今宵の月

ナイトメアを迎えて、2週間近く経った。

そんな日の夜、俺はあの闇ルートの店に行き、酒を嗜んでいた。

完全秘匿性でありつつ、食材も買え、酒も楽しめる、ここがあればすべてが満たされる。


ジャズが流れた落ち着いた店内で、ウィスキーをロックで嗜んでいると、向かいの席に女性が座ってきた。

顔はもちろん見えないが、立ち振る舞いや、手ですぐにわかった。

俺はいつも誰かと相席にならないように、一番奥の最も暗い席に座っている。

こんなキノコが生えてもおかしくない、ジメジメとした空間には誰も近づかないというのに、この女性はどうやら、相当もの好きらしい。


「初めまして。今宵の月はとても美しいのです。外のテラスで、私とご一緒に飲みませんか?」

「……いや、遠慮する。誰かと飲む酒は不味くて仕方ない」

「あら、私と飲むお酒も不味いというのかしら」

「お前に限った話じゃないから安心しろ」


俺がここまで他人と会話するとは。

もしかして、ナイトメアと触れ合って、俺は麻痺しているのだろうか。

俺はカウンター席に移動して、あの女性を忘れるまで飲んでいた。

あの女性の視線はあれ以降、ずっと感じていた。


移動する際に目にした、黄緑色のボブの髪型に、育ちのわかる質の良い洋服。

そして、俺の思った以上に、若い容姿だった。

もしかしたら、未成年なのかもしれない。

そこがここの怖い所。

完全秘匿性で、未成年の子供も出入りしても、注意も何もできないのだ。

過去に数回、未成年の者が入ったという疑いを掛けられたらしいと巷で騒がれていた。


気分が悪くなるまで飲み明かした。

今すぐ吐き出さないと、急性アルコール中毒になってしまうかもしれない。

俺は店のトイレを借りて、ひたすらアルコールを抜いていた。

ある程度抜いても、目は舞うし、足取りはおぼつかない。

とうとう、俺は帰り道の途中、倒れてしまった。



目を覚ますと、見覚えのない景色が広がっていた。

とりあえず、俺の家ではないことは確かだ。

天井には小さな花が一定間隔で散りばめられており、壁も同じように散りばめられている。

ゆっくりと体を起こし、部屋を見回すと、どうやらここは女性の部屋らしい。

たくさんのぬいぐるみに、手入れの行き届いた観葉植物、可愛らしく配置されたアンティーク。


俺はいち早くここから出ようと、布団を降りようとした。

その時、目の前にピンク色が広がった。


「お主、見らぬ顔じゃなぁー!もしや、我が妹、一式ひとしきの婿となる男か!?」

「う、うあっ!」


ピンク髪の女の攻めの勢いに思わず、変な声が出てしまった。

その声で、女は腹を抱えて笑いこけていた。

クソッ、俺だってこんな声を出すつもりなんて全くなかったんだ。


俺はこの部屋の大きな窓を開けて、ベランダへと飛び出した。

そこから飛び降りようと下を見てみたが、想像以上に高い。

俺の想定ではあるが、4階分の高さはあるだろう。

ここから落ちたら、死にまではしないが、病院送りは確実だろう。

他の脱出経路を探すが、ひとつしか存在しない。


それは最も危険な、この部屋の出入り口。


開けると考えただけで、心臓が圧迫される。

開けること自体は平気なのだが、その先に誰かが待ち受けているかと考えていたら、脈打ちが速くなるのだ。

あのおてんばなピンク髪の女は、まだ笑い転げている。


狙うは今しかないのだが、自分の体がベランダから一歩も動こうとしない。

何でこんな時まで、チキンなんだ俺!


「なんじゃ、お主はここから外へ出ようとしとるのか?」

「ぬああ!!!!」


さっきまで笑い転げていた、おてんばな女は再び俺の前に現れた。

そのまま仰け反ったため、危うく落ちそうになったが、咄嗟に柵に掴まり難を逃れた。

女は「ぷくく」と変な笑い声を上げつつ、下を見下ろしながら語り出す。


わらわも昔はよく脱走していたものじゃ。しかしのぉ、脱走が酷くなって、怒ったお父上が、妾の階数をどんどん上げてしもうたんじゃ。じゃからな、今の高さになってしもうたんじゃ。さすがに今の高さからじゃあ、脱走は図れんて」


