第四章 深夜の呼び声と烙印、そして目覚めの日 前編

「……?」


 雨緒は、ふと目を覚ました。

 辺りは静まり返っている。なんとなく、深夜だろうと直感する。

 羽織っていた掛け布団を剥いで——人数分の寝具などあるはずもなく、それは使われなくなっていた絨毯だったのだが——夜気の冷え込みに身を震わせる。

 完全に真っ暗だと思っていた視界も、目が慣れてくると物の輪郭ぐらいは見て取れるようになるものだが、どうやら光源があったようだ。

 部屋の窓は、木製の開き戸式のもので、ガラス窓のように外光が入ってくることはない。

 しかし、その窓とは別に、換気用なのか採光用なのか分からないが、壁に開口部が穿たれていて、そこから光が一条差し込んできていたのだ。

 穴の向こうには、随分と大きな月が浮かんでいる。

 実は、この世界には大小二つの月があるのだが、雨緒はまだこの世界の月の数を知らないため、単に地球よりもでかい月があるんだな、と思った。


「……トイレ、行こう」


 この建物の中にはトイレがないため、用を足すには建物の外に出る必要がある。面倒な話だが、生理的欲求には抗いがたい。雨緒は足元を半ば探るようにしながら、寝台から降りて立ち上がった。

 部屋の中には二つの寝息がある。

 そのうちの一つは祭理の、もう一つは晶の……ものでは当然なく。たまにいびきをするロスマンと、意識をしないと聞きとれないほどに静かな楽彦の寝息だった。

 ロスマンは二階に自室を持っているのだが、そこには晶と祭理が泊めさせてもらっている。街の中に部屋を借りているレイチェルも、今日はこの館に泊まっていた。


 明日は早起きして、みんなの分の食事の準備をしてくれるとのことだ。

 どうも、彼女は久々の訪問客の存在が嬉しいらしい。

 博物館側での手伝いとかがない限り、あのロスマンという研究の師匠と始終顔を突き合わせているらしいので、仮に雨緒が同じ立場でも飽きてしまうだろうなと思う。


 二人を起こさないように気をつけて部屋の外に出た雨緒は、フロアがうっすらと月明かりに照らされているのを見て、安堵の息を吐いた。

 見知らぬ場所で闇の中、というのは正直怖い。

 部屋数の多い二階と比べて、一階は、ロビーの役割を果たしていた場所が広くスペースを取っている。

 あちこちに物が積み上げられている簡易の物置のようになっているところが多く、整理されているとは全く言えないのだが、通り道だけは確保されている。

 青く輝く月光に薄く照らされた道を、ゆっくりと歩いていく……と。


「なんだ? どこかで音が——鳴ってる?」


 ここからどれだけ離れているか——そもそも距離で表せるものなのかどうかわからないが——地球の自宅だったら、換気扇のノイズやその日の気候によっては付けたまま寝ることもあるエアコンの動作音、それとたまに聞こえてくる遠い車のエンジン音、あるいは時計のカチコチ鳴るささやかだけど妙に気になることのある音などに包まれているのが当然だった。

 だが、この異世界の街では……密閉されていない窓を通り抜ける風の音ぐらいしかしないはずだ。それなのに、確かに妙な音が聞こえてくる。


 どこかで誰かが囁いているような——密やかなノイズ。


 深く考えることもなく、雨緒は音の発生源を探して歩き始めた。

 ともに異世界にやってくることになった、女子二人……もしかするともう一人も、が目を覚まして話でもしているのかもしれない。

 あるいは——ないと思うが——泣いているのかも。

 突然、こんなとこになってしまって、今日はなんだかんだで一日忙しくしていたので、ゆっくりと考えることもできなかった。が、今の状況は彼女たちにとってはだいぶショックだろう。

 もし、二人かそのどちらかが心細い想いをしているのなら、せめて勇気付けるぐらいのことはしないといけない。それが空元気にしかならないとしても。

 どことなく柔らかく湿った夜気を吸い込みながら、雨緒はもう一度ため息を吐いた。

 そうしてから、音の発生源を求めて歩いて、部屋の隅の一角にたどり着いた時。


「この建物、地下……があるのか」


 雨緒は、らせん状に曲がりながら下っていく階段を発見していた。

 微かだが、音は確かにここから聞こえてくる。

 階段の先は暗く、降りるかどうか迷ったが、ふと思い出してポケットに手をやった。そこから取り出したのは、電源を切ったままにしていた携帯電話だ。いつものように、寝る前には枕元においていたのを、先ほど部屋から出る前に手にしてポケットにしまっていたのだ。

