1.雨上がりの遠吠え


最後に人として朝を迎えたのはいつだっただろうか。


少なくとも、その日は自分にとって普通の朝だったはず。これっぽっち1ミリも、こんな事になるなんて考えていなかった。


いや……いつもと違ったのは、強いて言うならば、その日の夜、珍しく終電を逃してしまった事くらい。……だろうか。




***




「くそっ‼︎普通に考えて今回の発注ミスはあのクソ上司のせいだろ‼︎」


目の前で電車の扉が閉まる。

駆け込もうとしたが、手遅れだった。


「最悪だ……」


家から会社まで電車で1時間。

決して給料が良い会社ではない為、タクシーを使って帰るという無駄金を使う手段は毛頭考えてはいない。終電にさえ間に合えばどんなに家から距離がある職場で働こうが別にいいと思っていた。

だからどれほど残業が続こうが、家に帰る事を糧に、あのふかふかなベッドで寝る事の為に、毎日上司から押し付けられる仕事を黙々とこなしていたわけだが……。


「……最悪過ぎる」


明らかに、帰り際に押し付けられた仕事は俺1人で終わるようなものではなかった。


「…クソハゲ上司が」


いや、あの人ハゲてはないけど。もういっその事ハゲろ。


「……タクシー……使うか?いやでも……」


スマホを覗き、駅から家までのタクシー料金を調べてみるが、あまりの高さに愕然とする。


(ネカフェで泊まった方がマシか……)


遣る瀬無い気持ちを抱きつつ、駅を出た。

正直もう歩きたくなかった。とにかく早く寝たい。

イライライライラしながら駅近くのネットカフェに向かった。


「満席⁉︎」


「申し訳ございません。予約をしていただければ、3時間後にご案内する事は出来るのですが……」


「3時間後……」


(最悪だ……)



思い返してみると、この日って結構最悪だった。

終わりが見えないような、ましてや誰から見ても上の者が悪い仕事のミスの後始末を押し付けられ、終電には乗れず、頼みの綱のネカフェにも3時間後じゃないと入店出来ない。体はヘロヘロ、激しく眠たい。



「またのご来店をお待ちしております」


店員のそんな些細な言葉にさえも怒りを覚える。


「はぁ」


もう何度目になるだろうか。深いため息がこぼれる。

誰かが「ため息をつくと幸せが逃げる」とか言っていたけれど、そもそも幸せとは一体なんだ。

定時にきちんと仕事を終える事が出来るのが幸せか?終電に乗り遅れない事が幸せか?ネカフェに入店する為に3時間も待たなくていい事が幸せか?


今までため息を一度もしなければ、そのどれか一つ、小さな幸せが叶ったのだろうか。


なんて、そんな事がその時頭の中に駆け抜ける。



「何が幸せは逃げるだよ」


くだらない。他人に言われた一言で幸せとはなんなのかなんて。考えている自分が気持ち悪い。


今の自分の状況と、メルヘンチックな事を考えている自分に腹が立ち、その日一番大きなため息を夜空目掛けて吐いてやった。

そして、ヘロヘロになる足で、駅前の時計台のベンチに腰をかける。


(……何やってんだ俺)


そして突入した、自分哀れみモード。


4年前に、今の会社、KANNAに転職した。

元々は美容師だったのだが、生まれつき目つきも悪くおまけに愛想も無い、客に対しお世辞すらまともに言えなかった俺は当時働いていたサロンのオーナーに言われた。


「技術は確かなんだけど、人柄がね…君、美容師向いてないんじゃないかな」


接客業に最も必要なコミニュケーション能力。

それが著しく欠けていると指摘される事はそれまでに何度もあった。


だけど、どうして他人に向いているだの向いてないだのとやかく言われなくちゃいけないんだ。完璧な施術さえ出来れば、誰も文句は言わないだろ。どうして客の顔色をいちいち伺いながら仕事をしなくちゃいけないんだ。


なんて、堅物ひねくれ者が考える事を俺はネチネチと心の奥底で思っていた。


だってそうだろ。仕事は完璧にこなしていた。それで文句を言われるのなら、それは僻みだ。



「……なんて」



一番他人に対して僻みを持っていたのは俺自身だ。相手にとって最高のもてなしが出来るのが、当時俺が憧れていた美容師というもの。

笑顔で接しているつもりでも、相手にとって俺は感じの悪い人間で、どんなに直そうとしても、この生まれつきの目つきの悪さはどうにもならない。

言葉遣いや振る舞い、全部見直して頑張っていたけれど、とうとう美容師は向いてないと言われてしまった。


別に、誰かにそう言われたからといって、簡単に諦めたりするつもりはなかったけど、店に悪い印象が付くと言われ、追い出されるかのように今の職場へ転職を勧められた。


今は美容師ではなく、主に美容用具を取り扱う会社の営業として働いているが、営業の仕事も、正直俺には合ってないんじゃないだろうか。



「……え……なんだ?」


深いため息を吐くと、鼻先に雫が落ちる。

空を見上げてみると、ポツリポツリと雨が降り始めていた。


(ほんと最悪……)



