6

さすがに酔いが回ってきたのか身体がフワフワしてきた。

よく考えれば、大して量は多くないにしても接待の時から飲み続けているから

息をついて醒まそうとする。


「大丈夫?酔っちゃった?」

「いえ、大丈夫です」

「まぁ、状況次第では酔ってくれた方が良いこともあるんだけどね?」


そういいながらも、一ノ瀬さんは席を立ち、「待ってて」とだけ言うと

暫くして、手にミネラルウォーターとコップを手に戻ってきた。


「ありがとうございます」

「いいえ、どういたしまして」


お水が体内でアルコールを中和してくれているのか、少しだけすっきりとした。


「今回はソレに該当しないから。忘れてほしくないからね、今夜のこと」

「はぁ……」

「明日は?休み?」

「はい」

「そっか、ならよかった。今になって明日仕事ですって言われたら罪悪感が湧いてくるよ」

「……でも、もう帰らないと。終電がなくなるので」

「そ?じゃあ出ようか」

「はい、あっ……」


一ノ瀬さんは、財布を出した私を見て笑うと、上着を着て、黒のリュックを背負う。


「もう終わってる。支払い。」

「え?いつ?」

「さぁ?行くよ」

「……はい」


私は、テーブルの上にあるミネラルウォーターを見ながら御礼を言った。


「一ノ瀬さん、ご馳走様です」

「いーえ。送るよ」

「大丈夫です。電車で帰れる時間ですから」

「じゃあ、電車で送るってことね?」

「そんな、一ノ瀬さん電車になんて乗っちゃだめですよ!バレちゃったらどうするんですか!?パニックになっちゃう」


想像したら事件沙汰。どう考えたってリスクがありすぎる。

だって、外を歩くだけでも帽子を被ったりマスクしたり気を使っているのに、金曜日の夜の満員電車なんて有り得ない。


「いいんじゃない?たまには電車も」

「良くないです!」

「じゃあ、今回はタクシーで送らせて?」

「……分かりました。」


結局、一ノ瀬さんの手の平で転がされている気がする。普通は男女逆の立場で使われるのに、今の状況はそれにぴったりと当てはまると思った。

だって、慣れた雰囲気で、お店の裏口から出ると、既にタクシーが停められていて、もう決められていたあらすじに、さっきまでの電車のやり取りを思い出して恥ずかしくなった。


「家、どこ?」

「世田谷区の経堂です」

「いや、住所でしょ?こういう時は」

「経堂駅から歩いてすぐなので」

「じゃあ、そこからナビしてあげてね、運転手さんに」


「経堂駅まで」という一ノ瀬さんの声を聞きながら、そっぽを向くと口を尖らせた私が、タクシーの窓に映っていた。

その表情はふてくされていて、可愛いと言われるには程遠い。まるで子どもみたい。

そんな自分を見て少しだけ冷静になると、深呼吸をしてもう一度御礼を言った。


「今日はありがとうございました。急に色々なことが起きて混乱したけど、一ノ瀬さんの言う通り、あのまま千夏先輩と一緒に居るのは辛かったかもしれません。それなのに、ご馳走になって送っていただいて……おかげで少し楽になりました。」


一ノ瀬さんは、強引で自分勝手だけど私が求めていることを把握して自然な身のこなしで接してくれるから、春馬とは全然違う優しさがあって、一ノ瀬さんの存在そのものの魅力でみんなを虜にしている理由がよく分かった。


「次は電車で送るよ」

「もう、本当にやめてください。冗談でも」

「いや、時々乗るよ?オレ。でもね、全然バレないの。案外そんなもんよ」


タクシーのドア枠に左肘をついて、前の車のテールランプに照らされた横顔がゆっくりと私の方へ向くと、目を細めて笑うから、精一杯「そうなんですか」と言った。

特に渋滞もなくて、246から世田谷通りに入ると街並みは住宅街に変わって今日の終わりが近づく予感が濃厚になると、不覚にも寂しい気持ちが込み上げた。


「あの、そこの角を曲がってもらえますか?私の家……経堂駅の手前なので」


そう言うと、私の気持ちが伝わったかのように、一ノ瀬さんは左手を握った。


やっぱり、温かい。


「もう、お別れですね」

「寂しい?」

「はい、少しだけ……」

「……急にくるんだね、素直が」



少しだけ、一ノ瀬さんの耳が赤くなった気がして首を傾げながら、左手を握り返した。


タクシーは私のマンションの前に停まると自動的にドアが開いた。

私たちは名残惜しくも繋いだ手を離して一緒に降りる。


「今日はありがとうございます。とても楽しかったです」

「俺も楽しかったよ、じゃあ、ここで。今夜はさ、最後まで美雪を見送らせて?タバコ、1本吸ってから帰るから。」

「タバコ吸うんですね。私に遠慮しなくてもよかったのに」

「そんな余裕ねぇわ。ほら、寒いから風邪ひくよ?それとも、予定変更してオレを部屋に入れてくれるワケ?」

「では、ここで失礼します。」

「はいはい、じゃあまたね、美雪」


街灯が見届ける中、次の約束もない私たちは

そう言うとどちらからともなく笑っていた。


東京の空は、ビルに囲まれて狭いけど

だからこそ、一ノ瀬さんに会えたのかもしれない。

私はエントランスに入ると、そのままオートロックのパネルに鍵をかざして、もう一度振り返って手を振ると、白い息の中、一ノ瀬さんはそれに応えて手を振ってくれていた。


エレベーターに乗り込んでそのまま部屋に帰って灯りをつけると、現実感が増して妙にセンチメンタルな気持ちになる。リビングにある時計が午前0時を指そうとしていて、まるで夢が醒めてしまう感覚にベランダへ向かうと、カーテンを少しだけ開ける。


「うそつき」


見下ろすと、やっぱり一ノ瀬さんはもう居ない。

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