 それは、この世界ではあまりにも意味がない習慣だったが……。


 電源を入れて、液晶画面を懐中電灯の代わりに使って、地下へと続く階段に足を踏み入れていく。

 最初に感じたのは、空気に漂う黴臭さだった。

 あまり使われていないのだろう。一番近くに置かれていたガラス張りのショーケースさながらの箱——窓には使われていない気泡の入っていない綺麗なガラスが使われていた——には埃が積もっている。

 一瞬ためらった後で、指先でなぞると埃が取れ、鈍く輝く黄土色の金属で出来た輪っかのようなものが見えた。

 ……金のネックレス?

 そう考えるが、すぐに違うと気がつく。サイズがネックレスではないし、輝きも金らしくはない。


「あ、そうか。ここで金が価値があるかどうかも分かんないな……っと」


 呟いた声が、地下の壁に反響して虚ろに響く。

 続いて、携帯の光を四方に巡らせて室内を確認した後で、


「はぁ」


 音を立ててため息をひとつ。不気味な響き方でちょっとひやりとさせられたのが悔しい。

 どうやらここは、展示品の保管庫……だと雨緒には思えた。彼には知らないことだったが、実際、それは正しく、ここには隣の博物館に所蔵されているものの一部が保管されているのだった。

 研究目的であったりするものもあるが、その大半はあまり価値がなく、展示に適さないとされたものである。


「やれやれ……早く戻ってトイレ済ませちまおう」


 なんのためにここに足を踏み入れたのかをすっかり忘れて雨緒がそう呟いた時。


 ——。


 地下室に入る前に聞こえていた音が、より強く聞こえてきた。

 最初、誰かの囁き声のように思えたそれは、ランダムに高低の揺らぎを繰り返すヒスノイズのような音だった。


「人間の声じゃなかったな……。奥の方から聞こえてくるけど」


 せっかくここまで来たのだからと、物音の発生源を突き止めるまではやろう、と雨緒は部屋の奥へと足を進めていった。

 一階の広さから想像はついたが、地下室は意外に広い。

 自分の何とか周囲を照らせる程度の明かりしかないこともあって、なおのこと効率が良くない。

 おそるおそると歩みを進めている途中で、使っているスマートフォンには、携帯電話に付いているカメラのフラッシュを懐中電灯代わりにする機能があることを思い出した。

 画面を操作して、機能を有効にする。


「おっ、だいぶよく見えるようになったな。……ん、ありゃなんだ?」


 音源の方向にライトを向けると、奥の壁に飾り棚があって、そこには一降りの剣があった。他にもいろんなものが飾られているのだが、不思議なことに雨緒にはその剣こそが奇妙な音の発生源だと感じとれていた。

 吸い寄せられるように、剣に近づいていく。


 刀身もヒルトを含めた柄の部分も、すべてが黒一色の剣だ。

 長さは百センチ程度。握りの部分が、両手で扱えるように作られているために全体は長くなっているが、両手剣としては短く、基本的には片手で使うことを想定していた。

 日本刀と同じように片刃になっており、かつ、先端の切っ先部分は十センチほどが鋭くかつ諸刃になっていたが、これはこの世界では珍しい拵えであった。刀身は一見して重そうだと感じる程度には厚く、反りは僅かに入っている程度だ。

 その黒い剣を一通り眺めて、雨緒がまず感じたことは、


 ——格好いいな。


 だった。

 この世界の人間にとっては、これは武器や兵器であり、危険なものなのだろうが、現代日本に住んでいる雨緒にしてみれば、剣というのはゲームや漫画、その他の物語に出てくるもので、剣を凶器として捉える意識があまりない。

