第四章 深夜の呼び声と烙印、そして目覚めの日 後編
「ええと——俺が? 一年寝込んでたって……一年って三百六十五日?」
「はい。一年です。だいたい三百五十日ぐらいですけど……? って、あー、そうでしたね、三百六十五日って楽彦さんたちの世界の一年ですよね、こっちとは微妙に違うのが興味深いです」
「……えええ……?」
あっさりと言われて——ついでに例によってのひとりごとっぽい説明を付け加えてくれて——雨緒はうめいた。
——だから、話しておくことがあると言ったのだがな。
「って、そんな大事なことは先に言えよ!」
手元から伝わってきたネメシスのその声に、雨緒は抗議の叫びを上げた。
ところがそれは、予想してなかった不都合を引き起こした。
「ご、ごめんなさいっ」
びくっ、と驚いて固まったレイチェルが、目を丸くしつつこちらに謝ってきた。
「あ、いや、悪い——そうじゃなくて、これはこっちの話で」
——先に言おうとしたところを遮ったのは志度、お前だ。
「言い訳すんなよ! ——あああ、違う違う!」
「だ、大丈夫ですよ。混乱する気持ちも分かります。どうか落ち着いてください」
二度も怒鳴られたせいか、涙目のレイチェルが手をパタパタと振った。
——女の子を脅かすのはやめとけよ、みっともないぜ。
「くっ……」
——なら黙ってろよな!
三度目の正直で、口をついて出そうになった言葉をなんとか噛み殺す。
と。
——分かった分かった。冗談のわからんやつだな。
言葉に出さなくても剣に通じると思ってなかった雨緒は、驚き半分に再び反応してしまう。
「ああ?」
意図していたわけではないが、ドスが効いた声に再び場の雰囲気が凍りつく。雨緒は繰り返しの失敗に、ついに目をぎゅっとつむってしゃがみこんだ。
穴があったら入りたいとはこのことだった。
そんな雨緒を前に、楽彦とレイチェルが目配せをして、
「医者の先生とか、呼んだほうがいいかな……?」
「そ、そうですね。いつものウェルマー老師が診療所にいらっしゃればいいんですけど……」
などと相談を始める。
事情を説明しないとと思うが「実はこの剣は喋るんだ」といえば何が起きるかなんて、予想するに難くない。
が、適当な嘘をついて切り抜けるような場面でもない。
困った雨緒は、部屋を出て行きかけたレイチェルをとりあえず止める。
「……あー、とにかく、ちょっと待ってくれ……いろいろ事情があってだな……その……ともかく、いったん落ち着いて——そうだ、まずはこの花瓶を片付けた方がいいよな。話はそのあとにしよう。……いいよな?」
結局、割れた花瓶を片付け、ひっくり返ったテーブルを戻して、こぼれた水を拭いて……そして、誤解を解くまでに三十分はかかったのだった。
★
「喋る剣、ね……。握りしめたままどうやっても離さないし、その剣が昏睡の原因だろうとは言われていたんだけど」
「その黒い剣は英雄たちが残した遺物の一つとされています。由来も機能もはっきりしていませんでしたが、何らかの魔法がかかっていることは分かっていました。魔法を感知する魔法に反応するのと、全く錆びたりしないことから、永続化の魔法が使われているだけかと思われていたのですが……」
ベッドに座り直した雨緒は、立て直したテーブルの上に転がしてある剣——エンヘリアルを指先でつつく。
「特に手放せないってことはないけどなあ」
「いやー、それがさ。全然離さないし、この剣が呪われているかもしれないから、手首から切り落としたらどうかって話が出てさあ」
先ほどすぐに気づいた日焼けだけではなく、この一年でややがっしりした体つきになった楽彦があっけらかんというので。
「なるほどなー。呪いの武器だから手首を……は? いやいや、待ってくれよ」
「大丈夫、やってないから」
いまさらながら——自分が寝ていた一年の間のことなので完全にいまさらだったが——ほっとして息を吐く。
「晶ちゃんが反対したんだよね。雨緒の手を切るならボクの手首を先に切れ! って。ノリでわけわかんないこと言って」
「いやぁ……そりゃ……まあ、感謝すべきかな?」
