色彩

Nors

ガラス玉


この日は昨夜から朝方までしきりに雨が降っていた。

遠方から聞こえる馬車の音。

この街にとって、不吉な知らせを告げるその音は、俺の家の近くで止まった。

窓の外から見える、ボロ布を被ったホームレスの男が、何事だと顔を上げた。

俺はただ何かに怯え、外から見えない位置で蹲っていた。


「な、なんだ!」


男の怯え、怒鳴る声が聞こえる。

あいつらに不用意に関われば、確実に殺される。それは、幼い子でも知っている常識。

人間というのは自分の数限りある居場所を守る習性があるようだ。

そのため、男はあいつらと取っ組み合いの喧嘩を始めた。

無情にも、男の怒鳴り続ける声はすぐに止み、代わりに雨の音が俺の耳を支配した。



同日の晩は、朝方とは違い、カラッとした晴れ模様だった。

いくつもの星が煌めき、瞬いて、空いっぱいに散らばっている。

これでも少ない方だと、ある者の伝記に綴られていた。

その者は、俺たちのような薄汚れた世界で生まれ育ち、どうしたものか城の者から拾われ、生死を問う争いから、薔薇色の人生を歩んだと、記されている。


この伝記を手に入れたのは、数年前。

俺がこの街に身を潜めた時、たまたま拾ったものだった。

読み進めて行くうちに、嫉妬心からか、憎たらしく感じた。

しかし、人生は自分次第で変えられるという希望に満ちたのも確かだった。


俺は家から出た途端、真っ黒のフードを深く被り、目線を下にして、歩き出す。

この時間帯、この街をうろつく人間は数少ない。

寧ろ、その者たちを避けるために、人間は夜、屋内に身を隠している。

何故ならば、目が合えば喧嘩になったり、道端で苛め抜いた胃からリバースしたり、妙なフェロモンを売りにして勧誘してきたり、明らかに怪しい薬物を取引したり、と。

世も末だと思わざるを得ない。


俺はその手の盛んな道は避け、裏路地から入り組んだ道を通り、食料の調達に行った。

さすがの俺でも、食料が底を尽きたら、死活問題になる。

この入り組んだ道は、俺が見つけた人避けの道なのだが、初めの内は帰りの際に、家まで辿り付けなかった。

3回ほど痛い思いをして、ようやく覚えた道のりだ。


俺の利用している店は、闇ルートを活用している。

そのため、貴重な食材が所狭しと並んでいる。

まあ俺はそんな金を持ち合わせていないので、街の八百屋で並ぶ物の流し物を安値で買っている。

俺がこの店を利用している理由は、それだけではない。

この店は完全秘匿性なので、客の顔どころか、店主の顔すら見たことがない。

この点を気に入り、俺はいつしか常連になっている。


袋いっぱいに食料を買い、帰宅しようと入り組んだ道を通っていた。

その途中、前方に金髪の少女を見かけた。

こんな夜中に少女が出歩いていれば、人身売買の連中が言葉巧みに連れ出すと言うのに、少女は隠れる素振りもなく、何かを探していた。

少女と目が合い、俺はすぐさま視線を地面に向ける。

すると、その少女であろう足音が、俺に向かって一歩一歩と確実に近付いている。

俺は少女を気にしないように、自然な動きでその場をやり過ごすことにした。


少女は俺の顔を少し見たようだったが、何事もなくその場はやり過ごせた。


もしも俺が社交的だったのならば、気付いていたであろう。

この街に金髪の少女は1人しか居ないと。

しかし俺は役場の人と話すのも嫌なほどの、人間嫌いだ。

そんなことわかるはずもなかった。



少女とすれ違ってから、俺は食料の入った袋を担ぎ直し、少女から逃げるように足早に、一心不乱に家へと帰っていた。

やっと我が隠れ家が見え、ふぅと安堵の溜め息をついた。

それと同時に、担いでいた袋が地面に落ちた。


俺の家の前に、人形のように座り込んだ真っ白な髪の長い少女がいたからだ。

こんな真っ白な人間、生まれてこの方、見たことも、存在さえも認識していなかった。