 いや、この世界の人間でも、これは格好いいと思うだろう——と考えながら、雨緒は剣を手に取る。


「軽っ」


 刀身の厚み、長さの見た目から想像できないほどに軽くて、取り落としそうになって慌てて握り直す。

 そして、視界が暗転した。



 ——cndits nn-modfd, T. / cmp-insp, T. / mem-spth srch, D. / sys btSeq, D. / ex bra-Ap..
 ——言語設定を変更。


 ——環境適応プロジェクト『Sillabel』に基づく高出力実装プロトモデル、エンヘリアルの使用が可能になりました。初回利用のため、自動的にチュートリアルプログラムが展開されます。エラー。論理メモリ領域に損傷があります。設定されたエラーメッセージの表示の後、プログラムは自動的に修復されます。


 ——自動翻訳したエラーメッセージを表示します。


『お。これ踏んだの? おめでとう。残念だけどこの例外処理は実装しませーん……文句はあたしじゃなくてアリスに言ってね。可愛くて賢いニーナちゃんより』


 ——例外処理でエラーになりました。

 ——rfqw34tgrqsdfvasdfiiujqpwu398ru4123wefaoiefjoiajsdfojjaf……


 ——人格再現プログラム「nemesis-raven」が起動しました。

 ——初期化しています。



「ちょっと待て、ちょっと待てよ、おい!」


 雨緒の抗議を無視して、大量の情報が頭の中に直接展開されていく。

 突然辺りが真っ暗になったので、最初は懐中電灯機能が壊れたのかと思ったのだが、どうやらそうではないらしく、幾つもの文字が宙に浮かびはじめる。

 驚いて別の方角を向くと、宙に浮いた文字が視線の動きに合わせて付いてきた。


「うお」


 あたかも、雨緒が向いている方に透明のディスプレイが存在するように、理解できない文字が並んでいく。そして、その文字の羅列は次第に行を成し、段落となった。

 ほぼ同時に、一つだけだったそれが幾つかに分かれて、並んだタイルのようになる。複数のタイルの中では、文字列が同時に描かれていく。単純な文字だけではなく、左から右に動くインジケーターのようなもの、車の速度表示のタコメーターのようなものも混ざり始めるが、そもそも使われている言葉がまったく理解できないので、雨緒にはただ眺めることしかできない。

 視線をそらしてもそこにやってくるのだから、見ないためには目を閉じるしかない。


 試しにと目を閉じかけた時、視界の中央に新しく大きなタイルが開かれて、そこに親しみのある文字——日本語を見つけた。瞬きをしても、やはりそれは日本語だった。

 言語としては理解できるものの、書かれていることの意味は理解できないのだが、これまでよりは興味を惹かれて、目を閉じるのを忘れてじっと見ていた。

 その頃には、一時、数十にも増えていたタイルが、日本語を表示している大きな一つを中央に残してその他は小さく縮小され、あるいは他のタイルの影に隠れて、同時に複数の文字列を追う必要はなくなっていた。あたかもこのタイルに集中しなさい、と言わんばかりだ。

 とはいえ、しばらく眺めてみても、何が書かれているか分からないのは変わらない。その上、文が上から下に流れていくスピードが早すぎて、拾い読みをするので精一杯だ。


「どうやらパソコンみたいなものっぽいが……誰が作ったのか知らないけど、絶対読ませる気ないだろ、これ」


 雨緒がそう愚痴ったのを聞いたのか、はたまたただの偶然か、日本語を表示していたものを含めて、すべてのタイルが消失した。


「——うわっ!」


 海。砂浜。波打ち際。夜。幾千もの星々。

 視界に移る光景は、まるで赤道直下の常夏の島にある砂浜での夜景。行ったことはないが、なんとなくそういうイメージ。


 いつの間にか場所を移動していた——?


 押し寄せた波のしぶきが履いていたスニーカーにかかりそうになって、数歩下がって、そして気づいた。


「違う、この地面、砂じゃない」


 見た目はもちろん、踏みしめたときの音も見たままなのに、触感だけが奇妙にふわふわしていた。まるで夢の中のようだ。

 再び周囲と空を眺める。


 潮騒の音がする。

 海独特の磯の匂いもする。

 浜から海に向かって柔らかな風も吹いている。

 空には満天の星空。

 だが、それでもここは——。


「現実じゃ、ない?」


「——察しは悪くないようだな、適格者よ」

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