宿も無し。傘も無し。

天気予報では雨が降るなんて一言も言ってなかったというのに、どうやら本当に今日は運が無いらしい。


辺りにいた人々がその場から立ち去る中、俺はもう動く気力もなかった。

そんな時だ。ベンチの下から物音が聞こえた。


不思議に思い、ベンチの下を覗き込んで見ると、その暗闇で光る二つの目と目が合った。



「うわぁあっ‼︎」


突然飛び出して来たそれに、驚いて飛び上がる。


「……って……なんだよ……ただの犬かよ……」


ぶるりと体を震わせながら、俺の目の前に座る1匹の犬。泥だらけで、毛並みもボサボサで、目の上に黒いマロ眉と、前足だけ足先が白いまるで靴下を履いたような1匹の犬。


クゥーン、とその犬が俺を見上げて首を傾げる。



「悪いな。今は何も食いもん持ってないぞ」



(野良犬だろうか。首輪も無いし……)


あっちに行け。と、追い払おうとしたが、犬は一向に俺の前から立ち去ろうとはしなかった。


「お前飼い主いないのか?」


「クゥーン」


「腹減ってるのか?」


「クゥーン」


「寝床が無いのか?」


「クゥーン」


「クゥーンしか言わねえのか」


「クゥーン」



はぁ。何をしているんだ俺。と犬に語りかけてる自分が痛くてたまらない気持ちになる。



「俺とおんなじだな」


雨に打たれ、金欠な為飯にありつけず、家に帰る事が困難なこの状況の中では、俺は目の前にいる犬と同じなのかもしれない。


いや、俺は家があるけど、こいつには無いのか。



「犬っていいよな。羨ましい」


働かなくてもいい。愛らしいその姿で誰からにも愛される。言葉も分からないから人間に言われた一言で傷付いたりする事もきっと無いだろう。

クソ上司に仕事押し付けられる事もない。電車に乗る必要も無い。


何にも縛られずに生きていけるそんな生活って、一度は味わってみたい。



「じゃあ、なってみるか?」


「そうだな。一度はなってみたいな」



犬になったら何をしよう。そうだな。毎日、陽の当たる温かい場所で昼寝でも……


「……って……」


(待て……今、誰が喋った?)



ぞくりと背筋に悪寒が走る。

今ここには、俺と泥だらけの1匹の犬しかいないはず。



「なってみるかと聞いたんだ」


「………え」


まさかそんなありえない。

そんなはずはない。だって犬が喋るなんて。


「おい人間‼︎」


「にょわぁっあああああああっ‼︎」


突然胸に飛び付かれ、至近距離で語りかけられる。

人間とは不思議な体験をした時思いもよらない奇声を発してしまうらしい。


「い、いいいい犬がしゃべ、喋っ」


「犬が喋る事がそんなにも不思議な事か」


「ひぃっ」


黒いマロ眉がヒクヒクと目の前で動く。

何が起こっているか訳が分からなくなった俺はそのまま硬直してしまう。


「人間、お前が今の人生に疲れたと言うのなら、ボクが代わりにお前の人生を生きてやろう」


「へ……」


「なんだ、人生に疲れたのではないのか?さっきからため息ばかり吐いていたではないか」


「………あ…え、と」



まぁそりゃ疲れたからため息は吐いてたけど、何も人生に絶望したとかそう言うのでは……



「お前はボクが羨ましいと言った」


「……は、はぁ……」


「だから、ボクの人生をお前にやる」


(ちょ、ちょい待ち。さっきから何言ってんだこの犬は……っ)


混乱する中、ペチン、と犬の前足が顔面に当たる。

プニプニの肉球がまぶたを刺激する。



「ちょ、ちょちょちょちょっと待て‼︎何をする気だ⁉︎」


「うるさい‼︎ボクはもうお前に決めた‼︎」


(決めたって何を⁉︎)


「ちょ、ちょっっ‼︎」


思い返してみなくても、その日って物凄く最悪な日だった。

突然現れた喋る珍犬は、「ボクと人生を交換しよう」と叫びながら、プニプニの肉球を俺の顔に押し付け、その瞬間、まばゆい光が俺を包み込み、俺は意識を手放した。



「……ぅ……」


そして目覚めた時。

いつもより低いところから見上げる雨上がりの空と、水溜りに映るやけに毛深い自分の姿を見て、俺は遠吠えをあげた。


(な、なんじゃこりぁぁぁああああああ‼︎)

「アォォォォォォォオオオオン‼︎」













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