何故だろう。

自分の体は、少女を寒さから守るために、自分のパーカーを着せていた。


何故だろう。

この街では、貴重なリンゴを少女に差し出している。


何故だろう。

俺の家へ、少女を連れ込んでいる、自分がいる。



そして、我に返った時、俺は目の前の少女を見て飛び退いた。

自分の家に人を入れるなど、言語道断。

役所の者や、城の者でさえも、家に立ち入らせることなど、したことがないというのに。

あの時の俺は、正気ではなかった。

ただそれだけがはっきりとわかった。


遠くから少女を観察していると、手元にある貴重なリンゴにかじりつきもせず、ただ一点を見つめていた。

その視線の先には、1つの小さなゴミ箱。

俺は気になって、ゴミ箱を見てみたが、ただのゴミ箱でしかない。

ゴミ箱の位置を変えて、少女の視線を再び見る。

しかし、少女の視線は同じ場所を眺めていた。


しばらく、観察していたが、同じ場所を見つめるばかりで、その他の行動はひとつもとらなかった。



ここ2日間、少女は何もせず、一点を見つめるばかり。

食事を取らなければ、睡眠も取らず、排せつも行っていない。

さすがに不気味さを覚えた。

俺は少女と適切な間合いを取りながら、少女に話しかけた。

他人からしてみれば、どうしてそんなに離れているのと、突っ込まれそうな距離だ。


「そのリンゴ、食べないのか?」

「………」


返事が返ってこない代わりに、視線が俺に移った。

少女の目は、俺を見ているというよりは、その先を見ているようで、目が合うことは無かった。

ガラス玉のような、虹彩の色をした瞳。

艶のある長い白い髪。

服はみすぼらしいものだったが、そこから顔を出す玉の肌。


言うならば、人形。

しかし、あまりにも人間。

しかし、人間らしいことをしない人形。


「お前、名前は?」

「………」

「あぁ、そっか。相手に名前を聞くときは自分からって言うよな。俺は、談耳って言うんだ」

「……………」


か細い高めの声で、少女は自身の名前を呟く。

しかし、俺との距離は大きく開いているため、何と言ったか聞き取れない。

読唇術なんて、こんな人嫌いな俺が出来るわけがない。

名前を聞くには、少女の声が届く距離まで近づかなければならない、ということになる。


じりじりと距離を詰めて、少女と同じ部屋に入る。

そう言えば、自分は昨夜からこの少女に対して、嫌悪を感じていない。

日頃なら人とすれ違うだけでも感じるというのに、不思議な少女だ。


俺は少女に再び同じ問いを投げ掛ける。

すると、少女はガラス玉のような虹彩の色をした目で、俺の先を見直して、再び口を動かしてくれた。



「……ナイトメア……」



次は微かに聞こえた。

少女の名前は、ナイトメア。

そう言えば、あの伝奇小説のタイトルも、ナイトメアだった。


俺はすぐに小説を探し出し、城に入った時の話からナイトメアのことについて、詮索してみた。

しかし、タイトルがナイトメアというだけで、小説内には子供の話など一切触れられていない。

俺の予測はどうやら、間違いだったらしい。


「ナイトメア、お前はどこから来た?」

「………」


ナイトメアは口を固く閉ざしている。

そして、視線をまた、どことも言えぬ、壁の一点に向けた。

どうやら、どこから来たかわからないようだ。


「お前、食べたり、飲んだり、寝たり、トイレに行ったり、しねえの?ここで良いなら、勝手にしてくれても構わないぞ?」


俺にとっては最大級に優しく、気を使っているというのに、ナイトメアはうんともすんとも言わず、一点を見つめるばかり。

喋る気がないのなら、せめて何か反応を見せて欲しいものだ。

俺はそれ以上話す気も起きず、そのまま夜の街に溶け込んで行った。

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