一章 そのよん
遅い春の宵。
桜は当の昔に緑の木々になり、山は徐々にその色を濃くしていく。
もう初夏と呼んでもいい季節に入っているのかもしれなかった。
山の中に建つからだろう、街の喧噪からは程遠いしんと静まり返った校舎に、ふたつ人影があった。
紺色のブレザー。この学校の制服を着ている。
時刻は午前2時。もちろん、他に誰の姿も無い。
生徒と思わしき2人は、闇の中音もなく廊下を進み、一つの校舎の3階まで上ったところで足を止めた。廊下の中ほどに観音開きのガラス扉があり、その先は隣の校舎に繋がる渡り廊下になっている。
晴れた日には心地よいが、屋根は無いので雨の日に通る生徒はほぼいない。
その扉の前に立つと、2人組の1人、背の低い少女がガラスの向こう側と扉の取っ手を見比べて、慎重に右手をかざした。
闇の中、ぽうと紫色の明かりが灯り、少女の顔を浮かび上がらせる。
それは香坂あかねだった。
あかねは眼鏡の奥の目を細めると、口の中で小さく【識別確認】とつぶやいた。
途端、バチッと音がして火花のようなものが散る。
「つっ!」
あかねの右手から発光していた紫色の光に黒い筋が入り、一瞬にして双方が消え去った。
「大丈夫か?」
「・・・忌々しい」
軽く右手を振ると、あかねは闇に沈む渡り廊下を目を眇めて見た。
「やはりこの魂配列は侯爵家のもののようですよ。私の配列とは相性最悪。まあ、今に始まったことではないですけど」
広げられたあかねの手のひらには、うっすらと文字のようなものが浮かび上がっていた。
アルファベットを逆さにしたような、絵のようにも見える不可思議なものだ。
それらは、読み取ろうとする暇もなく、火縄が燃えるように端から消えていく。
傍に立つ同じ制服を着た少女は、燃える文字を無感動に眺めていたが、ふいと渡り廊下を見やった。
「それで、解けるのか?」
「解けるのか?・・・解けますよ、おそらく。だからてっとり早く斬ってしまおうなんて思わないでくださいね」
「やれるものなら、やっている」
むっとしたように答えて、あかねを見下ろしたのは、肩までのまっすぐな髪を揺らした背の高い少女。渡瀬りほだった。
りほは自身の左側の腰のあたりを右手で探り、集中するように目を閉じたが、すぐに目を開けてふっと息を吐いた。
「やはり、まだ具現化できないんですか?」
「すぐそこまで『来ている』気はする。でもあと少し、足りない」
確かに『熱く』なっている自身の右手。しかし内側から湧き上がってくる爆発的な何かを形作る為の後ひとかけら、後一瞬の何かが、欲しかった。
「やはり、『魔術』と『斬術』は違うんですかね」
まあ、こちらの世界の魔術という概念とは少し違いますけど、と呟きながら、あかねは再び扉に手をかざした。今度は右手と左手を重ねて、指を絡めながら複雑な印を紡ぐ。
常人の目にはほんの数秒の間、指が交差していく様子しか見えないだろう。
しかし『視える』者が見れば、あかねの指が動くたびに、扉の取っ手を中心にして幾重にも重なった、まるでいばらのような文様が浮かび上がっていくのが見て取れた。
やがて、あかねはピタリとその文様の中心、まるで薔薇の蕾のような部分に指を当てて目を閉じた。一瞬の後、
ドン、と空気を揺るがす音が1拍聞こえ、ガラス扉のこちら側から向こう側の渡り廊下まで、一気に紫色の烈風が駆け抜けた。いばらのつるも、薔薇の花びらも吹き飛ばされていく。ガラス扉はビリビリと震えたが割れることはなく、やがて僅かな残響を残して辺りは再び夜の静けさに沈んだ。
「・・・薔薇ってところが、何かいやらしいですよね」
目を開けたあかねは、その指でつっと、扉の取っ手をなぞってから、りほを振り返った。
