一章 そのいち
唐突に夢から覚めたような気がして、ユキノは目の前の廊下を見回した。
放課後の校舎はまるで壊れたスピーカーが止まることなく騒ぎ立てているかのようだ。
音の洪水。笑い声。はしゃいでいるのか、叫んでいるのか。
遠くなり、近くなる。わんわんと響く喧噪の中、自分はどこへ行こうとしていたのか。
ふと隣を見ると、最近委員会で一緒に活動しているクラスメイトが立っていた。
「そっちじゃない。こっちから行った方がいいはずだから」
「・・・渡瀬さん」
渡瀬りほ。
ユキノと同じこの高校の新入生で、図書委員。
今時珍しいほど黒い髪を、まっすぐに顎の下あたりまで伸ばしている。少し前下がりの毛先が彼女が首をかしげるたびにサラサラと揺れた。
じっとその顔を見ているうちに、ユキノの思考のもやが晴れていく。
「早く行かないと、貸し出しの人たち並んでいるかもしれない」
静かだけれど、凛とした声だった。入学してまだ1ヶ月程だが、渡瀬りほの印象と言えば物静かで、控えめ。決して人の前に出るタイプではないが、発する言葉が妙に印象的なところがある、とユキノは思っている。だが・・・
(こんなに強引だったかな・・・)
今も、ユキノの返事を待たずに方向転換して自分一人で歩きだしている。まるでユキノが付いて来るのは当然だという感じの態度だ。
そうそう、図書室へ行くところだったとようやくユキノが思い至り、慌てて彼女の後を追いかけるも、その背中は既に下り階段へ消えようとしている。
「待って、待って渡瀬さん!」
階段を数段降りたところで、少しだけ背の高い相手の肩に手が届いた。
ゆっくりと振り返るサラサラの髪。肩に置いたユキノの手をちらりと見た。
「あ、ごめんね、でも図書室って渡り廊下を渡った方が近くない?」
思わず一瞬触れて離した手を、やけに熱心な視線が追いかけて来た。
「そう・・・。でもこっちの方がいい」
有無を言わさない口調だった。選択肢は最初からひとつしか無かったようだ。
黒い瞳に気圧されるようだが、ユキノは繰り返し、たずねてみた。
「こっちがいいって何?何かあるの?」
「・・・何も無い。無いからいい」
さっぱり訳がわからないが、ユキノは逆らわないことにして同じ階段に並んで立った。
やはり少しだけ自分より背が高い。もしかして姿勢がいいのかもしれなかった。
反論する気が無くなったのは、ユキノを見る瞳がとても真剣だったからだ。
きっとユキノの為にそう言っている。根拠は全く無いのだが。
「じゃあさ、購買寄って行っていい?お腹すいちゃった」
今度は自分から進んで階段を下りながらユキノは振り返った。
見上げたクラスメイトは、何故だか少しまぶしそうに目を細めて頷いた。
ユキノの通う高校は、とある地方都市にある半寮生の女子高だ。
部活動では全国クラスのものがあり、遠方から推薦で集められた生徒達の為に寮が完備されている。空きがあれば近郊に住む生徒も寮に入ることができるが、わざわざ規律に縛られた生活を送りたい者はまれである。
かくいうユキノも家が近いとは言い難いが、自宅組だった。ただ、この学校は街の山の手、市内を見下ろす小高い山のてっぺんにある。
だらだらと下る山道を徒歩で下りるのは不可能ではないが、30分かけて下りた後、今度は当然登らなくてはならないわけで、生徒側からの要望もあり学校が定期的に市内までの往復マイクロバスを運行させていた。
市内行きのバスの最終は19時45分。クラブ活動、委員会活動の終了時刻は19時までと決められている。
ユキノ達は本日図書当番に当たっている為、自宅組のユキノは何が何でも最終のバスに乗らなければならなかった。
「ねえ、渡瀬さん」
1階まで下りてきた2人は、昇降口を出て上履きのまま特別棟に入る。
美術室、音楽室等、特別授業のある教室ばかりを集めた棟だ。この校舎の3階にこれから行く図書室もあった。
綺麗に掃き清められた通路を渡り、取りあえず1階にある購買の方に向かいながら、ユキノは静かに隣を歩くクラスメイトに尋ねてみた。
「渡瀬さんって寮生なんだよね。どんな感じ?厳しい?それとも楽しい?」
これまで、せいぜい修学旅行か合宿か。外泊といえばその程度しかユキノは知らない。
好奇心できらきらした目を向けられて、相手は面食らったようだった。
「・・・暮らせてる。無事に」
「はい?」
無事に?
「えーっと、要するに安全ってこと?」
セキュリティがしっかりしてるとか、そういうことだろうか。
クラスメイトは生真面目な顔でこくりと頷いた。
「これ以上ないくらいに安全・・・守られてるから」
ユキノも真剣に頷いた。いくら山の上とはいえ、ここは女子高なのだ。しかも女子寮、安全すぎるほど安全でなくてはならないだろう。
「それなら安心だね。ちょっとだけね、憧れてたりするんだ。寮なんて、想像するしかないんだけど、ずっと友達と一緒なわけじゃない?そりゃ、プライバシーとかいろいろあるとは思うけど、やっぱり楽しいのかなって。夜中まで喋ったり、お茶会とかしたり・・・ああ!いや・・・うん、渡瀬さんは必要に迫られて入ってるんだよね。・・・ごめん!ペラペラとごめんね」
渡瀬りほはどこかの部活動の推薦で入学してきたわけではないらしい。詳しくはユキノも知らないが、入寮の理由は家庭の事情ということらしかった。
つい調子に乗って、突っ込んでしまった。素直すぎる、と友人達からよく言われることであったが、これはいけないだろうと戒める。
だが、そろりと見上げたクラスメイトの瞳はほんの僅かだが、おかしそうに細められていた。ドキリとするほど優しい目だ、とユキノは思った。
「・・・渡瀬さん?」
「木村さん、下の名前何?」
「なまえ?名前・・・えっとユキノだよ」
唐突に聞かれて、声が裏返ってしまった。
ユキノ、と小声で呟いてから相手はじっと見下ろしてくる。黒い瞳の視線は痛い程強い。
「ユキ、と呼びたい。呼んでも?」
「いい・・・けど・・・。えーっと、うん。いいけど何か慣れないね。やけに恥ずかしいし、何でだろ?」
ユキと呼ぶ友人もいる。なのに何故か気恥ずかしく、初めて呼ばれるような気がしてユキノは意味も無くジタバタと焦った。
そんなユキノに構わず、当然だという風情で更に要求された。
「私も名前で呼んでほしい。ユキに」
「なまえ??!ああ、うん、いいよ。えっと、りほ・・・ちゃん?」
「呼び捨てでいい」
廊下の真ん中で叫びだしそうな恥ずかしさと、くすぐったさでユキノは悶絶した。
「わかった!呼ぶ時、そうするから。だから早く購買に行こう~」
思わずといった風に、制服の袖口を掴まれて、りほは今度こそくすりと笑った。
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