ということは、このおてんばな女は、3階までは普通に脱走していたということなのか。

この女はもしかすると、猫なのかもしれない。

俺と女の間は一定間隔が保たれている。

正直この間隔でも、動機や息切れ、目まいを引き起こしている。


「そう言えばお主、名前聞いとらんかったな。妾は、兎音とねじゃ」


なんで、こんな2度と会いたくない女に、名前を教えなければならないのだろうか。

しかし、名乗られた以上、こちらも名乗らないと、という思いに入り浸ってしまう。

自分は人と関わりたくないというのに、そういった礼儀はきちっと両親から躾けられたようだ。

両親が誰なのかは、さっぱりわからないのだが。


兎音に名前を教えると、兎音は興味津々といった具合で俺に近づいて来た。

これ以上近づくな、と注意を促しても、聞く耳を持っておらず、じわじわと確実に距離を詰めてくる。


「やめろ!それ以上近づく……うわああああ!!!!」


自身の反射神経で、どうやら俺は微かな逃げ場所を求め、最後の柵をも乗り越えてしまったらしい。

そして、俺は今、空中浮遊をしている。

いや、浮遊はしていないな、落下している。


兎音が俺に向かって手を伸ばしている。

しかし、俺はその手を掴まず、流れに身を任せきっている。


地面に着いたときに、俺の体は一体どうなっているだろうか。

骨折か?内蔵破裂か?それとも、打ち所が悪く、あの世に召されるか?

どの結末でも、まあいい。


もう、こんな世界、疲れた。



ながれ!!」


兎音の叫ぶ声で、顔を出す1人の少年。

最悪なことに少年が出てきた場所は、俺が落ちる予定の場所だ。

その少年と自然と目があった。

それは地面に着くか否かのタイミング。

少年には可哀想なことをしてしまった。



もう、落ちているはずだった。

そのはずなのに、なぜか衝撃が走らない。

閉じていた目をゆっくりと開けると、俺は透明のジェルのようなものの上に居た。

ハッとしつつ、そのジェルに触れてみると、ジェルは破裂し、全身がびしょ濡れになった。

どうやらジェルの中身は真水のようで、べた付きは無かった。


俺を奇跡的に救った少年が、改めて屋敷から顔を出した。


「大丈夫ですかー?」


少年の間の抜けた喋り方に、拍子抜けをする。

きっと、この屋敷では、先ほどのような行動は日常茶飯事のようだ。


俺は口パクで、「ありがとう」と伝えると、走り出した。

こんな屋敷にこれ以上、世話になってたまるか。

目の前の門を飛び越えれば、きっと俺の知っている世界に戻れるはずだ。


「流!」


違う声色で、再びあの少年の名前が叫ばれた。

少年の「ひいぃぃぃ」と怯えるような声も聞こえた。

その瞬間、俺の目の前にはあのジェルの壁が出来あがった。

あのジェルと同じ仕組みなら、触れれば消えるはずだ。


俺は手を伸ばし、ジェルに触れた。

すると、ジェルが俺の手を呑みこんでいく。

そのまま、体が吸われるようにして、どんどんジェルの中へと取りこまれる。

このままではまずい。

そう、判断は出来ても、抵抗できない。


気が付けば、俺はジェルの中で、水の感触をしっかりと感じていた。

気のせいか、息ができる。

口を開けば、空気の泡が出るというのに、息苦しくない。


不思議な体験をしていると、屋敷から3人がこちらに向かってやってくる。

流と言われた少年、おてんばな女の兎音、そして、昨晩出会った黄緑色の髪をした女。

兎音が「良い様じゃ」と言いながら、見た目からは考えられない、ゲラゲラと下品な笑い声を漏らす。

そんな兎音を見て、溜め息を漏らしつつ、俺に近づくのは昨晩の女だ。


「すみません。状況がわからず、パニックに陥っていたでしょうね。私は兎音の妹、一式です。あなたのお名前は、姉から聞きました。今回のことに、悪意などはございません。ただ、昨晩あなたが路上で倒れていたので、手当をと思いまして」


一式は、心配の目を俺に向けている。

そんな目を俺に向けるな。

逃れられない空間で目が合うと、逃げ場がなくて呼吸が乱れる。


「あの、一色さん、オレっちの見たところ、あの男性、人と触れ合うのが苦手見たいですよ?オレっちたちが、近づいた時から、心拍数が異常なんです」

「……談耳さん、そうなんですか?」


少年が俺の思いを一式に伝えるとは思っていなかった。

この少年はもしかすると、この世界で稀少とされた魔法使いなのかもしれない。

あの落下の際に、瞬時に作り上げた奇跡は、魔法としか言いようがない。

魔術師というのも存在するが、その者たちではあの奇跡は成し遂げられない。


そのことについて、少年には感謝すべきなのか、悩ましい。

しかし、彼がいなければ、酷い目に合っていたことだろう。

一式に目を向けて見ると、答えを求めるような目をしている。

俺が大きく首を縦に振ると、一式の目は急に寂しさを物語っていた。


「そうですか。それは失礼しました。こう話すだけでも、あなたを苦しめているのですね」


その後一式は、流にジェルの壁を破壊させ、俺を解放させた。

一気に大量の水が霧散し、俺はその場にゆっくりと着地した。

3人を背にし、屋敷の門が開けられているのを確認すると、勢いよく走りだした。



「また、次、お会いできる時に」

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