12

桜色の艶めく爪の細い指先がオレの前髪に少し触れて、首を傾げる美雪ちゃんが


「……濡れてる」


と呟く。


「あぁ、コレ?ちょっとね」


まさか言えないようね。女と手を切るときに、キレられてビールをぶっかけられたなんてさ。


「雨、強くなってきましたもんね。よかったら、コレ使ってください。」


そう言うと、美雪ちゃんはバックから綺麗にアイロンのかけられた白地にピンクの花柄のハンカチを取り出して、そっとオレの濡れたままの前髪を拭いてくれた。


「あ、大丈夫だから」

「ダメです。風邪引いちゃいますよ。もう春って言っても夜は冷えますから」


美雪ちゃんは「ね?」と念押しをすると「ありがとう」というオレにふわっと笑う。


少し髪を触られただけなのに気持ちよかったから、柄にもなく……オレは大人しくただそのまま身を任せていると、その手が首から胸元にかけてスライドしたから名残惜しくも手を重ねて、アクションを起こそうとした。


だけどさ、そんな潤んだ瞳で見ないでよ。今までみたいに軽く口説けないじゃない?


「ありがとう、もう大丈夫だから」

「はい。よかったです」

「あのさ、これ洗って返すから」

「大丈夫です、気にしないでください」

「洗って返すくらい男にも出来るんだよ?それとも、そういうことされると迷惑?」

「そんな、迷惑だなんて」


だよね、大抵こうなるでしょ。


「じゃあ、洗って返すから」

「分かりました。かえって気を遣わせてごめんなさい」

「いや、オレの方こそありがとう。今風邪とか引きたくなかったから助かったよ」

「それなら…よかったです」


可愛いな、この子。

まぁ、そんなことこの店に会言った瞬間から分かってはいたんだけど、立ち振る舞いや仕草が、今までオレが手を出した子たちと明らかに違ってて、いや、手出したいんだけどね、何となく一筋縄でもいきそうにないし、躊躇する。


美雪ちゃんは、自分の席に戻って席に着くと足を揃えて座るとオレンジジュースのストローにまた唇を寄せた。


「美雪ちゃんは、大学生?」

「……あの、どうして私の名前を?」

「ごめん、さっきマスターがそう言ってたから」

「あ、そういえばそうですよね。はい、この春で大学4年です」

「そっか、よくこの店には来るの?」

「はい、初めはこういうお酒を飲むお店が少し恐かったんですけど、大学の先輩が教えてくれてから来るようになりました」

「そうなんだ、今日は1人?」

「待ち合わせです」

「彼氏?」

「はい」

「そっか」


はぁ……残念。


まぁ、そうだよね。いるよね、彼氏。

こんな可愛くて良い子、ほっとくわけがないじゃない、世の中の男たちがさ。


現にまだ出会って僅かな時間しかたってないのに、気持ち持ってかれそうになっているもんね、オレ。

しかも、「彼氏いるの?」の質問にそんなに真っ直ぐ「はい」って言うなんてね、むしろポイントは高いじゃないの。


「その彼氏は幸せ者だね、こんな可愛い子が彼女で」


純粋に心からそう思った。


「私と付き合って、少しでも幸せに思ってくれているなら嬉しいです」

「えっ、思ってるでしょう?」

「彼、大学の先輩で在学時代から仕事をしていて、常に予定びっしりで忙しい人なので、そう思ってくれているなら嬉しいなって……」


美雪ちゃんにそう思ってもらえてるだけで、幸せに決まってんじゃない。という言葉と一緒にぬるくなったビールを飲んだ。

だってさ、このタイミングで美雪ちゃんの携帯が鳴って、その液晶画面を見る表情が、パッと華やいで更に可愛くなったから無性に悔しくなった。


「ちょっと、ごめんなさい」


そう言って、オレにわざわざ了承を得ると席を立って小さい声で電話の相手であろう彼氏に「うん、分かった」と伝える。


「彼氏着いたの?」

「はい、今日車で来たみたいでもうお店の前に居るって連絡だったんですけど……」

「……あぁ、マスターね。オレから伝えておくよ。」

「でも……」

「いいんだって、あのおじさんは美雪ちゃんのファンなんだから怒らないよ。それにチーズケーキ食べたいしね、オレ。大好物だから」

「そうなんですか?……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」

「いいよ、行ってあげな。彼氏のとこに」

「ありがとうございます」


美雪ちゃんは、そういうと申し訳なさそうに財布を取り出してお金を出そうとしたから


「ちょっと、いいって。お金がそこに置いてあったら、アレ?この金は一体なに?ってなるよ?あのマスター空気読めっこないんだから」

「……でも」

「オレさ、御礼したいの、美雪ちゃんに。言葉だけじゃなく態度でね。」

「そんな、私……大したことしてないのに」

「じゃあさ、笑顔で、ありがとうって言って?」

「え?」

「それが欲しい。オレはね。美雪ちゃんのありがとう、ダメかな?」

「ダメじゃないですけど……」

「じゃ、言って?」


「あれ?美雪ちゃんは?」


今になって、マスターはチーズケーキにアイスまで添えて戻ってきたわけだけど、時すでに遅し。オレはカウンターに置いたままになっていたハンカチをポケットにしまい込んで何事もなかったかの様に繕った。


「彼氏が車で迎えに来たみたいで降りてったよ、チーズケーキちょだい」


おいおい、明らかに肩を落としてシュンってなんなよ。あんたと美雪ちゃんじゃ、年の差10はあるでしょーが。

それにね、ガッカリしてんのはおっさんだけじゃないのよ。

はぁ……。

何が楽しくて、おっさんと2人で女子力高めのチーズケーキを食べてんのよ。


本当は、美雪ちゃんがどんな男と付き合ってるのか気になった。

だけどさ、美雪ちゃんとオレの繋がりと言えば、ハンカチとこの店しかないわけで。だから、この細い線が消えないように常にクリーニングに出したハンカチをカバンに入れて店に通った。


オレの胸を高鳴らせた

「ありがとう」にもう一度会うために。


だけど、東京って狭いよね。


そんなオレの気持ちは、数日後意外な形で現実となる。

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