ノリで言う、ってところがあいつらしいよなと雨緒は笑って、そして違和感の原因に気づいた。
「『晶ちゃん』? そんな呼び方してなかったよな、楽彦」
「……ああ、うん……。まあ色々——あってね」
他人行儀に……というか、クラスメートという間柄では当然だが、楽彦は、晶のことを『楠木さん』、祭理のことを『垂枝さん』と呼んでいたはずだった。
そのはずが——。
「お、おう。おめでとう……って言えばいいのか? そうだよな……一年間だもんな、色々あるほどに長いよな」
不意に、胸の奥につかえの塊が生まれたような錯覚を抱きながらも、雨緒は『色々あった』という言葉から察して、楽彦をなんとか祝福する。
「——? 何がおめでたいんですか?」
そこに直球を投げ込んできたのがレイチェルである。
さすが異世界人、日本人と違って空気読めない子である。
「いやだから、楽彦と晶が付き合って……るんだろ?」
「え?」
「は?」
「え、今の会話のどこにそんな話題がありました?」
……説明しよう。
雨緒による、英語だったら否定疑問文になったであろう「〜るんだろ?」という問いかけに対する最初の「え?」は楽彦のものである。
予想外の反応に対する「は?」が雨緒のもので、やはり空気が読めていなかったレイチェルの反応が最後の問いかけであった。
「……え、違うの?」
少し間を空けて、再度確認する雨緒。
「僕は晶ちゃんとは付き合ってないよ……ってか……ああ、いやまあいいや。……とにかく、晶ちゃんとも祭理さんとも付き合ってないから」
「私が知っている限りにおいても、そうですね。楽彦さんには恋人はいません」
「いや、わざわざ繰り返して言ってくれなくてもいいんだけど……そんなの……」
「いえいえ、事実関係の確認は研究者としては大切なことですからね」
レイチェルと楽彦の言い合いを聞いて、雨緒は混乱する。
「え、でも色々あったって言ったじゃん?」
「ああ……うん、大変だったんだよね……名前の呼び方が決まるまで……」
過去を思い出してげんなりした表情になる楽彦。
★
聞くところによれば、この世界では——特にこの辺の国に限っては、のようだが——名字で人の名前を呼ぶことは、友人のような親しい間柄ではまずないことらしい。
そもそも姓を持たない人間も多い、という事情もある。
それで、例えばどのようなシーンで姓を呼ぶかというと、姓のある貴族が親しくない他の貴族に話しかける時、相手の生まれを示す姓から呼びかけることでおろそかに扱っていないという意志を表明することができる……などという例が最初に上がってくるぐらいにはレアなことのようだった。
それで、じゃあ自分たちの間では、下の名前で呼ぶことにしよう、という話になったそうなのだが。
「んー。それならボク、あだ名の方がいい」
とか言い出した晶のせいで、晶の呼び方を決める会が開催され、楽彦が候補を出しては晶に蹴られ、いったん決まったものの数日後に「やっぱイマイチだと思う」とか言われること幾たびか。そして最後の最後にやっぱこれでいいんじゃない? ということで『晶ちゃん』なる平凡極まりない呼び方に落ち着いたとのことであった。
というような話をレイチェルが説明してくれた。
「そ、そうか……大変だったな」
「ちょっと話が盛られてる気もするけど、まあそんなとこ……」
どう考えても晶が単純に飽きただけと思われるあたりが特にひどいなと雨緒は思う。
「俺から文句言ってやるよ……ん、そういえば、二人はどうしてるんだ、今日は」
目を覚ましてから、そろそろ一時間半ぐらいは経過したような気がする。時計がないので正確な時間は分からないのだが。
そういえば、スマートフォン、ないな。
雨緒にとってはつい昨日の夜、現実には一年ほど前の夜に持っていたはずのスマートフォンがどこかに行ってしまったことに思いを馳せていたが、次の言葉だけは頭にダイレクトに響いた。
「祭理さんと晶ちゃんは、少し前から旅に出てるんだ……だから、この国にはいないよ」
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