、体を支えるために手を付いた先がこのような状態ではいかんともしがたい。

 結局、普通に足を取られて倒れたほうがましだった、と言いたくなる体で、テーブルを巻き込んで床にひっくり返る。


「ってぇ! ——ぐへっ」


 胸から落ちて悲鳴を上げた次の瞬間、ひっくり返したテーブルが背中にぶつかった。

 同時に華麗に放物線を描いたテーブルの上の花瓶が、部屋の隅に着地して砕け散った。——が、雨緒はそれどころではない。背中に当たったのは天板のである。

 箪笥の角につま先をぶつけたときと同じようなもので、ベッドから出るという単純な動作で、こんな目にあったことに対しての怒りと、完全に自分の責任であるというやるせない感情がミックスしてこみ上げてきて涙が出そうになりつつも、痛みをこらえてゆっくりと息を吐き出した。

 そのまま起き上がると、テーブルがどうなるのか分からないので、床に這いつくばったまま体をずらして背中に乗ったテーブルを落とそうとする。

 と——。


 ドタドタドタ、という激しい足音が聞こえてきて。

 ばあーん! と、蝶番を粉砕する勢いで開かれたドアの向こうに、レイチェルの顔がのぞく。


「お、おおおおおお」


 口を開けたまま、一つの音を繰り返す彼女を雨緒は下から眺める。

 テーブルを落とすために動いたことと、狭い部屋だったせいで、入り口の直ぐ側まで頭が来ていた雨緒とレイチェルの距離はずいぶん近い。


 ……昨日はチノパンみたいな服だったけど、短いスカートでこのアングルは……転んでもただではおきない男だぜ、俺は。


 存外、地球とのとあんまり形の変わらないを目に焼き付けつつ、雨緒が立ち上がろうとする。と、頭の上からレイチェルの上ずった叫び声が降ってくる。


「起きたー! 起きた起きた起きたー! 雨緒くんが起きたーっ!」

「俺はクララか」


 鼓膜を破りそうな大音量にぶつくさと文句を言いつつ、雨緒が立ち上がると、レイチェルはその場で飛び跳ねる。


「だ、だだだダメだよ、おとなしくしてなきゃ」

「……あ? 何言ってんだ……それより、地下にあったあの黒い剣って——おい!」


 雨緒が、例の剣——エンヘリアルについて尋ねようとしているのに、レイチェルは泡を食った様子で雨緒に背を向けて駆け出していく。


「……一体、どうしたんだ?」


 わけが分からない……と思いつつ、部屋のほうに向き直って、ベッドからエンヘリアルを取り上げる。なんとなく目をつぶって——。


「お前の言うこと、全部信じたわけじゃないからな? でも、元の世界に帰る手がかりを知っていそうなやつは今のところ他にはいないし……しばらく、付き合ってやるよ」


 ——もう少し素直になれよな、少年。


 返ってきた声にならない声に、ふんと鼻息で返す。

 どうやら、昨夜のあれは夢ではなかったらしい。……夢にしては実感がありすぎた。それでも疑わずにはいられなかったのだが、やはり現実の出来事だったのだ。


「まあ、こんな世界だもんなあ……剣が喋っても当然か……ん? あ、もしかして……」


 先ほどの奇妙なレイチェルの態度の原因で、一つ思い当たるものがあった。


「この剣……もしかして……超貴重品で触ったらやばかった、とか?」


 いまさらのように不安が頭をもたげてくる。

 冷静に考えれば、今の雨緒たちの立場はただの客人にすぎない。勝手に保管庫に立ち入って貴重品を持ち出すなど論外だ。


「そういえば昨日、レイチェルが拘置所がなんとかとか言ってたし、警察みたいなのあるんだよな……ああ、なんかやばそう」


 部屋の外から、再び廊下を走る人の音が聞こえてきた。さっきとの違いは、その物音が明らかに複数人が立てているものであることだ。


「ま、まあ、こっちの習慣とか分からなかったわけだし、全力で謝罪すれば分かってもらえるよな? ……多分」


 ——少年、一つ、言い忘れたことがあるんだが。


「待て、今はそれどころじゃないんだ。このままじゃ、冒険が始まる前に逮捕エンドを迎えちまう」


 エンへリアルの発言——頭の中に直接響くやつ——を言下に切り捨てる。

 雨緒は部屋に入ってきた人の存在を感じた瞬間、入ってきた人の顔も確かめずにその場で、ずばあっと平伏した。


「すんませんでした! これにはちょっとした事情がありまして! 盗みを働こうなんてつもりは、まった……く?」


 下げたままの頭で、上目遣いでみたその先頭の人物はだった。


「あ、雨緒くん……」


 なんだか感極まっている感じに涙目になっている楽彦に、雨緒は問いかける。


「楽彦、お前、なんでそんな日焼けしてんの? ってか、髪も長くなってね? ……つか、ホンモノ?」


 目の前に現れた楽彦は、昨日は日中ずっと太陽光の下で歩きづめだったとはいえ、ちょっと日焼けし過ぎだろう、という感じに肌が浅黒くなっていた。

 しかも、制服ではなく、この世界のものっぽい簡素な貫頭服を着ている。ロスマンのではサイズが合いそうにないのだが、誰の服を借りたのだろうか。流石にレイチェルのってことはないだろうと思う。


「ね、ね、ホントだったでしょ」


 ひょい、と楽彦の後ろから頭をのぞかせたレイチェルがそんな風に言うが、雨緒には彼女が一体何を言いたいのかさっぱり分からない。ホントだった……とはなんなのか。

 まあともあれ、雰囲気的に雨緒を泥棒と糾弾したいわけではなさそうではあった。

 ほっと一息をついて、両膝を床につけての悔恨する罪人の図を取りやめて、すっと立ち上がる。


「で、これ……どうなってんの?」


 結局、雨緒の前に駆け込んできたのは、泣き出しそうな楽彦と、テンションの高いレイチェルの二人だけだった。

 驚きと喜びで口も聞けない、という様子の楽彦は置いておいて、レイチェルにそう聞いてみる。

 心当たりはあれだ。

 多分、自分が地下室ではなく部屋にいた事と関係がある。

 朝になって倒れていた自分を見つけたとかそういうことならば、心配してくれるのも分からないではない。

 が、大げさなところのある晶とかならともかく、そこまで親しくはないと思っていた楽彦かここまで感極まっている様子はなんだか……気持ち悪い。

 いや、悪い意味じゃなく——っていい意味でもないけどな。悪いな楽彦、でも本心なんだ。

 ……などと思っていると。


「雨緒くんは、この、眠ったまんまで目を覚まさなかったんですよ」

「……へ?」


 レイチェルのその説明を聞いて、雨緒の頭がフリーズした。

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