一章 そのさん

 そもそも、とユキノは思う。

 そもそも、自分はこの何を考えているかよく判らないクラスメイトと、こんな距離感で話す間柄だっただろうか。

 差し出された返却の本を受け取って、貸し出しカードに印鑑を押す。新たに借りる予定の本を特に持っているわけでもないのに、その場を立ち去らない生徒にユキノは首をかしげて尋ねた。

「何かお探しですか?」

「・・・あの・・・そっちの・・・」

 目の前の女子生徒は、おどおどと小声でつぶやく。思わず、えっ?とユキノは聞き返した。女子生徒の顔はみるみるうちに真っ赤になった。

「そっちの・・・!あの、奥にいるあの人って・・・」

そっち?振り向いて奥を確認すると、カウンターの内側にあるドアの向こうで、りほが取り寄せ希望の本を探している。

「渡瀬さん・・・ですか?」

「!!渡瀬さんって言うんだ・・・今まで見たことないけど何年生?」

「1年ですよ。クラスメイトです」

「1年生?!・・・大人っぽいから先輩かと思った・・・ねえ、仲いいの?いつも一緒に当番してる?次っていつなのか知ってる?」

「・・・あの」

 急に意気込んで喋りだした相手にユキノは困惑した。何だ?アイドルの追っかけか何かか?女子高というのは独特の雰囲気があると聞いてはいたが、入学してからこれまで、あまり変わった空気を感じたことがなかった為、ユキノは目を白黒させるしかない。

「ねえ、メアドとか知らない?あのっ、住んでるとこでもいいんだけど」

「いや、ちょっと待って」

 さすがにこれはおかしくはないか。今にもカウンターの中に入り込みそうな相手に、ユキノが慌てて立ち上がり制止しようとしたところで、背後から無表情な声が割り込んだ。

「個人情報」

 りほはユキノを押しのけて、前に出た。

「ストーカー被害届を出しても構わないだろうか」

「ちょちょっと、渡瀬さん!?」

 いくらなんでもそれはひどいだろう。見ると目の前の女子生徒は、目を潤ませて震えている。わなわなと今にも叫び出しそうな様子に、ユキノは慌てふためいてとにかく落ち着かせるべく傍に寄ろうとしたが、りほが行かせなかった。

「・・・赤の他人につきまとわれるのも、ストーカーと言うのかは疑問だけど。この場合ただの変質者か」

 氷のように冷たい、というわけではなかった。だがからからに乾いた声だった。

 無機質で無感動。相手に欠片の興味も感情も持っていない声だ。

 女子生徒はくるりと振り向くと、バタバタ足音も荒く、駆け去って行った。

 ユキノは呆然と言葉も無く、見つめるしかない。 

 りほは、女子生徒が背中を向けたあたりから既に興味を失ったらしく、元いた図書控室へ戻ろうとしていた。

「渡瀬さん、ちょっと待って!」

 部屋に入りかけていた背中がピタリと止まる。

「えっと・・・」

 声をかけたはいいが、次の言葉が出てこない。りほの冷たい態度に腹が立ったのかもしれないし、驚き過ぎて、反射的に呼び止めただけかもしれなかった。

 たしなめるとか、そんなことができる程の間柄ではない。それでもやはり、人に対してあんな言い方は無いと思うのだ。例え知り合ってからまだ1ヶ月程度しか経っていないとしても、りほには、何故か周りの人間にそんな態度は取って欲しくなかった。

 ユキノは立ち上がって、りほの前に回った。

「あのね、駄目だよ。あんなこと言っちゃ駄目。そりゃ、あの人も凄く問題有りだったけど、無条件に相手を傷つけるだけの言葉を言っちゃ駄目だよ。つらいよ」

 りほのガラス玉のような瞳が、じっとユキノをみつめていた。

 深い青にも見えそうな黒。しかしその奥をよく見ると、何か渦巻いているようにも見える。必死に押さえつけていないと、溢れ出してきそうな何か。

「・・・だけ」

「えっ?」

「来て」

 りほはユキノの腕を掴むと、控室の中に引きずり込んだ。

 そのまま部屋の中に押しやり、扉を閉める。

 後ろ手にガチャリと鍵を閉めると、扉を背にしてまるで出口を塞ぐように立った。

「渡瀬さん・・・?」

 りほはうつむいている。サラサラと流れ落ちる髪で表情がよく見えなかった。

「渡瀬さん・・・り、ほちゃん?」

「どうしたらいい?」

 くぐもった声だった。何かを必死にこらえているような声だ。

「りほちゃん、どうしたの?大丈夫??」

 ユキノは急に不安になって、思わず傍に駆け寄った。

 見ると、りほの手は震えている。寒いのか・・・それとも。

「・・・怖いの?」

 りほはゆっくりと目を上げた。黒い瞳はゆらゆらと揺れていた。まるで炎のようだ、とユキノは思った。

 震える手が、そっとユキノの頬に触れた。ひやりとする。思わずビクっと揺らした肩をりほは引き寄せて掻き抱いた。

「ユキ、ごめん・・・ごめん。でもこうするしかない」

 りほの制服の胸に抱きしめられながら、ユキノは呆然とその声を聞いていた。

「本当は、近付くべきじゃなかった。手を伸ばしてはいけなかった。でも」

 ごめんと、りほは言った。

(ごめん・・・?)

 ユキノは何故謝られているのか判らないまま、それでもりほの腕を振りほどけずにいた。

 ほんの少しも、欠片ほども、りほの言うことは判らない。

 言動も謎だらけで、理解不能なことばかりだ。

 それでも。

(それでも、私はここから動きたくない)

 自分で自分の感情が理解できないまま、ユキノは強くそう思った。

 理解できなくても、意味不明でも、間違いなく今のリアルな感情だ。

 いつの間にか自分の手が、りほの背中にすがりつくように回されている。それがひどく自然なことのように思えるのが、不思議でおかしかった。

「ユキ・・・」

 ユキノの髪に顔を埋めて、りほは深く息を吐いた。

「・・・りほちゃん」

「私はこの世の中も、この世界以外でも、全てのことはどうでもいいんだ。・・・ユキだけ」

 りほはユキノを抱く腕に力を込めた。

「誰が何を言っても、私をどう思っても関係ない。興味ない」

だから、と、りほは言った。

「私の言葉だけを聞いて。私以外の誰かが何を言っても信じないで欲しい」

 見上げると、りほの目はまた揺れていた。悲しげな黒。そして青だ。

「・・・悲しいの?」

 思わずユキノが聞くと、りほは少し考えて微笑んだ。

「嬉しい・・・こんな感情は忘れかけていた」

 こつんと、ユキノの額に額をぶつける。思わず目を閉じたユキノの唇に、ほんの一瞬、りほの唇が触れた。

「!!・・・りほちゃん!」

「返事は?」

再び、りほの整った顔がユキノに接近する。

「この先、誰が近づいてきても私以外の言葉は信じない」

「はいぃっ」

 ユキノは一足飛びにりほから離れると、裏返った返事をした。 

「・・・これくらいなら許されると思わないか?」

いつもの冷静な表情に、少しだけ苦笑をうかべて。

 りほが振り向いた先には、僅かなドアの隙間からじっと中を覗き込む、あかねの姿があった。

「私に聞かないでくださいよ」

 そして、ため息と共に扉は閉められたのだった。

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