「どうぞ、お入りを」
一瞬むっと眉をしかめたが、りほはあかねの横から手を伸ばし、渡り廊下への扉を押し開けた。躊躇なく踏み出した先には、夜の闇に沈んだ廊下が伸びている。
「うわ、濃い」
「・・・うんざりする香りだ」
りほは不快感も露わに吐き捨てた。
「ちゃんと祓ったんだろうな」
そのまままっすぐ廊下の中程まで進んだところで足を止め、りほが振り向いた。
「あのですねえ」
空気中にまだ満ちている残滓を掻き分けるようにして、あかねがりほの隣に立つ。
女子の中でも特に小柄な彼女は、長身のりほの肩の高さ位しかなかった。
「私の能力は『解除する』ことです。まあ、これもこちらの世界の言い方をすればですけど。あくまでも『読み』、『解く』ことが目的であって、それらを破壊したりなんてことはできないんですよ。この期に及んでまだそんな弁明をしなければならないんですか?」
正確には、『この世界に及んで』だ、とあかねは思った。
「悪かった・・・あまりに不快だったんだ」
りほはボソリと呟いた。
「吹き飛ばしたのはオプションですよ。解いた段階でこの呪いの効力は消滅するけれど、絶対ひどい『匂い』が残っていると思ったもので。それでもただ空気を動かしただけですから」
眉間にしわを寄せて、辺りの気配を探るりほをあかねは見つめる。一瞬だけ迷って、小声で尋ねた。
「・・・あの方ですか?」
「・・・」
唇を引き結んだりほは無言だった。
あかねはため息をつくと、廊下の前後左右を見渡して、『匂い』以外のものが無いか確かめた。大気の中に残る、術者の残留思念ともいうべきか、未練や執着のような目に見えない何かは、空を見つめるりほにしつこくまとわりついているように感じた。
(世に恐ろしきは女の執念)
「何を考えている・・・?」
「いーえっ、何も」
ぷるぷると首を振った、あかねの顔には乾いた笑いが張り付いている。
「・・・しつこいのは、私も一緒だ。未練の塊なのも、往生際が悪いのも」
りほは澱んだ空気に手を触れながら言った。そっと指を伸ばし、まるで壊れ物に触るように柔らかく接するりほの顔には、不思議な表情が浮かんでいる。
(もしかして、憐れんでいるとか・・・?まさか、同調??)
掴みかねる相手の反応に首を捻りながら、あかねは見守った。
りほは、ゆっくりと自分の周りの空気を探りながら夢見るように目を閉じた。
「でもユキに手を出すことは許さない」
一瞬の裂ぱくの呼吸の後に、りほを中心とした数メートルの範囲が、光る剣のようなもので薙ぎ払われた。
「ちょっと、ちょっと!!」
寸前で後方に逃れたあかねが、こらえきれずに尻餅をついた。
細い女の悲鳴のようなものが聞こえる。
それは恨めし気に長く尾を引いて、渡り廊下の上に広がる暗い空に消えていった。
今度こそ、真夜中の校舎に静寂が落ちる。
あかねは憮然と、空を見上げた。
「出来るなら最初から祓ってくださいよ・・・」
りほをぐるりと囲んだ円状に、床を掃き清めたような白い跡が広がっていた。
「実態じゃない。ただの思念だ。本体はここにはいない」
じっと自身の右手を見つめながら、りほは呟く。
もう少しだったのに・・・と悔しげに手を握りしめると、座り込んで自分を見上げているあかねをチラリと見た。
怒るのも馬鹿らしくなった、あかねはその場で胡坐をかいた。紺色のタイツを履いているとはいえ、年頃の少女がするにはあまり誉められた格好ではない。
「本体なんて冗談でしょ」
「ここには、いない」
じゃあ、どこにいるのかとは聞けず、あかねはうなだれた。
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